第三十話 分解
エミリーは木に縛られながらも静かに瞑想している。砂ぼこりが周囲を覆い、彼女の姿を曖昧にぼかしていた。
一方で、ソニアは事前に用意した魔法がそこを尽きてしまったのか、指を光らせ、慌てて魔法陣を書き出している。そうか、魔法陣の書記というのはあんなに地道な作業なのか。円を書いてはルーン文字のようなものを隙間に埋めていっている。
――俺は考えていた。
なぜ、エミリーが風で、俺が炎なのか。
実は、風と炎はほとんど同じ現象である。それが、マクロかミクロかの違いなのだ。
風は大気の運動であり、炎は分子の運動である。どちらも、何らかの力が加わって運動し、現象となって発現する事象なのだ。
ただ、マクロとミクロ――現代物理学ではそれはそれぞれ次元が異なる――で運動の捉え方は大きく違う。
エミリーは「運動」の抽象的概念を習ったばかりで、まだ、その捉え方も大雑把なのだろう。それが、大気の運動と結びついた。だから、エミリーは風を発生させることができるのかもしれない。
一方で俺は、現代物理学の価値観に汚染されている。学校では化学や物理で、当たり前というほど「分子」の動きを勉強させられていた。俺の運動に対するイメージは、エミリーのそれに比べてかなり微小なイメージだった。
温度は実は、化学では分子の運動レベルと同じ意味を持つ。分子の運動という現象によって、温度という尺度は全て還元できる。簡潔に言えば、分子の運動、すなわち、温度なのだ。
そういうイメージを初等教育から中等教育まで、文科省のカリキュラムの元でしっかり叩き込まれた俺たちは、風を、「運動」のイメージで捉えることができない。分子のイメージが邪魔するのだ。
風は、単なる大気の移動である。地球上の大気圧の揺らぎが風を生んでいる。風は、高気圧と低気圧の差異である。つまり、厳密な意味で、運動ではない。――だから、俺は風を操ることができないのだ。
だったら、エミリーの魔法は不完全なのか――と言われれば、全然そんなことはなかった。
彼女は彼女で、抽象的理解をひたすらに進めていた。俺の講義をそのまま受け取ることはせず、独自に再解釈しているような気がする。俺はエミリーから、そういう底力を感じていた。
その一端が、あの〈志向性〉学習後のあの「雷」だった。
指先から、高密度の空気を集めて発射されるときに生まれるあの雷……。俺は最初、高密度に集められた空気が摩擦を起こして、たまたま静電気になったのだと解釈していた。
しかし――ソニアのトライアングルカノンを防いだあの魔法――あの魔法は、明らかにエミリーが何かミクロな動きを掴んでいる魔法だった。それこそ分子よりも小さい……「電子」の動きをイメージしていたかのような……
エミリーが、瞑想をしたまま、ふふと笑った。口元が少しきゅっと上に上がっている。何か愉快な発見をしたようだった。
――俺に、エミリーのイメージを完全に理解することはできない。俺は俺で、エミリーはエミリーだから。化学や物理学を知らないエミリーが、分子や電子の厳密な定義を知らないまま、どこまでその存在論にアプローチできるのか。
俺はワクワクしていた。エミリーは、これからどこまで行くのか。デカルトの方法的懐疑に殴られたエミリーが、何を発見するのか。――エミリーの先生は、さぞかし楽しかったに違いない。助手にすらしたくなっただろう。こんなモンスター、俺であったら放っておかない。
だけど――俺たちは友達だ。
互いに切磋琢磨して、習練して、互いを高め合う仲間だ。
エミリー……、俺は君に、学ばせてもらう。
見せてもらおう――
君の力を!
「見えたわ!」エミリーが叫んだ。
「分解魔法――デコーディングッッッ!」
彼女が唱えると、彼女に触れている部分の木が、白く変色して崩れた。――なんだ今のは?
木を脆くして、破壊したのだろうか。それにしても、音もなくどうやって崩した?
