瞳
瞳の綺麗な人物を描きたいと思って、書きました。書いたのが四、五年前くらいで拙い表現も多いですが、読んで頂ければ幸いです。
紗理との待ち合わせ時間にすっかり遅れてしまっていた僕は、全速力で駅前の広場を目指していた。
遅刻の理由は寝坊ではなく、朝は目覚めよく、朝食をしっかり食べて、充分余裕を持って家を出たはずだった。
ただ彼女への誕生日プレゼントを買うのに、思いのほか時間がかかってしまったせいだ。しかも今日振り込まれるはずのバイト代が朝にはまだ入っていなくて、そのうえ乗る予定だったバスがいつまで経っても来なくて、約束の時間が刻々と迫ってくるのに耐えかねて、僕は走ることにした。
結局は、プレゼントを前もって準備しなかった自分が悪い。初めての紗理へのプレゼントだったから、あまり妥協をしたくなかったのだ。
だから注文したプレゼントが出来上がったのが当日ギリギリだったことも、バイト代をはたいて少し無理したことも、紗理を思ってのことだから、少々の遅刻くらいは大目に見て欲しい。それでも、きっと彼女は怒るだろうけれど。
言い訳をあれこれ考えながら、僕は紗理の怒りが膨らまないうちに待ち合わせ場所に行けるように、ともかく必死に走った。
季節はすっかり秋から冬へと変わっていて、冷たく乾いた風が顔にぶつかってくる。
今日は一段と寒いとテレビで言っていたから、冬物の厚手のコートを着込んで、まだおろして間もないブーツを履いていたのも災いした。いくら急いで走っても、まるで重たい鎧を着ているように足取りは重く感じる。
ようやく駅前の広場が視界に入り、噴水前のベンチに座っている紗理を見つけた。
時計を見ると約束の時間を三十分も過ぎてしまっている。
「ごめん!遅くなって。」
彼女のもとへ駆け寄るなり、息が切れ切れになりながらも僕はまず遅刻の詫びを入れた。
事前にメールで遅れることは連絡しておいたけれど、それに対して彼女の返信がなかったので機嫌を損ねていることは明らかだった。
黒縁の大きな眼鏡をかけた紗理の顔が黙って僕を見る。眼鏡の奥にある彼女の瞳は冷たく無表情だった。
「寒い。」
低い声で、紗理は言った。彼女の手に触れると、すっかり冷えきってしまっている。
その冷たい手が、長い時間寒空の下で待っていたということを物語っていた。
僕は呼吸を整えながら、首に巻いていたマフラーを取り、紗理に巻いた。彼女の小さな顔が半分ほどすっぽりと埋まってしまった。
「本当にごめん。」
ようやく少し落ち着いて、僕は再び謝った。紗理はベンチから腰を上げて、僕を見上げ小さく息を吐く。
「しょうがないな。反省しているみたいだし、一応急いで来てくれたみたいだから許してあげる。」
眼鏡の奥の紗理の瞳がわずかに笑みを浮かべた。
僕は内心救われた気持ちで、紗理の手を温めるようにぎゅっと握った。
「許す代わりに、今日のお昼ご飯はおごってもらいますからね。」
「うん。もちろん。」
手をつないだまま、僕らは駅前の通りを歩いた。
僕はさんざん走ったおかげで身体は温まって暑いくらいだったけれど、紗理の手はまだ冷めた金属の様だった。
「どこか暖かい所で待っていてくれたらよかったのに。」
僕のマフラーに顔を埋めた紗理は、少しだけ首をひねって僕を見る。
「いいの。寒かったけど、今日はよく晴れていて空がきれいだし、噴水から水が流れるのを何気なく見ていたら、そのまま座って待っていたい気分になったから。」
紗理は少し変わっている。マイペースというか、自分の感性のままに行動するというか、その感性も独特で、僕の思考の範囲を超えている。この間彼女と会った時には、雨の中ひとりぽつんと誰もいない噴水の前に立っていて、波紋が綺麗だったからという理由で、噴水に弾かれる雨をじっと眺めていた。
僕は紗理の話に相槌をうちながら、空を見上げた。紗理が言うように、空は雲一つない碧が広がっていてとても綺麗だった。
僕は歩きながら、冷たい紗理の手に、自分の体温を分けるつもりで握る手に力を込めた。
「痛い痛い。」
紗理が顔をしかめたので、僕は慌てて手の力を緩めて、本日三回目のごめんを彼女に言った。
紗理はとびきり可愛い女の子だ。それは僕が彼女のことを好きだからひいき目で言っている訳ではなく、きっと一般的な男が彼女を見たら、好みに関わらず大半が可愛いと思うだろう。
