第九話 名前
「――いい加減疲れてきていると思うので、手っ取り早く教える」
「うん……そうして。私は早く魔法の練習がしたい……」
エミリーは憔悴していた。と、突如おなかがぐぅ――と鳴った。
「あ、てかご飯食べてないや。ちょっと休憩」
と、エミリーは自分の持っていた小さなポーチをゴソゴソとやる。中から、パンの耳を取り出した。
「ハァ――これしかないのね……。ひもじいわ。おなかが満たされない……」
「……」
「ん?」
彼女は、じいっと見ていた俺に気が付いた。
「あれ、そういえばあなた、ご飯は?」
「んん――、そういえばこの世界に来てから食べてないかもしれない……」
「えっ、あなたいつここに来たのよ」
「う――ん……」
確かに、そういえばそうだな。俺、いつからここにいるんだ?
ここに来てからというもの、時計はないし(腕時計をつけてなかった)、朝夜関係なく眠くなったら眠るという生活を繰り返してきたので、正直分からなかった。
炎を出すのに夢中で、頭を酷使してばっかりだったし……まぁでも、
「――詳しくは分からないんだけれど、まァ――二週間くらいは経ったんじゃないか?」
「え!!」
エミリーは驚いた顔でこちらを見た。
「どうして、生きてるの……?」
――!?
そうだよな。あれ? なんで俺、食べないで平気なんだ? 動物がいないからか、全然気が付かなかった。俺、本当に、い、生きてんのか?
「なに、あなた本当に人間なの? ってか、何者?」
「う――ん、俺にもよく分かんない……」
「そんなに頭が良いのに……ええと、この国自体に最近来たのよね」
正確には、この「世界」になんだけど――と、言いかけてやめた。ここら辺は本当に俺もよく分からない。
俺の身の上話は、こいつと初めて会ったときにも説明したんだけど、多分理解してないんだろうな。まぁ無理もない。
「アァ――、よくわかんないんだ。でもそう。この国自体に最近来た」
「っていうか、名前は? 友達なのに、聞き忘れてたわ」
「あ、ほんとだ、名前は――」
玲――と、言おうとしたところで、急に生前の思い出が頭の中にフラッシュバックした。二人の声、眼差し。
――玲、誕生日おめでとう
――ハッピーバースデイ、玲――
お父さんとお母さんのバースデイソングが、脳内にこだまする。――そのとき、俺の目に、涙が溢れだした。
「何泣いてんのよ、言いたくないなら無理して言わなくて――」
「玲、だ」
「レイ?」
「うん、玲――俺の名前は、玲だ。りょ、両親につけてもらったんだ」
「え、両親は――」
「生きてる」
と、その言葉を聞いて、エミリーはホッとした顔をした。両親は生きている――この言葉に間違いはない。ただし、俺は死んだのだ。死んでいて会えないのは、俺の方だ。両親には――
「でも、もう会えないんだ」
「そう……」
エミリーは悲しそうな顔をした。本当に素直な子だ。姉を殴って、父に暴言を吐いて家出をしてきた人間とは、とても思えなかった。
彼女も魔法が使えずに苦しんだに違いない。事実、彼女は俺の拙い講義に一生懸命ついてきてくれた。俺も、くよくよせず、前に進むしかない。――と、俺は立ち上がった。
「さて、食べたら授業の続きを――」
「名前はどうやって書くの?」と、エミリーが笑顔で聞いてきた。
「ああ、ええっと――」
と、俺は石を拾って、地面に“玲”と漢字を書いた。
エミリーは「えっ」と声を上げた。
「ん、やっぱりヘルメス語には漢字はないのか?」
「漢字っていうのね――うん、初めて見た。これで「レイ」って読むの?」
「そうだよ。この記号一個で、レイ。おもしろいでしょ」
そうね――とエミリーは感心して答えた。どうやら、エミリーはヘルメス語以外の言葉を知らないらしい。待てよ? 俺、もしかしてこの世界で通じる言語を書けないんじゃ……。
と、エミリーにヘルメス語の書き言葉を聞こうとして彼女の方を見たが、彼女は俺の書いた「玲」にとても夢中になっていた。
自国の言葉以外知らない彼女は、初めての言葉に驚く以上に、きっと、抽象的なその「玲」という空虚な記号に魅かれていたのかもしれない。抽象という言葉も習ったばかりだ。
把握できるのに、理解できない。こんなに楽しい経験が、これの他にあるだろうか。俺にはない。すこぶる、楽しい。なぜ、炎が身体から燃え上がるのか。
「これ自体はどういう意味なの?」と、エミリーが聞いてきた。
「ごめん、それは俺にもわかんないんだ……だけど、左の部分は「王」、右の部分は「命令」の「令」だよ」
「王の命令――レイ。おもしろい名前ね。素敵。ご両親も、とっても聡明な方なのね」
「いやいや、息子の誕生日に、仕事を休むくらいなんだから、あほだよ」
「え! 仕事っていつでも休めるの?」
と、言った後に、まずい――と俺は思った。王家は、そんなこと出来ないに違いない。ちょっと無思慮だったか――だが、エミリーは俺にそれ以上追及せず、パンの耳をかじっていた。
異世界で言葉を交わすのは難しい。ちょっとした冗談も、あだになる可能性がある。
「ん、じゃあレイ。改めてよろしくね」
「ああ、エミリー。こちらこそよろしく。早速だけど――」
「ふふ、これまでのあなたの話し方を観察していれば分かるわ。最初に聞いた「声の大きさ」の話でしょ?」
エミリーは、フフン――と得意げな顔をした。驚いた、ここまで吸収が早いとは――
「それが分かるのなら、話が早い! そうだ、声に「大きさ」があると思うか?」
エミリーは、即座に顎に手を当てて、自分の思索を開始した。




