人類、絶滅したってよ
ゆらゆら揺れて浮かぶ感覚。身体から熱が奪われ、底冷えして震えている。けれどそれは全てぼんやりとした、霧に包まれたような意識での事で、夢なんだなと理解した。
何も見えず、何も聞こえず。ただ浮いて漂っているような感覚と、全身に触れる冷たいもの。それだけが、この夢にある全てだった。
これまでにこんな夢を見た事は無い。でも、忘れてしまっただけかもしれない。何せ、夢だもの。
夢の中でそれが夢だと認識するなんて経験が無い事だけど、夢なのだから何でもあり得る。そう思えば納得のいく話だ。
嫌な夢だ。早く起きないかな。そんな事を仄かに浮上し始めた意識の中で考えていた。ゆっくりと覚醒が始まり、開かない目が柔らかな橙色を映す。
やがて深い水底から飛び出すように、急激な速度をもって何もかもが鮮明になる。暗く冷たい底から、橙色に明るく暖かい外へ。
ただ、その時何かがこぼれ落ちた感触があった。けれど振り返らなかった。それは要らないもの、捨て去るべきもの。そう思っていた。
そして外へと飛び出した。たくさんの懐かしいものを両手いっぱいに抱えて。けれど代わりにそれまで持っていた、ごく僅かな何かを置き去りにして。
そんな夢もすぐに忘れた。けれどこれが、始まりだった。
目が覚めると、何処とも知れない場所に倒れていた。冷たい水にさらされ、少し身体が震える。濡れてべたついていて、それが塩水であるとわかる味を口の中に感じた。
頭が働かない。目に映るものを把握出来ない。何処にいるのかも、何が起きているのかも全く意に介せなかった。
身体を起こすために突いた手には、湿った白。そして目の前には一面に広がる深い青。その向こうには沈み行く橙色。その光は他を自分の色に染め、けれど離れる程にゆっくりと紫に移り変わっていく。
何も思い出せない。いや、正確にはここに至るまでの記憶が無い。
僕は仕事へ行くために、電車に乗っていたはず。イヤホンで贔屓にしている男性アーティストの曲を聞きながら、ぼんやりと揺られていた事を覚えている。
だけど今は、ここにいる。この夕日に照らされた海辺に。
「何それ……」
ともかく、立ち上がった。海水に濡れて、酷く寒い。水から離れて、日の光で温まりたかった。
……視点が低い。正確にどの程度とは言えないけど、随分と低い。身体を見下ろすと、全体的に縮んでいた。手や足は小さく、腕も脚も短い。当然胴も同じくで、まるで子供に戻ったようだ。
ぺたぺたと身体中を触って確認する。
髪は銀色に変わり、首筋辺りで雑に切られていた。分け目は左寄りに六四か七三かな。顔付きは凹凸に乏しくすっきりした様子。肉付きは薄めで幼児体型。……お、付いてる。男だ。元々僕は男なので、少しほっとした。
……僕? 一人称変わってるな。まあこんな姿なら、むしろ相応しいかもね。
衣服は膝下まである長い物で、確かチュニックと言ったかな? それ一枚のみで、足は裸足だ。特に何も持っておらず、周りにも何も落ちていない。
「困ったな……」
見知らぬ土地に、見知らぬ身体。これってやっぱり……。
「異世界に転生した、という事だよね」
いきなりだな、おい。
ともかく、ここにいる理由がわからない。
身体は見たところ、五歳から十歳の何処かだ。ただ、それまで生きて来た記憶が無い。状況から考えると乗っていた船から何らかの理由で落ちて、ここに流れ着いたんだと思う。そしてこの粗末な格好を見ると、多分自ら落ちた。逃げるために。虜囚か奴隷か、そんなところじゃないかな、異世界ならね。
その際に死んで、僕が入れ替わった? 或いは人格が切り替わった?