小柄で肩までふわりと伸びた髪はいつも艶やかで、なめらかな白い肌に、細い手足、人形のように端正な顔立ちに淡いピンク色の唇。
そして何よりも魅力的な大きくてまん丸くまつげのとても長い目。その瞳は深い褐色を帯びていて、見る人を惹きつける魅力がある。今までに僕はこんな綺麗な瞳をした人を直接見たことはないと思う。
僕が彼女を好きになったのも、その魅力的な瞳を見てしまったのがきっかけだった。
しかし、彼女はそんな魅力的な瞳を隠しているように、普段は大きないかつい黒縁の眼鏡をいつもかけている。僕にはそのことがとてももったいないように思える。
スタイルのいい女の人が、身体の線が分かりにくいダボダボの服を着ているようなもので、更に大げさにいえば、とても綺麗に輝くダイヤモンドを曇ったほこりだらけのガラスケースに飾っているような感じだ。
眼鏡をかけている紗理だってもちろん可愛いと思うし、それはそれで彼女の魅力の一つだと思うし好きだけど、とても綺麗な瞳が大きな眼鏡に覆われて、自分の魅力に蓋をしてしまっていると思う。
「何で紗理はいつもそんな大きな眼鏡をかけているの?」
僕らが出会って間もない頃、僕は彼女にそう聞いたことがあった。
「何でって、目が悪いから。」
何当たり前のことを聞いているの、というようなきょとんとした顔で紗理は僕を見た。
「そりゃまあそうだろうけど、そんな綺麗な瞳をしているのにもったいないなと思って。コンタクトにするとか、もっと縁の細い眼鏡にすればいいのに。」
紗理は僕の顔をじっと見ていて、空を見て、眼鏡の縁を両手でつまんで少し上げた。
「コンタクトは、私、なんか駄目。目が痛いし、異物を目に入れているという感じで好きじゃない。それにこの眼鏡ずっと使ってるし、愛着があるから。ゴツイけど、頑丈だしね。」
今度は片手でくいっと眼鏡を上げて、紗理は微笑んだ。そして何度か瞬きをして、眼鏡の奥であどけない光を宿して僕を見ていたかと思うと、そのまま眼鏡を外してみせた。
思わずドキリとしてしまう。
まっすぐに澄んだ彼女の瞳は、うまくは言えないけど何か強烈な光を浴びたような、美術館で巨大な額に収められた名画がベールを脱いで急に目前に現れたような衝撃を僕に与え、僕はただぽかんとした顔でその瞳に見入ってしまっていた。
紗理が瞬きをすると、長いまつげがおじぎをしているようで、その度に瞳の色がわずかに変わっているように見える。そこには日の光や周りの風や木々、街並みのありとあらゆる景色が映し出されているように感じられた。
「いつまでも黙ってないで、何か言ってよ。」
少し照れながら、紗理はまた眼鏡をかけた。そのとたんに彼女の瞳の輝きはライトの絞りを弱めたように、すうっと消えていく。
「すごくきれいな瞳だね。見ていると何だか不思議な感覚に包まれるような気がする。やっぱり普段眼鏡じゃない方がいい気がするけどな。」
「そお?でも私は、眼鏡はかけたままのがいいかな。」
紗理は小さな舌を出して笑った。
「人にはよく目が綺麗だって言われるけど、私はこのままでいる方がなんだか気が楽なんだよね。別に眼鏡がないと不自由なほど視力は悪くないんだけど、日の光も、ゆるやかに吹く風も、空の碧さも、出会う人々も、そのままの目で見ているとまぶしいような、ずっと見ていると疲れる感じ。私にとって眼鏡は、なんていうか、周りのものを見るためのフィルターみたいなものかもしれない。」
その時も、僕は紗理が不思議なことをいう子だなと思った。ゆっくりと語る彼女の言葉には、どこか繊細なものが感じられた。
でも僕は、紗理の見る周りの世界がまぶしいのではなくて、むしろ彼女のありのままの瞳がまぶしくて強烈で、それをあえて眼鏡で閉じ込めているように思えた。紗理の瞳はただ綺麗なだけじゃなく、人を惹きつけてしまうようなとても強い魅力がある。有名な絵画や人気の絶景スポット、曲を出せば爆発的に売れるミュージシャンのような、カリスマ性というか目に見えない理屈ではないような力がある。
それ故に惹きつけたくないものものまで惹きつけてしまうのかもしれない。
