バトンの行方
都心のビジネス街にあるこの喫茶店はお盆休みということもあり閑散としていた。スポーツ記事を扱うWebサイトのライターをしている私はアイスコーヒーをちびちびと啜りながらインタビューの相手を待っていた。本来であれば私も夏休みをとりのんびりとしているところなのだが、取材対象のスケジュールの都合とあらばそうも言ってはいられない。この仕事の辛いところだ。
約束の時間の2分前に彼女は店に入ってきた。先日行われたバトントワリング世界大会でみごと優勝に輝いた鴨根明日香選手だ。シックなカーキ色のマキシワンピースに身を包んだ彼女は、競技中は纏めている髪をおろしているのでずいぶん印象が違って見えた。きょろきょろと店内を見回し、ここだと手を振る私を見つけると笑顔になり軽く会釈をした。私はテーブルの脇に立ちエスコートをする。
挨拶と自己紹介を交わしたあと、席に着き、ウエイトレスに私と同じくアイスコーヒーをオーダーすると彼女は言った。
「インタビューなんて初めてだから緊張しちゃう」
「はは、どうぞお気楽になさってください。意地悪な質問などは致しませんから。この度は大会優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます。それじゃなにからお話ししましょう」
私は練習のことや大会での出来事など通り一遍の質問を重ねていった。彼女は訊かれたことに対し、その都度ひとつひとつ言葉を選びながら丁寧に答えてくれた。
最後に私は訊いた。「バトントワリングを始めたのはどうしてでしょうか? なにかきっかけなどがあったんですか?」
「はい、ちょっとした出来事がありました」彼女はそう言うと、すっかり氷が溶けて薄くなってしまったアイスコーヒーをひと口啜った。そしてエピソードを語り始めた。
「あれは私が中学生のときでした。そう、2年生のときね。足が速かった私は体育祭のリレー走でアンカーに選ばれました。そして体育祭当日になりリレー走が始まりました。私の順番がやって来て、1位にほんの僅か遅れての順位でした。私は片手を後ろにいっぱいに伸ばしながら小走りして前走者が差し出すバトンを受け取ろうとしました。ところが……バトンを掴もうとしたそのときに、つるりとバトンが手の中から滑り落ちてしまったのです。バトンはころころと地面を転がり、慌てて拾おうとした私はそれをつま先で蹴とばしてしまいました。バトンはぽーんと応援席の中まで飛んで行き、私は必死になってそれを追いかけました。誰かがバトンを拾ってくれて、それを受け取った私は全力でコースに戻りゴールに駆け込みましたがすでに他の走者はゴールしたあとで私の組はビリになってしまいました。情けないやら、クラスのみんなに申し訳ないやらでしょんぼりとしていた私をクラスメートたちは気にするなと励ましてくれましたが、それが一層悲しく辛い思いにさせました。そして私は次こそは、来年の体育祭こそはと決意を固めたのでした。
それからの私はバトンを受ける練習に明け暮れました。ふたつ年下の弟をなかば無理やり公園に連れだしては、来る日も来る日も、雨の日も風の日も休むことなく練習を続けました。そのうちに弟が嫌がり、ついに練習に付き合ってくれなくなると、今度は母に頼み込んで練習に付き合ってもらったりもしました。休みの日には父にもお願いしました。
そんな日々が続いて半年ほど経ったある日のことです。放課後、私は体育教師に呼ばれ体育館に行きました。体育館では新体操部が練習をしているところでした。団体でのバトンの練習をしていて、高く放り上げては体をくるくると回転したりしている横を私は歩いていました。そのときです、「あぶない」と声がしました。えっ⁉ とばかり振り返るとこちらに向かってバトンが落ちてくるではありませんか。反射的に手が出て、それをすっと自然に掴むと手の中でくるくると回転させながら腕は大きな弧を描きました。自分でも驚くほどの美しい一連の動きでした。同じバトンと呼ばれてはいるものの陸上競技のと新体操のでは重さも形も全然ちがう物ですが、棒を掴むという動作に鍛錬を重ねた私にはもはや違いなど関係なかったのでしょう。予想すらしていなかった能力を私は獲得していたようでした。バトンを頭上高く掲げ、決めのポーズを取っている私に新体操部の顧問が駆け寄り言いました。「大丈夫だった? 怪我はない?」そして言葉はこう続きました「ねえ、あなた新体操に興味ないかしら」