憶測は幾らでも出来るけど、どれが正解かなんて今はわからない。現状把握のためにも、何でも良いから情報が欲しいな。
改めて周りを見回した。
もうすっかり夜となってしまったけど、満月が明るくて暗いとは思わなかった。そして空はまさに、満点の星空。生まれて初めて……いや、前世の記憶には無い程の星空で、宝石をちりばめたような美しさにしばしの間見惚れる。
アメジストやルビー、サファイアの輝き。そしてダイアモンドのように強く煌めく星。藍色の深い夜空に、圧倒されるような光り瞬くたくさんの宝石。
ああ、綺麗だ。こんなにも綺麗な空は、写真でも見た事が無い。目渡す限りに天を覆い、水平線の彼方まで広がっているんだ。カメラの無い事が心底悔やまれる。あの三つ並ぶ強い輝きは、まるでオリオンのベルトのようだ。天の川も見えるじゃないか。すごいなここは。
興奮してしまって身体が火照り、肌寒かったはずの夜風すら心地好い。気付けば踊るようにはしゃぎ回っていた。子供の笑う声が響く。くるくると回転し、走り、砂浜に足跡の曲線が無軌道に描かれる。
……いや、待て待て。僕にそんな習性は無いぞ。正気に戻った途端、ぴたりと止まった。
身体が勝手にと言うか、そうしたくてうずうずしたと言うか。そんな調子で動いていた。感情が昂ると、年齢相応に子供らしく動き出してしまうのか? 今後は気をつけておかないと。
ただその時、不思議な事が起きていた。自分の周りに、淡く青に光る風のようなものが舞っていたんだ。回転して振り回される腕や脚に呼応するように旋回して広がっていた。あれは何なんだ? 得体は知れなかったけど、確実に僕から引き起こされていた。
確認出来るなら、しっかり見極めておいた方が良い。感覚を思い出しながら、もう一度試した。
するとそれは、容易く発生した。差し出した右手の周りにふわりと現れる。振れば先程と同じように、風のような状態で広がり拡散する。しかもそれだけではなかった。わざわざ動かなくとも、意識だけで自在に動く。右に左にと考えれば、その風はその通りに吹いた。
そうなればまた気持ちは昂り、身体は自然とはしゃいでいた。もう止められない。心と身体の衝動が一致し、感情の迸るままに踊り狂った。
「何これ、すごい!」
次々発生させ、辺り一面に風を巻き起こす。自ら意識して行っているからか、風はより鮮烈に青く輝いた。光を纏って舞うようにはしゃぐ。もうどうにも収まらず、身体が動くに任せていた。
感情のままに跳ね回り、つむじ風どころか竜巻のように風が巻き起こされる。それまでとは違って砂が散り、吹き飛び、巻き込まれた。吹き荒れ、渦を巻き、青く輝く風は感情の赴くそのままに、舞い踊った。
瞬き煌めく星空の下、光を伴う舞踏は激しく、ただ無邪気に続く。
やがて僕は、疲れてへたり込んだ。砂浜は滅茶苦茶になっていた。抉れ、飛び散り、穴と山が出鱈目に出来上がった。大嵐が残した爪跡のように、見るも無残な様相を呈していた。
乾いた笑いが込み上げる。まあ、やってしまったものは仕方ない。その内元に戻るだろうさ。
しばらく休んでいる内に、眠ってしまったらしい。まだ日は昇っていないが、少しずつ白み始めていた。夜明けが近いらしい。
ぼんやりと寝起きの頭で海を眺める。何処だっけここ、としばし考え思い出す。ああ、転生らしき事になったんだっけ。昨夜は健全な意味でお楽しみだったんだ。砂浜は、滅茶苦茶だけど。
頭をぽりぽりと掻きながら、そのあり様を眺めた。うん、見なかった事にしよう。
しばしぼうっとしていたけれど、ふと襲った感覚でそろそろ動かなければまずいと思い至った。
喉が渇き、空腹を感じたんだ。このままでは飢えて死ぬ。せっかく生まれ変わったんだ。そう簡単には死にたくない。とは言え、海にいるからと漁に出かけたりは出来ない。この小さな身体で道具も無しに海女さんの真似事なんて出来るわけない。
ならどうするか。ひとまず人里を探すしかないだろう。幸い海から離れる方向をみれば、そこには道らしきものが見えた。正確には、道のように見える長細く続く地肌剥き出しの地面だ。
そこそこの幅で草が取り除かれており、それが左右に伸びていた。街道だろうか。
その道端に立ち、左右を見回す。右には遠くに街らしき大きな姿が見えている。逆に左は何も見えない。
普通に考えたら、右の街に行くべきだ。水も食べ物も、そこでなら手に入るだろう。けれど、考えてしまった憶測が足を引き止める。
もし仮に、本当に船から逃げ出したなら。その船がそこに着いているのではないか? 虜囚か奴隷かわからないけど、また捕まえられるのでは?