まあこれはあくまで僕の勝手な想像であるわけで、結局のところ紗理が眼鏡をかけている理由はただ単に目が悪いから、という以外よく分からなかった。その時分かったことは、僕はすでに彼女の瞳に惹きつけられてしまったということだった。
外の冷たい空気と暖房のついた室内との温度差で、駅近くにあるレストランに入るなり紗理の眼鏡は白く曇った。
僕がそれを見て笑うと彼女は頬を膨らませて、曇った眼鏡のまま、奥の瞳は睨んでいるように見えた。
休日のちょうど昼時というのもあって、店内はかなり賑やかで混雑していた。忙しく動き回っている店員に、順番待ちの用紙に記入してお待ちくださいと言われた。
僕らの前にはあと五組の客が待っている。紗理はため息をついた。
「別のトコ行こ。」
順番待ちリストに記入しようとしていた僕の手を紗理が引っ張るので、僕らは店を出た。
紗理は人が多い所は苦手だし、僕がさんざん待たせてしまっていたから、これ以上待ちたくはなかったのだろうと思った。
再び外へ出て、僕らは冷たい風に身をさらされた。
僕は思わず大きなくしゃみが出てしまい、隣の紗理はビクリと驚いて僕を見た。
「ごめん、寒いよね。」
僕のマフラーは紗理がまだ巻いていたので、彼女はそれを外そうとした。僕は慌ててそれを制して、彼女の手を握った。
「こうして手をつないでいる方が暖かい。」
紗理はマフラーに顔を埋めて、瞳でかすかに笑った。
「お腹減ってる?」
「うーん、少し。でもまだ我慢できる。」
「じゃあ、もう少しブラブラして、昼時を少し過ぎて食べようか。」
紗理は小さく頷いて、じっと駅の方を見た。
「ねえ、電車乗らない?少し遠くへ行ってみたい。あ、海とか行きたいかも。」
「海?きっと寒いよ。」
「寒いかも。でも、行きたい。」
普段はおとなしい紗理が珍しく積極的なので、僕らは電車に乗って海に行くことにした。
電車の中は暖房がついていて、座席もヒーターがついているのではじめのうちは暖かいが、だんだんお尻の方が熱くなってくる。
紗理は背後の車窓へ目を向けて、外の移動し続ける景色をただじっと見ていた。マフラーに埋まった白くて小さな紗理の顔は、真剣な眼差しだった。
「紗理、怒ってる?」
僕がそう言うと、紗理の目が一瞬大きくなって、はっとしたように僕を見た。
「怒ってないよ?遅刻も許してあげたでしょ。」
「でも、こわーい顔で外をじっと見てるよ。」
紗理の顔がマフラーの下で小さくなって、眼鏡のズレを直した。それきり彼女が窓を向くのをやめてしまったので、余計なことを言ってしまったと僕は後悔した。
「紗理は海が好きなの?」
気まずい雰囲気だったので、話題を変えるつもりで僕は言った。
「あまり行ったことないから、分からない。でも、嫌いじゃない。」
紗理は視線を上げ、どこともないところを見ながら答えた。
「人が少ない静かな海は好き。波の音を聞くと落ち着くし、潮の香りも好き。波が来てまた去っていくのを見ると、海も生きているのかなと思えて、不思議な気持ちがする。」
淡々と話しているけれど、紗理の目は嬉しそうだった。
「海好きなんだね。よく分からないことないよ。」
「でも、人が多い海は嫌い。あれじゃ全然落ち着けない。」
「それは海が嫌いじゃなくて、人込みが嫌いなんでしょ。」
「あ、そういやそうか。私、海好きだね。大好きだ。」
何だかマヌケなやりとりだけど、純粋に笑う紗理が可愛らしくて僕はその笑顔につられて微笑んだ。
そして二人で一緒に車窓の景色を眺めた。しばらく電車に揺られていると、すっきりと目が覚めるような、碧くキラキラに輝く海が見えてきた。
風が強い!電車を降りて、僕はまずそう思った。夏にはもっと涼しげに吹くであろう浜風が、今の時期はとても冷たくて、身体の芯にまで伝わってくる。
紗理も冷たい風を受けながら、身体を小さくして僕とつないでいる手に力を込めた。
「やっぱ寒いね。」
しゃべると息が白くなる。
「ごめんね。ワガママ言って。」
「いいよ、このくらいどうってことない。紗理は大丈夫?」
「寒い、けど我慢できる。」
冷たい風に耐えながら、僕は紗理を引き寄せて、ぴったりくっついて歩いた。
「少し、恥ずかしいよ。」
「見てる人なんていないよ。大丈夫。」
紗理は照れ臭そうに笑いながら、ためらいがちに僕のコートへ小さな顔を押し付けた。
