第二十二話 印象
――俺って誰なのかな――
過去に、お母さんに聞いたことがある。ちょうど、中学校のときの宿題で、名前の由来を親に聞いてくるという、今考えればとんでもない課題が出たときだ。
自分の名前の由来を自分が知らない――しかも、親の方が知っている――という事実に初めて直面したとき、俺のアイデンティティは根底からグラついた気分だった。
――それはね、玲……
そして、俺はそのときのお母さんの返事を忘れてしまった。高校に上がって、哲学に触れたとき、もう一回聞こうと思い出して、結局聞かずに、そのまま俺が死んでしまったのだった。
お母さん、俺っていったい誰なのかな――
「――レイ、聞いてる?」
俺がボーっとしていると、エミリーが顔の前で手をぶらぶらさせてきた。
「ん? ああ、すまんすまん。ええと、エミリーがいったい誰かってことだっけ?」
「そうよ、真剣に考えてんだから、聞いてよね」エミリーは、ふんすと鼻息を鳴らした。
「ええとね、考えてみたんだけど、ほら、さっき二人に印象をたくさん語ってもらったじゃない? かわいいとか、お姫さまっぽいとか、かわいいとか、かわいいとか、服がオシャレとか――」
「いや、俺はかわいいとは言ってないぞ」
そう言うと、エミリーはきっと睨んで、拳を振り上げた。俺は白旗を上げた。
「でね、これは全部印象でね、〈印象〉って、「その人がどう見てるか」って意味だと思ったのね」
「そうじゃな」と、ポポロが言った。ポポロ、難しい話はできないって言ったのに、凄くよく聞いてくれている。何だこの世界は。どの人も人の話をよく聞くじゃないか!
「間違ってるかもしれないから、そのときは言ってよね。――でね、この〈印象〉って、もっとたくさんのことにも言えると思ったのよ。例えば、私が自分の手を見てるとするじゃない。触ったりもする。でも、これも全部〈印象〉に過ぎないの」
凄い、エミリーは既にここまで来ていたのだ。端的に言えば、〈現象〉の発見だった。それは、カントやフッサールといった近代哲学者の発見の一つだった。
「じゃあ、名前は? 〈エミリー〉って名前。これはもう、意味わかんないわ。だってこれ、親が勝手に決めたものじゃない。私は、例えばロロとかジェシーみたいな名前になることだってできた。名前は、数ある〈印象〉の中でも一番テキトーだと思う」
「でも……わしはさっき、お主らに名前を聞かれたとき、凄くうれしかったぞ」と、ポポロは言った。ポポロ……なんていいやつなんだ……。
「そうよね――もしかしたら、逆なのかも。〈印象〉が勝手であればあるほど、その印象を誰かに名指してもらったとき、嬉しいんだわ。だって、手の〈印象〉は、手を見せれば一目瞭然だけれど、名前はその人に教えてもらわなきゃ、確定できないもんね」
「ふうむ、ちょっと話がそれた気もするけど、ポポロやエミリーは凄くおもしろいことを言ったと思う。名前を聞かれて〈うれしい〉という気持ちはすごく大事だ。名前は、その人にとって大事な要素だ。もっと言えばね、名前は、その人自身と直結しているんだよ」
なんだか、哲学カフェをしている気分だが、たまにはこういうのもいいんだろうと思う。
俺もなんだか、すごく楽しいなあ……。久々に、何かを思い出したような――
「その人自身と直結してる?」と、エミリーが聞き返してきた。
「例えば、俺らはさっきまでポポロのことを、“おじさん”と呼んでいただろ? 俺らはポポロを“おじさん”と呼ぶことで、エミリーもこの人の話をしてるって思うし、ポポロも自分が呼ばれているって気になる。年齢的に、この人しかこの場では“おじさん”と呼ばれ得る人間は基本的にいないはずだって、三人が納得しているから」
「ああ、そうじゃな。わしも、そういう年齢になってきた」