「今の――すごくいい感じだったわ」
エミリーは手をグー、パーとした後、満足げな顔をした。
彼女は前を向き、ソニアの方を見据えて、ゆっくり歩き始めた。
――ソニアは。魔法陣をどうやら完成させたようだ。彼女はまだ、エミリーが分解魔法を発動させたことに気が付いていない。――攻撃が完全に後手に回っていた。
「まだ、魔法はあります! 極大炎魔法――ファイアボール!」
ソニアは杖を振りかざし、エミリーに放った。
運動会で見た、大玉ころがしより少し大きいくらいの炎の球が、エミリーの方へ高速で飛んでいく。普通なら、人ひとり焼き焦がすには十分な火力だろう――だが。
「――デコーディング」
彼女はまたしても魔法を消した。なんなんだあれは。デコード――何かを分解している?
運動か? それとも、分子に干渉している?
「なんなんですかそれは――それは本当に魔法なんですか!」
ソニアは叫ぶ。エミリーは、笑ったまま答えない。ゆっくりと、一歩ずつソニアに近づく。ソニアは怯えた顔をして後ずさった。
「もう一度……ファイアボール!」
ソニアは一心不乱に杖を振り、ファイアボールを放つ。しかし、エミリーに届かない。彼女は杖を何度も振った。だが、エミリーは全てを粉みじんにしてしまう。
「ファイアボール!ファイアボール!ファイアボール!ファイアボール!ファイアボール!ファイアボール!ファイア――」
「効かないわ」
エミリーは手を振りかざし、ソニアの魔法を全て打ち消した。
エミリーの実力は、ソニアに対して圧倒的だった。
彼女は、ソニアに手を伸ばし、叫ぶ。
「分解魔法――デコーディング!」
すると、ソニアの下の地面が全て、粘性の少ない砂へと変化し、それは直径3メートル超のアリ地獄へと変貌した。
ソニアは足を取られて尻もちをついた。その傍から、ソニアの身体がゆっくりと沈み込み、彼女はバタバタと足をバタつかせる。しかし、バタつかせればつかせるほど、彼女の胴体が砂に埋まっていく。
「あ、あ、あ――」
ソニアはその恐怖心から、言葉を失って怯えていた。このままじゃまずい――彼女は窒息死してしまう。
「安心して、ソニア。これであなたを殺すことはしないわ。私の魔法を習得してくれたことに敬意を表して――風魔法で、あなたを切り刻む」
「ひっ――」
エミリーは目を閉じて、瞑想を始めた。周囲の低木が、音を立てて揺れる。――まずい、この近距離であの威力の魔法はやばい。
彼女は、本気でソニアを殺す気だ。
「スト――ップ! やめ、そこまで! もう勝敗は決した!」
俺は慌てて叫んだ。しかし、彼女は瞑想をやめない。ソニアは、アリ地獄でひたすらもがいていた。
やばい、マジであれは死ぬ。人が目の前で死ぬ。それだけは止めないと――
――玲。
――なあに、お父さん。
――玲、哲学はな。人を疑義の果てに呪い殺すためにある学問じゃない。
――え? ソクラテスは、「徳とは何か」と聞きまくって、未来ある青年たちを脅しまくってたよ。
――うぉっほん! あれだってそうだ。「徳なんて言い方でなんでもなる」なんて不徳な人間に、その本質を気づかせるために、ソクラテスは問答法を行ったのだ。全てをレトリックのうちに分解してしまう悪しき風習に――ソクラテスはメスを入れようとした。その哲学で、人を救おうとしたんだ。
――哲学が人を救う?
――ああそうだ。ときに哲学は無力だ。だけどな――俺は全てを灰色に分解してしまおうとする人の世界に、一筋の光が閃くことを信じているのだ。そして、哲学はその横死せるダイアモンドの中の光を――捕まえることができる。玲――それは、お前がやるのだ。
「俺が、やらなきゃいけない」
エミリーが叫んだ。
「風魔法――」
俺はソニアの前に滑り込んだ。
「テンペストッッ!」
「インフェルノッッッ――!!!!」
瞬間、炎と風が、互いにぶつかり合い、爆発した。




