プロローグ
木々の隙間から差し込む朝日が、葉についた朝露をきらきらと輝かせる。
木の匂い。風の音。鳥のさえずり。
変わらない朝が、森にやってくる。
木々が、花が、動物が、そして”彼女”が生まれ育った、この森に。
朝日を浴びようと住処から抜け出したリスが、こちらへと近づいてくる、もうすっかり慣れた足音に耳をそばだてた。
「やあ、イトスギ。今日もカモミールに会いに行くのかい?」
足音の主である、帽子を目深にかぶって学生服を着た少年が現れると、このリスは毎日同じように同じ口調で同じ質問をする。
「ああ。約束したからね」
返ってくる答えも毎日変わらない。
しかし、飽きもせずに自分の質問に答えてくれて、飽きもせずに自分の、そして自分の大切な者たちの暮らすこの森に足を踏み入れてくれるこの少年とのやり取りが、リスは何よりも楽しかった。
森の仲間たちも、この、一見不愛想だが心優しい少年の来訪を喜び、自ずと道を開ける。彼はそうやって、彼らが開けてくれた道を、草花を踏み倒さないように慎重に歩くのだ。
「ああ、イトスギ。おはよう、今日も来てくれたんだねえ」
「やあ、イトスギ!いい朝だね」
「わあ、イトスギだ!ねえねえ、遊ぼうよ!」
あちこちから、彼に温かい言葉が投げかけられる。
共に遊ぼうと思ってイトスギの足にまとわりついてきたクマの子供たちの頭を、イトスギは嫌な顔一つせずに順番に撫でた。
「ごめんね、今は遊べないんだ。僕には、行かなきゃいけないところがあるからね」
クマの子供たちは一瞬残念そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻る。
「しょうがないね、イトスギはカモミールお姉ちゃんに会いに行くんだもんね!」
「カモミールお姉ちゃん、ずっとイトスギのこと待ってるんだもんね」
「じゃあ、また今度遊ぼうね。カモミールお姉ちゃんも一緒に!」
そう言って駆け出していくクマの子供たちを、森の動物たちが、いや、森全体が優しく見つめた。
「――みんな、本当にカモミールさんが大好きなんだね」
ぽつりと呟くように言ったイトスギの言葉に、動物たちが笑顔を向ける。
「当たり前じゃないか」
「話ができなくても、一緒に森を駆け回れなくても、」
「私たちはみんな、カモミールが大切で仕方ないのさ」
誰かが言い出した言葉は、いつの間にか森中から聞こえるようになり、朝の森に響き渡った。
「イトスギ、あんたもカモミールが大事だからこんな森の奥深くまで来てんだろ?早く行ってやんな。あの子、きっと待ちくたびれてるよ」
「そうだな」
鹿の奥方に背中を押され、イトスギはいつものように友人の待つ家へと向かった。
本来、人間なら住もうと考えることもまずないような森の奥。
まるで、森に守られているようなその場所に、山小屋を大きくしたような、質素なつくりの家がある。
家の前には色とりどりの花が植えられ、そこに訪れる客人をいつでも歓迎してくれる。
扉には小さな鈴がついている。
森の中では、この家を訪れる際には必ずこの鈴を鳴らすことが小さなルールなのだ。
家の主は、鈴を鳴らせば誰だって歓迎してくれる。
全てを照らしてくれる、太陽のような笑顔で。
――チリン、チリン
いつものように鈴を鳴らすと、
「はぁい」
と、高く澄んだ可愛らしい声が聞こえ、同時に扉が開いた。
「イトスギ君。いらっしゃい」
「どうも。カモミールさん」
彼女のことを友人と呼ぶ割にはいまだに少し他人行儀な挨拶に、この家の主、カモミールは目を細めた。
「どうぞ入って。丁度、お茶を淹れたところなの」
イトスギは律儀に帽子を脱ぐと、木の良い匂いであふれる暖かい家に、足を踏み入れた。