そうして私は新体操を始めることになりました。これが私がバトントワリングを始めたきっかけです」
そこまで語り終えると彼女はアイスコーヒーを啜った。グラスの底でずずっと音がした。私は、本当なのだろうかとの思いに囚われ彼女の表情を窺っていたがおかしなところは感じられなかった。そのとき彼女のバッグの中で振動音がした。スマホの着信を知らせるバイブ音だった。彼女は取り出したスマホの画面を確認すると申し訳なさそうに告げた。
「ごめんなさい、そろそろ次の約束が」
「ああ、もうこんな時間でしたか。それではこれで終わりにしましょう。今日はありがとうございました。面白いお話をいっぱいいただけて良い記事が書けそうです」
「それはよかったです。こちらこそ、ありがとうございました」
私たちは帰り支度をはじめた。彼女はスマホを、私は録音機や資料の書類などをバッグにしまった。そのとき私の頭の中にひとつの疑問が浮かんだ。
「あの……あとひとつだけよろしいですか? ちょっと気になってしまったので」
「ええ、どうぞ」
「体育祭は、次の年のリレーはどうなったんですか?」
「ああ」彼女は笑みを浮かべた。どこか子どもっぽい、いたずらっ子のような印象を与える笑顔だった。「翌年の体育祭のリレーにも私は出ました。私はアンカーに立候補し、その希望は叶えられました。クラス替えはありませんでしたから前の年の出来事とその後のリレーにかける私の熱意とをみんなは知っていましたので」
「ほう、それでレースの結果は?」
「それが……決着はつかなかったんです」
「え? どういうことです?」
「リレーの競技は行われました。少なくともスタートは。でも第一走者が駆け出した直後に、校庭に犬が入ってきたんです。柴犬くらいの大きさの中型犬でした。犬は興奮して走者たちを追いかけました。追っかけられる方も必死です、全力で逃げ回りもうコースもレースもお構いなしです。それぞれ校庭をあちらこちらへと駆け回り、犬は犬であちらの走者からこちらの走者へと手あたりしだいに追いかけ続けていました。応援席の生徒たちもわーわーとそれはもう大騒ぎで収拾がつかない状態です。そのうちに追いかけられていたひとりの走者が手に持っていたバトンをえいやとばかりに放り投げました。赤いバトンは青空に吸い込まれるようにくるくると回転しながら高く飛んでいき、大きな放物線を描いて校庭の真ん中、陸上トラックの中央にぽとんと落ちました。犬はそのバトンに駆け寄るとぱくりと咥えて、そのまま校門の方まで走っていき、全校生徒が見守る中を悠々と歩いて校門から出て行ってしまいました。尻尾を誇らしげに振って、こちらを振り返りさえしませんでした。そうして私たちは呆気にとられたような気分から覚め、ざわざわとした雰囲気のままで体育祭はそのまま終了してしまったんです」
「なるほど……それは大騒ぎでしたね」
「ええ、でも楽しい思い出です」
「そうですね。おっと、お時間が押しているのにお引止めしてしまい申しわけありません」
私たちは席の横に立ちお辞儀をした。彼女は出口に向かおうとしたが、一歩進んだところで足を止め振り返って言った。
「私ときどき思うんです」
私は黙って彼女を見つめ、続きを待った。ただでさえ静かな店内が深く静寂に包まれたような気がした。
「犬が咥えていった真っ赤なバトンは、今でも次に手渡される人物を求めているような気がするんです。そして新たな持ち主が見つかるまで犬とともに彷徨い続けているように感じるんです」
私は赤いバトンを咥えた犬がどこかの街角を歩いている情景を思い浮かべた。犬はわき目もふらず、ただ前だけを見て一定の速度で歩き続けていた。彼女はふたたび軽く会釈をすると、来たときと同じように風に乗っているような軽い歩みで出口へと進んでいった。自動ドアが音もなく開くと、夏の日差しが店内に注がれた。どこか遠くから犬の鳴き声が聞こえたような気がした。