補講 ソニアと〈相対化〉
ソニアちゃんの、「抽象的理解」の補講です!
本当に本当の原理の話になるので、面倒な方は飛ばしてくださっても構いません。
設定厨――私の愛すべき同士の方は、是非お読みください!
「へェー、魔法陣ってそういう意味があったのか」
キョート街で一番大きなこの図書館のすみっこに、私はレイさんときていた。先日の、「抽象的理解」が全く分からなかったので、時間をとってもらったのだ。
だけど、レイさんから、魔法陣に興味津々そうに色々聞かれていた。そんなにおもしろいかな、魔法陣。
いや、おもしろいんだろう。まだ信じられないけど、レイさんはこことは違う、魔法のない世界からやってきたのだ。
「こんなのでよければ、いくらでも見せてあげますよ」
私は、気を集中させて、光子――これも、レイさんの国にはないみたいだ――を紙の上に転写し、魔法陣を書いた。
「なにそれ、どういう原理? マジで、どういう原理?」
「この世界では、イメージすれば光が輝くんです。まあ、そのイメージをそのまま転写できる人はほとんどいませんが。――イメージ力は、この世界では神への信仰力と呼ばれていますね」
「ふ――ン、ということは、ソニアは特別ってわけだ」
と、とくべつ――ちょ、ちょっといいかも、その響き――
「ま、まあ、そ、そうともいえるかもしれませんね……」
「ホント凄いよ、ソニア。もう俺が、わざわざ教えるまでもないんじゃないか?」
「いえ、教えてもらいます。魔法合戦であんなに惨敗したのは初めてです。それに――もう少し、レイさんのこと、知りたいんです」
「な、なるほど……ちょっと恥ずかしいな……それは……」
「なっ――!」
何言っているんですかこの男は!
確かに、ちょっとだけ下心を含めたことは認めますが、それにしても素直に受け取りすぎです!
「今のは、言葉の綾ってやつですよ!」
「へえ~? そうかそうか、他意はないってやつだな」
「えっ!? そ、そうですけど……」
そう言われると、なんか釈然としない。むむむ……素直に下心がありましたって言ってしまった方が良かったかも……。
仕方ない、今日のところは素直にレイ先生の授業を聞くことにしよう。
「それで、「抽象的理解」というのはなんなのですか?」
「その前にもう一回聞くんだけれど、この発想は一回聞けば、影響力がめっちゃ強いから、もしかしたら二度と元に戻れないかもしれないぞ? 特に、その魔法陣の理論、とても精巧にできてるから」
「いいですよ! 私を舐めてるのですか!」
「いや、舐めてないけど……まあいいや、頑張って「相対化」を心がけろよ?」
「相対化?」
「おおっと……そこからか……」
ボーンと、この図書館で一番大きな時計の音が図書館に響く。もうお昼になったみたいだ。太陽が真上に来たせいか、ちょうど館内は日陰になっていた。レイさんの顔が、心地よい明るさで照らされていた。
レイさんの使う言葉はいちいち難しい。しかし、本人に聞けば、元いた世界ではみんなが使っている言葉なのだそうだ。本当、日本って国はどうなっているのか――私には想像もできない。
「「相対化」っていうのは、何かを比べるってことだ。といっても、ただ比べるだけじゃない。比べて、その「違い」に焦点を与えることをいう。違い……ここでは、〈差異〉と名付けよう」
「え、え、どういうことですか?」
「たとえばな、ここに「本」があるじゃろ? なんでじゃ?」レイさんは、わざと口調を変えておちょくる。
「? 本は、本でしょ!」
「さあてねえ、わしゃこれを、「ネズミ」と呼ぶ」
「なんで! どう見ても本ですよ!」
「どう見ても? どう見たんだ?」
「え……」
どう見たって、ええと、表紙があって、まとめられた紙の中には文字がびっしり書いてあって……ってこと?
そもそも、ネズミは生き物なので全然違います!
「そうだな、「本」は「ネズミ」とは全然違う。つまり、二つの間には〈差異〉があるんだ。まあ、そこまでは大丈夫だな」
「当たり前です……」
「じゃあな、こんどは「本」という言葉を、紙に書いてみてくれ」
「え」
私は、言われるがまま、筆で“■〇✖”とヘルメス語で書いた。そういえば、レイさんはヘルメス語を読むのにまだ苦労していた。ここ最近、ずっと本を読んで勉強しているらしい。
なんでも、「ローマ字」というものと同じ原理なんだけれど、表記法が全然違っていてややこしいんだそうだ。
でも、私に取ったら、レイさんの書く「漢字」の方がよっぽど難しい。
レイさんは、私が書いた文字の隣に、奇怪な「漢字」を書いた。
「俺の世界では、本は“本”と位置文字で表記するんだ。どうだ、簡単だろ?」
「え、なんですかこれ、本当に文字なんですか? 日本人はみんな、この文字を解読しているんですか……」
「ああ、そうだな。漢字は、一般に使われているだけでも3000種類! 漢字と認められるものすべて集めたら100000種類を超えるんだそうだ!」
「は? そんなことあります? どうやって覚えるんですか?」
「ど、どうやって……分からない、気が付いたら覚えているんだ……」
「日本人って……みんな頭おかしいんですね……」
ヘルメス語は、せいぜい26種類しか文字の種類がないから、桁違いだ。もうめちゃくちゃ。私の常識が片っ端から破壊される……。
「よく考えれば、確かに頭おかしいな。ちなみに、「本」を表すやり方は他にもある。“ほん”“ホン”“hon”……他の言語も合わせれば、“book”もあるぞ!」
「え? え、え?」
え、え? もうわかんない! レイさんがさっきから書いてる文字がなんなのか、ぜんぜんわかんない!