海には釣り人がぽつりぽつりといるくらいで、ひっそりとしていた。
冷たい浜風の音と波が幾重にも奏でる音に耳を傾けながら、僕らは静かに砂浜の上を歩き、適当なところで立ち止まった。
「海だ。」
海をすぐ目の前にして、白い息を吐きながら紗理の声は弾んでいた。
「どう?海へ来た感想は。」
「広いね。それに碧くて綺麗。」
まるで初めて海を見る子どものように、紗理の瞳は眼鏡の奥でキラキラとしていた。
「波の音が聞いていて心地がいい。向こうにカモメがいる。海には白い鳥が似合うね。海はいいね。広々としていて、何だか気持ちが解放されるみたい。」
紗理はどこまでも広がる海をゆっくりと見渡して、僕の方を向いて嬉しそうに笑った。
「紗理は海を泳ぐよりも、見ている方が好きみたいだね。」
「こんな寒い日には泳げないよ。」
「まあそうだけど、俺は海って泳ぐ時くらいしか行かないから、こうして見るだけで海来たのは初めてだったもので。」
「別に泳いでもいいよ?見ていてあげる。」
紗理は高い声で笑った。彼女は波打ち際まで近づいて、寄ってくる波に恐る恐る手を差し出した。
「冷たい!」
びっくりして手を引っ込めて、また彼女は無邪気に笑った。
いつもおとなしい紗理が、こんなに明るくはしゃいでいる姿はとても珍しく新鮮で、僕は少々戸惑った。でも彼女は本当に海が好きみたいで、彼女が喜んでいる姿を見ると、冷たい風はこたえるけれど海に来てよかったと心から思った。
僕は紗理の隣に腰を下ろし、並んで緩やかな波の行方を眺めた。じっと海を見る紗理の横顔から、眼鏡に覆われていない彼女の目を見ることが出来た。まつげがとても長く、クリッと丸い純粋な目だ。
彼女の瞳にはこの海がどのように映っているのだろうとぼんやりと考えた。
「海はなんだか鏡みたいだね。」
紗理は静かにつぶやいた。
「何?」
僕が聞き返す。
「風が吹いて波が立って、日差しが海面でキラキラして、海は風や太陽を映し出す鏡みたいじゃない?この海を見ていたら何となくそう思って。」
紗理は瞳に穏やかな輝きを放ちながら、僕の方を向いて微笑んだ。
「紗理は詩人だね。」
「そおかな?ただ見たものをそのまま思っただけだけどね。」
へへ、と照れながら紗理はマフラーに顔を埋めた。
僕は紗理の眼鏡に手をかけて、そっと外した。
一瞬彼女は驚いた顔をして、スッキリとした瞳が大きくなって僕を見る。
「なあに?」
「綺麗な瞳だ。」
「それは、ありがとう。」
「紗理の瞳も海みたいだ。」
彼女の目が丸くなる。
「海が風や日の光を映し出すみたいに、紗理の瞳も周りの景色や色々なものを映し出している。とても不思議な輝きで、海のように綺麗で深い色をしている。」
僕がそう言うと、紗理は見ても分かるくらい頬が赤く染まり、照れているような困ったような苦笑いを浮かべた。
「真面目な顔でそんなクサイこと言われると、くすぐったい。」
「思ったことを素直に言っただけだよ。嘘は言わない。」
「嘘とは思わないけど、もう!恥ずかしいようなくすぐったい感じするからやめて。」
紗理はそのまま僕の胸に頭をぶつけてきた。僕はそのまま彼女の頭を両手でそっと包み込んだ。
「少しだけ、マフラー取るね。」
僕はきょとんとする彼女の首に巻かれたマフラーを外した。すると、彼女の首元にネックレスが光った。
驚きをたっぷり含んだ瞳をして、紗理は僕を見る。僕は、驚きでぽかんとしている彼女に誕生日おめでとうと言って微笑んだ。
銀色の三日月にはめ込まれたアクアマリンの石が、透明な輝きを放つ。紗理へのプレゼントには指輪かネックレスを買おうと思っていて、さんざん迷ってそのネックレスを選んだ。
紗理の頭に手をまわした時に、さりげなく取り出して彼女につけたのだ。
「びっくりした。魔法みたい。」
紗理はまだ目をまん丸くしていたけれど、すぐに嬉しそうなキラキラの笑みを浮かべた。
「綺麗な石。ありがとう。すごく嬉しい。」
彼女は首にかかったネックレスの三日月を手にとって、アクアマリンの石をまじまじと眺めた。太陽にかざしてみたり、透けた石を通して海を見たり、角度を変えて見てみたり。とりあえず、気に入ってくれたようだった。