「だけど、これが街でも通用するかっていうと、そうじゃない。ポポロ以外にもおじさんはいるし、むしろポポロよりおじさんにぴったりな人だっている。そういう場所で“おじさん”という呼び名はふさわしくない。つまり、“おじさん”という名前は、その人自身とあまり直結していないんだ」
俺は一気にしゃべった。ここら辺は残念ながら、俺もよく固まってはいなかった。でも、俺は彼女たちの言葉を必死に拾った。それが、先生としての最低限の振る舞いだと思ったからだ。
一生懸命喋っている人を、否定しない――これも、高校の先生を反面教師にした教えだった。
「直結って、つまりその名前で、その人をどこにいても名指せる状態ってことね」と、エミリーはニヤッとして聞いてきた。そうだ、それだ。やっぱり、すごい。
「そう、そういう意味で、ポポロと発言すれば、他にポポロさんがいない限りは、ポポロのことを話していることになる。直結している〈印象〉を用いれば、的確にその人を話すことができるんだ」
「なるほど。じゃあ、わしがポポロと呼ばれて嬉しかったのは、他でもない、わしのことをみんなが話してくれているって気になったからじゃな」
「その通り!」
俺は、立ち上がり、紅茶を上に掲げて、「ポポロに乾杯!」と、叫んだ。
ポポロもそれに従って立ち上がり、俺とエミリーに向かってハイタッチした。
ああ、楽しい、楽しいよ! こんなに楽しい日があるか。このクエストに来てよかった――クエスト!?
「――待ったポポロ、ロック鳥って、いつ現れるんだ」
「待ってくれ――」
と、ポポロは窓を開けて、空を眺めた。太陽がさっきよりも随分傾き、東の空は少しオレンジがかっていた。午後三時くらいか――
「まずいぞ」と、ポポロは言った。
「え?」
「いつも通りならば、後10分もしないで来るだろう」
「――!?」
エミリーは急いでクエストカードを見た。
カードに書かれた詳細によれば、時限は「日没」と書かれている。ポポロの推測はどうやら正しいようだ。
「急ごう」
「ええ。レイ、続きは?」
俺たちはふたたび、椅子に座った。テーブルに肘をついて、二人は俺の顔に集中して聞いていた。
「……名前だけじゃ不十分なんだ。例えば、俺が誰かに、「あそこの牧場には“ポポロ”がいたよ」と教えたとする。その人は、「あそこにいるのはポポロという男だ」ということを知るだろう。そして、その知識は正しい」
「うん」二人は頷いた。
「だけど、ポポロ。もしあなたが、その人に「あなたがポポロさんですか?」って言われたら嬉しい?」
「いや、さっきみたいな喜びはないと思う」
と、ポポロは言った。二人は前のめりになって聞いている。俺も早く、核心を言いたい。だが、ここを飛ばしてはダメなんだ。あと一つ、思考形式が足りない。
「ポポロという名前が、なぜ俺らにとっては大切で、その人にとっては大切じゃなかったか。それは、その名前を知るとき、ポポロが実際に〈手前〉にいたかどうかが重要になるからだ。〈手前〉とは、その人のイメージを目の前にしている、ということだ。イメージなら何でもいい。妄想でも想像でも実際にこうやって会っていても――頭の中にくっきりとイメージが浮かべば、な。つまり、象が目の前にあればそれは〈手前〉にある!」
「わしらは、名前を聞く前に、すでに話をしていた。ごちそうを分かち合った――これが〈手前〉にあるということじゃな?」と、ポポロは頭を押さえながら言った。
「そうだ。その〈手前〉には大事な要素が含まれているんだ。エミリー、〈印象〉の話を思い出そう」
「うん」
「俺らは実は複数の〈印象〉を常に伴っているんだ――ごめん、話が難しくなって――。手や足の印象、顔の印象、名前という〈印象〉、過去の話やその人のプロフィールという〈印象〉、〈印象〉は凄く様々な形(象)がある」
俺は未だかつてないくらい饒舌になった。時間がない。でも、思考は飛ばせない。ギリギリだ。ここをクリアしなければ、50匹のロック鳥など倒せない。