「全然わかんないです!」
「簡単に言えば、“ほん”という言葉を表す言葉が、“■〇✖”“本”“ホン”“hon”と四種類あるってわけだ」
「なんで一種類じゃダメなんですか?」
「なんで? さあ、それは分からない……でも、逆に言えば、本を「ほん」と呼ぶ理由がないってことにならないか? 俺の世界の、俺のいた国とは違う場所では、本はさっき言ったように“book”ってあるし、ある場所では“Buch”と書く。読みも違うんだぞ。ブックだし、ブーフだ。俺が発音できない呼び方もある」
次々と、「本」の名前が、いろんな仕方で表記されていく。ここまでたくさん書かれると、私の書いた“■〇✖”というヘルメス語が、単なる一つの呼び方に過ぎなかったということがだんだん実感してくる。
「たしかに……でも、たとえばじゃあ、私がこの本を「ネズミ」と呼んだら、きっと頭おかしい子だと思われます。それはなんでですか?」
「それは、みんながこの本を「ネズミ」と呼ばないからだ」
「みんな?」
「そう、みんなが呼ばない、だから「頭おかしい」って呼ばれる。それだけだ」
「では、もし私が今ここでレイさんに、この本を「今から、ネズミと呼びます」と宣言してから、「今からネズミを読みますね」と言っても、頭おかしいって言いませんか?」
「ああ、それを読むことは理解できるだろうね」
「そうですか……」
ダメだ、もう批判もできません……。確かに、この言葉を使っているのは「みんなが使っているから」でしかない――そんな気になってくる。そういえば、もし私がヘルメス国に生まれていなかったら――例えば日本に生まれていたら――レイさんと「漢字」を使って、楽しい話をしていたのかもしれない。
私がヘルメス語を使っているのは……なぜだろう。
この世界に、なぜ私が生まれなければならなかったのか。そもそも、私が私である理由って……?
「というわけだ。これを本と呼ぶのは、単にみんなが呼ぶから、に過ぎない。みんながそう言っているから、そう言う。人間は、そういう仕方でしか言葉を使うことができないんだ」
「確かにその通りです……ヘルメス語を使っていないところでは、ヘルメス語を使っても無意味……」
「そう、この「みんながするから、俺もする」という発想を「相対化」っていうんだ。自分と誰かを比べてるだろ? そんで、その反対を「絶対化」というんだ。さっきソニアが、「私がこう思うんだから、こうでしょ!」っていうやつ」
「なるほど、絶対化は自分が唯一のその意見の根拠、ということですね。危険です……」
「な、そうだろ? だから、俺の言うことも絶対的意見として聞いちゃダメだ。「レイが言ったから、これは正しい」ってやつな。俺の意見を、「あくまで一意見」としてちゃんと聞いてほしい、ってことだ」
「分かりました……」
なんか……そう考えると、全てが相対的というか、正解がないと言うか、みんなが言っていることが全て「一意見」としてしか聞けないというか――もしかして、神の存在も……
「おっとお、一つ言うのを忘れてた。「相対化の絶対化」には気をつけろよ。この世界に答えはない――なんてものは、多分考えられる限りで一番危険な思想だ。ソニアにとっては、神はいる、だろ?」
「わ、私の思考を読まないでください! います、いますから! 神はいます!」
「そうだ、それでいいんだ。ソニアにとって、神は絶対でいい」
本当にこの人は――何を考えているのか、全然底が見えない。
ひょうひょうとしていながら、大事なところはちゃんと考えている。だから、敵であったはずの私を――
――おつかれさま。今、俺が助けてやる
あの言葉に、どれだけ私が安心したか。
この人の思考は、どこまでも広がっていて、それだけ温かくて――
「まあでも、これで大体、「抽象的理解」は大丈夫だ。今、この本と、“本”という言葉、違うもののように見えてきただろ?」
「うん」
「この言葉――実体がないのに、なんかあるように感じる。この〈ない〉のに〈ある〉と理解する――これを「抽象的理解」と呼ぶんだ」
「はあああああああ、なるほどです! 実体のないものを、あるものとして考える。これが、これがエミリーさんの分解の極致ですね!」
そうだ――と、彼は答えた。すごいです、レイさん――本当――
「あ、ありがとうございます!」
その声は、図書館中に響いた。