ちなみに紗理が海を好きだということはついさっき知った訳で、僕が彼女のプレゼントにアクアマリンを選んだのはただの独断でなんとなく綺麗だと思ったからだった。
眼鏡を外した紗理の瞳には、そのアクアマリンが映っていて、キラキラとしていた。
「ねえ、少しだけ目をつぶって。」
紗理はまっすぐ僕を見て言った。僕は言われるままに目をつぶる。
目を閉じた僕の唇に彼女がそっとキスをする。――なんてことは、まずないだろうなとは思ったが、ほんの少しだけ期待してしまった。
波の音に混ざって、ガサゴソと音がする。僕の手に、紗理が何かをはめている。
「いいよ、開けて。」
目を開けると、僕の両手には革の手袋がはめられていた。
上質な革のにおいがして、内側には羽毛がありとても暖かい。
茫然としている僕を見て、紗理は少し照れながら、胸元のネックレスをいじっていた。
「私の方は、ちゃんとお祝いしてあげられなかったから、誕生日プレゼント。だいぶ遅いけれどね。」
「そんな気を使わなくていいのに。」
「いいの!私が勝手に、そうしたいと思ったんだから。」
僕の誕生日は、紗理と知り合う前に既に迎えてしまっていた。紗理に祝ってもらうことなんて考えてもいなかった。
「同じ年に、お互いの誕生日祝いたいじゃない。今年は私だけって、なんか嫌だし。」
「ありがとう。すっごく暖かくてデザインも洒落てる。冬の間は毎日着けるよ。」
「よかった。よろこんでくれて。」
紗理はふっと目を細めて笑った。
僕は真新しい手袋のぬくもりを感じながら、小さな紗理の手を握って、二人で黙ったままどこまでも広がる海を眺めた。
紗理の誕生日に会ってから一カ月が過ぎようとしていた。あれ以来、僕と紗理は会っていない。
別にケンカをしたわけではなくて、互いの都合が合わなかったという感じなのだが、こんなに長い期間彼女と会わないのは初めてだった。
紗理に会いたいという気持ちはあるけれど、それをしきりに出してしまうのはなんだか子供っぽいなと思うから、露骨に会いたいなどということを僕は言わない。
都合が悪いと彼女に言われたら、そっかしょうがないねまた今度、という感じだ。
ただ最近は連絡をしても返事がなかなか来なかったりするので、それが少し気がかりではある。
つい一週間前に連絡した返事も未だに来ていない。
そんな折、さらに三日経って、紗理から突然電話がかかってきた。
「ごめんね、ずっと連絡していなくて。」
小さな声で紗理は言った。ずっと連絡が取れなくて、不安やイラつく気持ちがないこともなかったが、久しぶりに彼女の声を聞いたらすぐにどうでもよくなってしまった。
「ううん。元気にしてる?」
昨日会ったばかりのような調子で、僕も応える。紗理はまあまあ、と言って少し笑った。
彼女はまあまあだとは言っているが、その声はどこか元気がなさそうで、弱々しく感じられた。
もともと紗理は感情をあまり出さない方で、普段明るく高らかな声で話すタイプではない。それでもいつもより声のトーンが低く、少なくとも元気いっぱいではなさそうだった。
「ごめんね。今週もちょっと、都合が悪くて。」
とても言いづらそうに、彼女は言った。
「ああ、別にいいよ。しょうがない。また都合がいい時に会おう。」
「本当に、ごめんね。」
「いいって。それよりも元気なさそうだけど、大丈夫。」
しばらく電話は無言だった。一瞬切れてしまったかと思ったが、電話の向こうの紗理の小さな息づかいは伝わってくる。
「もしもし?」
「あ、ごめん。最近体調崩して、ぼんやりとしてしまった。」
「風邪ひいているんじゃない?ゆっくり休んでなきゃ。見舞いに行こうか?」
「平気平気。これでもだいぶ良くなってきたし、髪もぼさぼさでひどい顔しているから、お見舞いには来ないでね。」
「そんなの気にしないよ。」
「私は、これでも気にするの。」
僕が笑うと紗理も笑みをこぼした。力なく、かろうじて笑っているという感じ。
一定の間隔で、紗理の息づかいが聞こえてくる。
「本当に体調悪そうだね。もし紗理が会いたいと思ったら、いつでも会いに行くからさ。早くよくなってね。それじゃ。」
「――待って。」
僕が電話を切ろうとすると、紗理が呼び止めた。
「どうした?」
「その、もう少しだけ声を聞いていたいなって。なんか、声を聞いていると、落ち着く。」
