第七話 穴
俺とエミリーは、洞穴を離れ、森の中の、土が少し小高くなっていたところに場所を移した。二人で魔法(?)の練習に勤しむのに、天井のある洞穴では、少々危険だったからだ。
「――だから、全ては「運動」だって言ってるよね」
「そんなこと言われても分かるわけないでしょ!」
俺とエミリーはしばらく口論を続けていた。俺の方は、感覚を言葉にするのに苦労したし、エミリーの方では、その言葉を感覚として消化するのに苦労していた。
とにかく、「運動」という言葉にピンとこないらしい。
しばらくして、太陽が真上に上った頃、口論が落ち着いて、まっとうな会話をすることができるようになった。
「――「運動」って、剣を振ったり腕立て伏せしたりする運動のことよね」
「うーん、そうなんだけど、ちょっと違う。俺の言ってる運動はもっと「抽象的」なことなんだ」
「抽象的?」
――そう、この「抽象」という言葉の扱いが難しいのだ。
そもそも、「抽象」という言葉が、俺の使っている意味で使われるようになったのは、例えば、神がそのままの神として信じられなくなった時代からであり、論理とか、形而上学とか、科学とか、そういう一つの原理の中に神がすっぽり収まってしまってからのことなのだ。
王権神授説が色濃く残る、この中世的なファンタジーでは、神はどこまでも具体的である。
いや、場合によっては抽象的なのかもしれないけどね。ただ、俺の生きている時代ほどは、具体と抽象が明瞭に分けられていなかっただろうことは確実だろう。
そういう時代の人間に、「抽象」という言葉をどうやって伝えるか、それが俺の目下の課題だった。
「抽象的というか、そうだな……例えばエミリーは、〈声が大きい〉といって、ピンとくるか?」
「当たり前よ、声は大きいか小さいか、高いか低いかだわ」と、エミリーは大きい声を出す。
「考えてみりゃさ、声が「大きい」って言ったとき、実際なにが大きいんだ?」
「え、どういうこと?」
「……もっと掘り下げようか。例えば、あの石はこの石と比べて大きいだろ?」
「うん」
「それはなんでだ?」
と、俺は大小二つの石を手に取り、エミリーに手渡す。
エミリーは不思議そうにそれを受け取り、見比べた。
「それは、見れば分かるじゃない。どう見たって、この石の方が大きいわ」と、エミリーは大きな石を持ち上げる。
「見れば分かる、っていったい何を見たんだ」
「何をって――うーん、こう、言葉にできないけど……」
「うんうん」と、俺は頷く。いいぞ、その調子だ。
「そうね、例えば、これらの石を土に埋めたいとき、この石の方がたくさん掘らなきゃダメだわ。たくさん掘らなきゃいけないから、この石の方が大きい」
――ビンゴだ!
つまり、エミリーは石の大きさを穴を掘って……すなわち「容積」という尺度から説明したというわけだ。
このときの「容積」はまだ「土の穴」という具体的なものだが、石と穴とを比較して、〈量〉という形式を抜き取ったという時点で、抽象度が高い。
「土を掘ったとき、エミリーは一体、何を作ったの?」
「何って……穴?」
「そうだね、穴だね! でも、穴を作ったっていうけど、穴って本当に〈ある〉のかな」
「は? あるに決まって――」
「じゃあ、エミリー。ここから、穴だけ取り出してみて」
と、俺はエミリーが掘った穴を指さして言った。エミリーは、首をかしげる。
「無理に決まってるじゃないの。穴を取り出したら穴じゃなくなるわ」
「え、なんで?」
「なんでって……んん……あー、もうわかんない!」
エミリーは頭を抱えてうずくまってしまった。
こんなとき、先生は生徒を追撃しない方がいい、ということを俺は高校のときの担任から嫌と言うほど学んでいた。
あいつは、本当に嫌なやつだった。計算ができないとすぐに、「何で出来ないんだ」とか言ってくるやつだった。俺はそうなりたくない。
森の中は本当に静かだ。動物のいないことが、これほど違和感があるだなんて思いもよらなかった。
なにより、小鳥の声が聞こえないのが怖かった。木々の葉っぱが擦れる音だけが辺りに響く。
しばらくして、俺は助け舟を出した。
「――そう、穴だけを取り出すのは無理なんだ。考えてみれば、穴は、そこに土が〈ない〉から穴なんだろ?」
「そ、そうよ! それ、それを言いたかったんだわ。最初っから言ってよ」
「いや、最初から教えたんじゃダメなんだ。自分で考えてもらわないと。――というのも、俺の使っているこの能力は「考える」がキーになっているように思うからだ」
「ふ――ん、ま、あなたがいうならそうなんだろうね。あんなひっどい大爆発起こしたんだし」
エミリーはまだ俺に、あの時の爆発に巻き込まれたことを根に持っているみたいだ。頬を膨らませてプイッと顔を横に向けた。
不覚ながら、少しだけ可愛いと思ってしまった。ちっ。
「何舌打ちしてんの」
「――で、穴は「何かが〈ない〉こと」って意味だったよね」
「うん」
「でも、現に穴はある」
「ふむふむ」
「このように、「〈ない〉を〈ある〉と理解すること」を「抽象的理解」というんだ。例えば、平和とかそうだろ?」
「平和はない……」
エミリーは真剣な顔をして考え込んでしまった。そうか、ここは中世だったか。戦争も多いだろうこの時代に……ダメだ、平和の話はタブーだったかもしれない。
俺は慌てて修正した。
「ないと言い切っているわけでもないんだ。だって、俺が「平和」って言葉を使ったとき、エミリーになんとなくは通じただろ?」
「確かにそうね、平和の意味は知っているわ」と、エミリーの顔に笑顔が戻った。よしよし、よかった。
「そう、その「意味」が重要なんだ。例えば「平和って何?」って聞かれた場合、どこか指を指しながら「これこれこういうこと」ってぴったり答えられないよね。よしんば、答えられたにしても、それは必ず、他の誰かからの異論を免れないはずだ」
「そうね。私の王宮でも、平和の話をするとき、いっつもそう」エミリーはこめかみの部分を触りながら答えた。
「だろ? でも、漠然とした「意味」は答えられる。例えば、〈争いのないこと〉みたいに。確かに、具体的に「争いのないことってどういうこと?」って聞かれたら答えられない。でも、なんとなくはみんなわかってるんだ。これを――」
と、最後まで説明しようとすると、エミリーが手を前に出して、俺を制止した。彼女は、しばらくウ――ンと考えた後、
「抽象的理解ね!」
と叫んだ。
そのとき、森に、風が強く吹きこんだ。