そんな事を想像してしまった。
「どうしようか……」
でも、選択肢なんて無かった。逆方向に行ったとして、次の町や村まで持つとは思えなかったんだ。憶測の通りに誰かが捕まえに来たとしても、青く光る風でどうにかするしか無い。それくらいに、飢えも渇きも差し迫っていた。
街に向かって歩き出す。子供の足でどれくらいかかるかはわからない。遊んでしまわず、ちゃんと先を考えておけば良かった。そう後悔しても既に遅い。
今はとにかく、前へ進む事だけ考えた。
道の左手は草原だった。僕の腰程の高さまである草が生い茂っていて、その向こうには緑深い森が見える。さらに森を越えた先には山が。
緑が目に優しい。少しずつ顔を出し始めていた太陽の爽やかな光に照らされて、まるで絵画のような光景が広がっていた。ど素人の僕ですら、絵に描いて残したくなる程の景色。
見惚れていたかったけど、空腹がそれを許さなかった。残念に思いながら、足を進める。
自然を眺めながら歩いていると、多少気が紛れた。海を見ても陸を見ても自然が豊かで美しく、吹く風は空気が美味しくて言う事が無い。草原を風が流れればさらさらと揺れ、その様もまた綺麗だった。
そうして、気付くのが遅れた。
正面から黒い人影が一人、こちらに歩いて来ていた。あちらは既に僕の姿を見つけているらしく、その足の向かう先は明らか。完全に僕の方だ。思わず立ち止まる。
草原に逃げるか? でも、憶測した事とは無関係である可能性の方が高い。その場合は、とっても失礼だよね。一人相手なら最悪逃げられる。逃げられる……はず。
なんて事を考えている間にも、人影はどんどん近付いて来ていた。
その人物は、驚く程に見目の整った女性だった。黒く艶のある長い黒髪を風になびかせ、こちらを見つめる瞳は真紅。柔らかに微笑んでいて、明るく優しげな印象を受けた。
黒く丈の短い上着に、同じく黒い足首まである長さのタイトなワンピース、黒い手袋、黒革のブーツという出立ちの黒ずくめだけど、腰に緩く巻いた鎖の装飾品らしきものだけは銀色だ。ただ、そうして巻いた鎖が腰の細さとその上下による凹凸を一層際立たせていて、魅惑的な肢体を見せ付けるようだった。
少し長めの尖った耳が見えている。エルフという事かな。やはりここは異世界みたいだね。
荷物は脇に抱えたハンドバッグのみで、随分軽装だ。街から出て、何処かへ向かうような格好ではない。それが僕の目には酷く怪しく見えた。
「君、こんなところでどうしたの?」
どうしたの、か。どうしたんだろうね。僕が聞きたい。
答えられずにいると、胸の下で腕を組むようにして探る目を向けてきた。大きなものが強調されてますよ、お姉さん。
不意に鼻を鳴らして、臭いを気にし始めた。屈んで顔を近付け、犬のように僕の臭いを嗅ぐ。臭くない、よね?
そしてはっとしたような様子を見せ、いきなり抱き竦められた。
「もしかして君、人間!?」
目を好奇に輝かせ、そのまま僕を持ち上げた。軽々上げるね、あなた。
しかし次の瞬間、驚愕させられた。
彼女が開いた唇の向こうに、長い牙が見えた。それは今にも噛み付かんとしていて、憶測よりも悪い事態を迎えたのだと察せられた。
吸血鬼。彼女は吸血鬼だったんだ。
反射的に、思い切り頭突きした。
「いきなり噛もうとする奴があるか!」
ごっ、という音と同時に可愛らしい悲鳴が聞こえた。腕が緩んだところで身体を押して……ああ、触っちった、大ボリュームだな……。とにかく離脱する。
離れたところで向き直り、いつでも迎え撃てるよう身構えた。
しかし、優しげな様子に騙されたか? でも、直前までそんな風ではなかった。僕が人間だと気付いたから? でも街になら幾らでもいるだろう。今一わからないな。
彼女は涙目になって、鼻を赤くしてへたり込んでいた。
「ごめんなさい。初めて見たから思わず……」
初めて? 人間って、ここじゃ珍しいのか? でも、思わずで噛まれるなんて冗談じゃない。
「思わずで許される事じゃないよね? その胸にいきなりナイフを突き立てられたら、あんた許せる?」
「そうだよね。私、何て酷い事を……」
物凄く落ち込んでる。どうしようか、ちょっと可愛い……じゃなくて、可哀想になってきたぞ。わかってくれればそれで構わないし、僕としてはもうどうでも……って、それも失礼だな!
「理解してくれたなら、それで良いよ」
「本当? 優しいね、君」
とりあえず落としたバッグを拾って、土を払っておく。彼女はその間に立ち上がって、裾についた土を同じように払っていた。終わったところでバッグは手渡せば、お礼と笑顔が返って来た。
本当に思わず、で噛み付こうとしてしまったような感じだね。今は落ち着いたのか、そんな危険な気配は微塵も無い。でも、警戒心は抱いてしまった。朝日の昇った今この時を彼女は平然と立っている。日の光に当たっても大丈夫な吸血鬼なんて、極めて厄介な存在だ。
それじゃ、と言って去ろうとすると、彼女は横に並んで付いて来た。何だろう?
「ねえ、君。街に行くの?」
「そのつもりだけど」
「人間、だよね?」
「そうだね」
「隠した方が良いよ」
何か、変なやり取りだ。珍しいんだっけ、人間。街でも目立つのか?
「知らないみたいだね」
「人間、珍しいの?」
「珍しいどころじゃないよ。絶滅したんだから」
思わず足を止めた。何だって?
「千年くらい前だって話だけど、人間は絶滅したの。もう、一人もいないんだよ」
「えええええええ!?」
あまりの大声に彼女は耳を塞いだけど、僕は悪くないはずだ。
新作、始めました。
お初の方、はじめまして。
過去作を読んでいただけた方、引き続きのご愛顧ありがとうございます。
『人類、絶滅したってよ』という事で、魔物だらけの世界でございます。
だらけと言うか、主人公以外全員魔物です。
ただしエルフやドワーフなども含まれますので、その点はご注意下さいませ。
掲載ペースですが、週に一度から二度程を予定しております。
のんびり進行となりますが本日より末長く、よろしくお願い致します!
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必ず目は通しますので、書いていただけると感謝感激致します。
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