「寝ていた方がいいと思うよ。」
「今日はさんざん寝たから、寝付けなくて。眠くなるまで声を聞いていたい。だめ?」
最後のだめ?という言葉が、甘えたような声ですごく可愛らしくて、僕はしばらく彼女の電話に付き合うことにした。
ほとんど僕が一方的に話をして、紗理が相槌をうち、静かに僕の話を聞いている。
最近の出来事、読んだ本、聴いた音楽、観た映画、僕は話が上手くはないけれど、空白の間の日常を紗理にも知ってもらえたらと思って、延々と話し続けた。
「会わない間、色々あったね。」
「そうでもないよ。特に大きな変化もないし、つまらない日常だ。さ――」
――紗理に会えない毎日は、という言葉はクサイので途中で飲み込んだ。
「また、海行きたいね。」
「紗理がよくなったら、また行こう。」
「うん。楽しみにしている。」
紗理の声が、少しだけ元気になったような気がした。
時はまた、長くゆっくりと流れていき、紗理に会えない日々が続いた。
それでも時々、夜眠れない紗理と電話で話すようになり、彼女と遠くなってしまったという感覚がする時、電話が引き戻してくれるのだった。
僕の話に静かに相槌をうつ紗理の顔が、電話の向こう側でも想像できる。
ただ、彼女のあの綺麗で魅力的な瞳を長らく見ることが出来ないのは寂しかったし、手をつないだ時の小さな手のひらのぬくもり、隣に並んだ時に見える白い横顔、さらさらとした黒い髪を恋しく思っていた。
仕方がないと割り切っているつもりでも、僕の本音は紗理に会いたいと思っていて、外で一人歩いていると、彼女が僕にプレゼントしてくれた手袋を見て、彼女の顔をいつも思い出していた。
街はすっかりクリスマスの装いとなっている。鮮やかなイルミネーションに、クリスマスツリーやサンタクロースやクリスマスのセール。
にわかに活気づいて、明るい色合いの街はまぶしすぎる。
クリスマスにはきっと会えるだろう。僕はそう思っていた。
紗理がイベント事に頓着しないのは分かっているけれど、そこはやはり年末の一大行事なのだから、会えないことはないだろう。そんな確信のない自信を持っていた。いや、自信のないただの強い願望だろう。
僕は、自宅の近くにある小さな公園のベンチに腰を下ろして、ぼんやりと空を眺めた。
今日はよく晴れている。一面に広がった碧をうっすらとした白い雲の膜が覆っていて、淡くどこか儚い冬の空は、晴れていても夏の空のようなスカッとする爽快な明るさはない。
ふと視線を落とすと、公園の端にあるの木の下で、黒猫がじっと座って僕を見ていることに気がついた。綺麗な毛並みをしていて、野良猫とは違うように思えた。
何がそんなに珍しいのか、大きくコロコロとした瞳でただじっと僕を見ている。
僕は腰を上げて、黒猫にゆっくり近づいてみた。逃げるかなと思ったけれど、黒猫は微動だにしないで、その視線は相変わらず僕から離れない。
ついに手を伸ばせば触れる距離まで近づいた。
僕はその場でしゃがみ、何もせずに猫を見つめ返した。互いの間にはただ沈黙のみがあった。
綺麗な顔をしているな、と僕は思った。猫の顔なんてそこまで大差ないのかなとは思うけれど、その猫は整った顔をしている。
それは本物の猫ではなくて、ぬいぐるみとか剥製ではないのかとすら思えてしまう。
でも時折瞬きをするし、わずかに顔を動かしたりするから、ちゃんと生きている様だった。
思いきって僕は、手を伸ばしてみた。黒猫は一瞬身構えたけれど、そのまま頭を撫でると、気持ち良さそうに目を閉じた。
黒い毛はなめらかで、撫でる度にピンと立った耳が動く。
何か食べ物でもないかとポケットを探ってみたが、飴玉一個とチューインガムしかなかった。
冷えてきたなと思って立ち上がると、黒猫はまた大きな目を開いて僕を見た。
なんとなく名残惜しそうな目をして見てくる。
「風邪ひくなよ。またね。」
黒猫に微笑みながら僕は言った。
僕が離れても黒猫はじっと座ったまま僕を見ていた。時々振り返りつつ、僕は公園を後にした。
「今日は猫に会ったよ。」
夜、紗理との電話で僕はさっそく今日の出来事を報告した。
電話の向こうで、彼女はふうんと小さな声で相槌をうつ。まるで無関心という訳でもなく、かといって興味津津というわけでもないような彼女独特の間延びした相槌だ。