「大丈夫よ、私はついてきてる」
エミリーは真っすぐ俺を見つめながら言った。本当に嬉しい。この人が、異世界での最初の友達でよかった――
「だけどな、さっきも言ったとおり、その〈印象〉はその人を表すのに必ずどこか欠けているんだ。手を見せたって、手の裏側は見えない。顔だって、角度によって違う形に見える。さっきの例の、ポポロ、という名前だって、ポポロに実際会ってお話ししなきゃ、ありがたみは感じない。〈印象〉だけじゃだめなんだ。――復習だけど、〈ない〉を〈ある〉と理解することは?」
「抽象的理解!!」と、エミリーは即答した。
部屋の中を、わずかだが、涼しい風が通り抜けた。時限は刻一刻と迫っている。俺は焦った。だが、エミリーはじっとして動かなかった。俺の次の言葉を待っているのだ。
「後、1分じゃ」
と、遠くの方で、鳥の雄たけびが聞こえた。
ギャ、ギャギャギャギャ。
――なるほど、確かにぴーひょろろろろろ……なんて生易しい鳴き声じゃない。
「――人は、相手をたくさんの〈印象〉でもって固めて把握しようとする。それはちょうど、肩書とかプロフィールとかいったものを調べたり作ったりすることと似てる。でも、人は、一方で、肩書やプロフィールじゃ語れない何かも持っている、ということも無意識に理解している。本来人は人を、〈印象〉と〈印象じゃない〉ものがぐちゃぐちゃした存在だと理解しているんだ。つまり――」
「存在には、〈印象じゃない〉ものが必ず〈ある〉」と、エミリーは即答した。
「大体そうだ。言い換えれば〈印象〉と〈印象じゃない何か〉は必ず混然一体となっている。俺らはそれを〈印象〉として完全に把握することはできない――」
「でも逆に言えば、その〈印象じゃない何か〉が〈ある〉と抽象的に理解することで、初めてそれを理解できる――レイには、レイだけが知っている〈私の知らない部分〉があるように」
俺らの顔が目の前に近づいた。お互いの鼻息がかかるのが分かった。
「――そうだ、そうだそうだ! エミリーは俺の過去を知らない、だからこそ俺を知ることができる。俺は誰か? 誰かいう問いに答えが出せないからこそ、答えが自ずと出ているのだ。俺は、常に君が知らない側面を持っている。逆に言えば、だからこそ君は俺のことを知ることができる。不完全さを含めて完全だ。だから、君は決して俺のことを〈糧〉にはできない」
「ええ、ええ分かるわ、分かる分かる分かる分かる! 私はあなたを自分の〈糧〉には決してしない! ――一人の友人として付き合うの!」
「そうだ! 俺も、君を決して〈糧〉にはしない! エミリーは大切なひとりの友達だ!」
エミリーは、目を丸く開けていた。――心が同調していた。俺も、口が勝手に動いていた――もはや、テレパシーだった。
「――後、10秒じゃ!」ポポロは、大声を出した。時間に猶予はない。だが――
「やっと本題だ。――俺らは、そういう混然一体のものと常に向き合っているんだ。真剣に向き合うとき、〈見えてくるもの〉がある。それを、俺の世界では――
〈対象〉
――と言う」
ギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャアアアアアア――――!!
「来たぞ、レイ、エミリー!」
「ええ、行くわよ」
「ああ!」
ポポロは勢いよくドアを開け、俺とエミリーは家から飛び出した。
魔法理論、ちょっと複雑でしたね……。
第二章が終わった時点で、別パートでちょこっとまた解説します!
この理論は、分かる方には分かってしまうと思うのですが、
初期フッサールの現象学をものすごく簡略化して、いいとこどりして、下地にしたものです。
もっと深く、正確に知りたいという方はぜひ――哲学の門を……!(笑)




