29この姿で生きる覚悟を決めました
「これで、本当に『宇佐美翼』という人間は、この世からいなくなったということですね。九尾が彼女から僕の記憶だけ消してくれたおかげで、やっとけじめがつきました』
次の日、翼君が悲しそうな、寂しそうな顔で話した言葉に、私の方が泣きたくなってしまった。
「あ、あの、蒼紗さん。何を」
私は無意識のうちに翼君を抱きしめていた。翼君の気持ちは痛いほどわかる。いや、翼君の方が残酷かもしれない。彼は、同棲していた相手から、自分の記憶をすべて消してしまったのだ。私も別れは多く経験してきたが、相手の記憶から自分のことを消してしまったことはない。私の言霊の能力で記憶の消去も可能だろうが、やったことはない。だから、完全に他人の記憶から自分がいなくなる方が辛いと思う。
『翼はこれで、生前の人生での心残りはなくなったようだな。人間として生きていた頃の未練などは捨てておけ。今のお前は、われの眷属だ。人間だった頃のように生きられるはずがない。人間の生活は忘れろ』
「忘れろというのは言い過ぎではないですか!」
九尾の容赦ない言葉に、翼君から身体を離して反論する。確かに人間での生活に未練を残していても仕方ない。彼はもう、宇佐美翼という人間ではなく、九尾の言う通り、彼の眷属「翼」として生きていくと決めたのだから。頭ではわかっているが、実際にそのように言われると、自分のことではなくても、胸が締め付けられそうになる。しかし、翼君は違うようだ。九尾に反論することなく、自分の意見を述べる。
「心配しなくても大丈夫ですよ。僕は一人っ子で、両親は他県にいるので、自分の家族に会うことはまずないでしょう。両親は僕が行方不明ということで、心配はしていると思いますけどね。家族や彼女以外、親しい友人に会えなくなるのは、寂しいことですが、そんなことを言ってはいられません。僕は生きたいと願ってこの場にいるのだから」
翼君は辛い現実を受け入れ、前を向いて生きていくことを改めて決意したようだ。悲しさや寂しさをたたえていた瞳からは、この姿で生きていくという覚悟が読み取れた。
「まあ、塾で働いていると、前の塾の生徒が生前の僕に気付くかもしれません。そうなると、名前を偽装した方がいいんですかね?」
「すでにばれていますけど……」
『名前をそのまま使っているとは、未練たらたらだな。まあ、別にそのままでも構わんだろう。何せ、お前の働く塾には死神もいるし、そこに記憶改ざんできる能力者もおるしな』
ちらりと私の方を見る九尾は、にやにやと笑っていた。
『すでに翼の正体がばれているようだが、ふむ、そいつらは……。なかなか珍しい能力者の様だな』
私の心を読んで、感心している九尾に疑問を覚えた。
『翼の正体を指摘したその三つ子とやらは、おそらく……』
もったいぶったように言葉を止めた九尾は結局、三つ子が能力者であり、ばれても問題はないということしか教えてくれなかった。肝心のどんな能力を持っているかまではわからずじまいだった。
「塾のこと以外では、ふむ、翼はもう、心配はいらないようだな。それにしても、どうしてお前は狙われていたのだ。昨年の文化祭であの女と別れの挨拶をしてきたのだろう?」
「それは……」
言いにくそうにしていた翼君に代わって説明したのは狼貴君だった。狼貴君は、その場にずっといたが、黙って私たちの話を聞いていた。
「スマホだ。新歓コンパの時に拡散されたあの画像を頼りに追ってきたのかもしれない」
「えっ!ということは」
「オレも最近、誰かに狙われている気がする」
狼貴君の言葉に警戒が強まる。翼君が襲われた今、狼貴君も誰かに狙われて、今回のようなことが起こる可能性があるということだ。
「狼貴、お前は一体誰に追われている」
九尾の質問に狼貴君は簡潔に答える。
「たぶんだが、二人いるだろう。一人はオレの甥。紅犬史。もう一人は、蒼紗の大学の後輩だ」
「鬼崎さん!」
「それ、僕も感じていました」
犬史君がすでに狼貴君を見つけ出し、追っていたことに驚いたが、それより、鬼崎さんが狼貴君を追いかけていることに衝撃を覚えた。
「おそらく、鬼崎が犬史にオレの存在を吹き込んだろう。蒼紗の話を聞く限り、オカルト系が好きな奴らしいから、オレ達に興味を持っているのだろう」
『そうか。蒼紗、お前のところの教授とやらに、協力を仰いでいる可能性があるのか。厄介なことになったな』
「オレのことは問題ない。いずれ、あいつには別れを告げないといけないと思っていた。だから、九尾、お前は手を出すな」
狼貴君の言葉に九尾は頷いたが、納得はしていないようだ。
「それで、お前はその甥をどうするつもりだ。このまま追ってくるのを見過ごすわけにはいくまい。話をするのはいいが、話し合いだけで解決するのか?話し合いだけでは済まないと、お主の顔が言っているぞ」
「オレは」
「一度だけあって、別れを告げたらいいのではないですか?もし、それがダメだとしても、会って話すくらいいいと思います」
「そうですよ!もし、必要とあれば、僕たちが話し合いの場を提供します」
私が狼貴君と九尾の会話に割り込むと翼君も私の意見に賛成する。私と翼君は、私たちが働いている塾に狼貴君が通い始めたことを狼貴君に伝えることにした。九尾には伝えているが、狼貴君には話していなかった。
「4月に入ってから、狼貴君に似た生徒が塾に入ってきて、紅っていう珍しい名字だし、なんとなく狼貴君に似ているなと思っていたんですよ。そうしたら、彼が年の離れたお兄さんを探していると話していたんです」
犬史君について話をしていると、狼貴君は翼君と同じような悲しそうな寂しそうな表情を浮かべる。
「犬史君は狼貴に会いたいと言っていましたよ。ですが、その後、彼がありえないことを言いだしました」
翼君が説明を補足する。私も気になっていたことだったが、このことを彼らはどのように解釈するだろうか。
「『おにいちゃんに会うために、この塾に来て勉強を頑張っている』と言っていました」
『それはまた、われらの存在を知っていての発言のように思えるな』
「そう思いますよね。しかも、このタイミングで、車坂は仕事で塾をしばらく休むという始末。どうにも、できすぎた話だと思います」
「鬼崎さんのことは後にして、狼貴君はどうしたいのか、ではないですか?」
話がそれてしまいそうだったので、私は話を戻すことにした。狼貴君に視線を戻すと、何やら難しい顔で考え込んでいる。
「オレは」
「あった方がいいです。会って、けじめをつけて、こちら側に生きる覚悟を決めるべきだ」
同じ境遇の翼君が力強く言い放つ。自分が元彼女と会ってけじめをつけたように、かれにも実際に会うことをお薦めしていた。
『翼だけに肩入れするのも悪いし、お主が望むのなら、われも万が一に備えて、ついていってやろう。有り難く思え』
「……。わかった。一度だけあって、オレも覚悟を決める」
こうして、狼貴君は犬史君と会うことに決めたのだった。
 