「紗理は猫って好き?」
「どうだろ。別に嫌いじゃないよ。」
「またそんな言い方する。」
「だって猫も人と同じでいろんなタイプがいるでしょ?可愛らしい猫は好きだけど、目つきの悪い無愛想な猫とか好きか分からない。猫も全部が全部好きとは限らないってこと。」
僕は、なるほどねと言った。確かに人間は好きかと聞かれたら答えるのは難しいかもしれない。好きなタイプもいれば嫌いなタイプもいる。好きだと断言してしまえば、様々な性格、容姿全部ひっくるめて人間が好きということになりどうも偽善者っぽい。かといって嫌いなんていうと自分をも否定して、人といっさい関わらないなんていう引きこもりっぽい感じがする。
「今日会った猫は紗理もきっと好きなタイプだと思うよ。」
「どんな猫?」
「黒くて小さくて、あ、でも子猫よりはもう少し大きいかな。大きな目をしていておとなしくて、じっと俺のこと見ていた。」
「ふうん。可愛かった?」
「うん、とても。思わず抱っこしたくなった。」
クスクスと紗理が笑う声が聞こえてくる。
「なんとなく紗理に似ているなと思ったよ。目が大きくてきれいなところが。」
「うそお。猫に似ているなんて今まで言われたことないよ。」
「似てると言っても目がきれいなとことか雰囲気がだよ。とにかくそのじっと俺をみているつぶらな瞳が印象的で、紗理のことが思い浮かんだ。」
紗理はふうんと言って小さく息を吐いた。
「もうしばらく会っていないね。ごめんね。」
彼女は声を落として言った。
「別に紗理は悪くないよ。こんな風になかなか都合つかないこともたまにはあるさ。」
「そっちはどう?私に会いたいって思う?」
「もちろん、毎日でも会いたいと思うよ。当たり前じゃん。」
答えながら僕は、もしかして紗理は毎日のように僕と会いたいってわけじゃないのかなと不安になった。でも同じ質問を彼女に投げかけることが僕にはできなかった。
紗理はふふ、と笑みをもらしたきり何も言わなかった。
僕も何も言わず、近くにあった漫画を手にとってぱらぱらとめくっていた。
「ねえ。」
わがままなことだけど、とためらいがちに前置きをして紗理は言った。
「今から会いたいって言ったら、会いに来てくれる?」
僕はページをめくる手を止めた。
「もちろん!すぐに行く。」
思わず弾んだ声で僕は答え、すぐに上着を手にとって仕度を始めた。
空は雲がなくて、星がよく見えた。
紗理の家へ向かう途中にあったコンビニで、僕はホットコーヒーと肉まんを二つずつ買って、着いたよと彼女にメールをし、白く光る星を眺めながら彼女を待った。
あたりはしんと冷えた静けさがあり、時折車が通ってまぶしいライトに照らされまた消えていく。
久しぶりに紗理に会うので、少しだけ僕は緊張していた。
別にいつも会うときと何ら変わりはないのに、まるで何年も会っていない相手と再会するような感じで、どのような顔をして会ったらよいのかと戸惑っていた。
別に緊張することも、戸惑うこともないのに、少し不気味な夜の静けさが僕の気持ちに同調して、不安にさせる。
ごちゃごちゃと考えるのはやめにして、僕は紗理が来るまで星の数を数えながら気持ちを落ち着かせようとした。
田んぼしかないような田舎でもないのだけれど、星がこんなにたくさんきれいに輝いているのが珍しくて、僕はこの場所が自分の知っている所ではなく、どこか別の空間に変わってしまったのではないかという気がした。
コツコツと小さな足音が聞こえてくる。その足音が紗理だというのはすぐに分かったけれど、僕はその足音がする方を向かず、星を眺め続けた。
胸が高鳴るのを感じる。僕は身体が小刻みに震えるのを、手をぎゅっと握って、唇を噛みしめて必死に抑えようとした。
足音がだんだんと近づいてきて、僕のそばで止まった。
紗理は何も言わない。ただじっと、彼女は僕を見つめていて、その視線を僕は感じていた。
僕はおそるおそるゆっくりと顔を紗理へ向けた。
相変わらずの黒縁眼鏡をかけた紗理がそこにいて、眼鏡の奥にある彼女の瞳が黒く大きく輝いている。
僕は何も言わず、紗理をそっと抱き寄せた。彼女も黙ったまま、とんと自分の頭を僕の胸にのせた。
紗理のさらさらとした黒髪に触れ、小さな弱々しい肩に触れる。
うん、これは間違いなく紗理だ。彼女の感触をゆっくりと確かめるように僕は思った。
紗理は手を伸ばし、僕の頭に触れ、やさしく撫でた。母親が幼い子どもを撫でるように、ほんとうにやさしい手つきだった。
とても静かだ。この瞬間で、時間が止まってしまったような感じがする。
自分で思っていた以上に、僕は紗理に会えないことに我慢をしていて、彼女に会えないことが寂しかったのだ。
今この瞬間がどうしよもなく幸せで、カラカラに乾燥した土に水を与えたように、僕の心がゆっくりと満たされていく。
「さみしかった?」
小さなかすれ声で、紗理は言った。
「うん。」
「ごめんね。」
「いいよ。こうして会えたんだし。」
「うん。」
紗理の身体が僕をぎゅっと押し付けてくる。彼女も僕と会えなくて、寂しかったのかなと思った。
僕らは少し歩いて、公園の小さな広場へ行った。ぼんやりと光っている街灯にひっそりと照らされているベンチを見つけて、そこに座って、二人で肉まんを食べた。薄暗い夜の闇の中で、街灯の明かりは頼りなく僕と紗理をうっすらと映し出す。
久しぶりに会った紗理は、少し痩せたように見えた。
「体調は大丈夫?」
「うん。だいぶ良くなってきた。」
小さな口で肉まんをもごもごと食べながら、紗理は微笑んだ。
「今日は星が綺麗だよ。」
僕がそう言うと、紗理はすうっと顔を上げた。彼女の瞳がまん丸くなって、夜空の星々を映し出す。
「ほんと、いっぱい見えるね。」
星を眺める彼女の横顔は、街灯に照らされて透き通るように白く、なめらかな曲線がとても綺麗で、僕はじっくりと見てしまっていた。僕の視線に気づいた紗理は、きまりが悪そうにわずかに眉を寄せた。
「そんなに見られたら、恥ずかしい。」
「いいじゃん。久しぶりなんだからさ。」
「じゃあ、私も見る。」
お互いに見つめ合ったまま、にらめっこのようになってしまった。
眼鏡をかけていても、紗理の瞳は大きくてきれいで、その瞳でじっと見つめられると、まるで身体の中まで見られているようで、ドキリとしてしまう。
それでつい、顔を下へ向けてしまった。
「私の勝ち。」
紗理はにこりと笑みを浮かべた。
白く光る三日月はどこか幻想的で、小さな星の光が大きなものから、小さくて今にも消えてしまいそうなわずかに光るものまで、宝石のようにあちこちに散らばっている。
僕は星座とかはよく分からなくて、その光の一粒一粒を昔の人が何に例えたのか知らないし、自分の想像力でも何に見えるか皆目見当もつかなかった。
でもそこに広がっている光景はただただ綺麗で、まわりが真っ暗で僕らしかいないような狭い空間をずっと押し広げて広い世界へ連れて行ってくれているように思えた。
「山とかで星を見たことある?」
僕は言った。
「小学生の時、一度だけ宿泊学習に行って観たのを覚えてる。」
首を上へ向けて、両手に包んだコーヒーの缶を回しながら紗理は答えた。そして何を思ったか、彼女は眼鏡を外して、裸眼のままじっと星を凝視した。
「ここよりも何倍も星があって、見ているとチカチカして目が痛くなりそうだった。でも空がずっとどこまでも広がっていて、自分がとても小さく感じて、きれいというよりも見知らぬ世界に来てしまったみたいで、何だか怖くて不安に感じてしまったのを覚えている。」
僕は星を見たまま、紗理の手を黙って握った。
「その時は友だちとかいなくて、生徒みんなで星を見ている時も、周りは仲の良い人達で固まって騒いでいる中、私は端っこで静かに星を見ていて、ただでさえ一人ぼっちだったのに余計に孤独を感じてしまったんだろうね。涙が出てきて担任を慌てさせてしまった。」
僕は黙って紗理の話を聞いていた。紗理に嫌なことを思い出させてしまったかなと後悔した。僕が顔をしかめているのを見て、紗理は何怒ってるの?といって微笑んだ。
「変な話しちゃった。もうずっと、昔の話だけどね。」
口元に笑みを残して、彼女はずっと遠くの奥にある星を眺めるように、視線を動かさなかった。彼女の手が寒さで冷えてしまっていたので、僕は何か答える代りに、寒い?と訊いてみた。
「少し寒い、けど平気。」
僕は握っていた手を紗理の顔へと移し、彼女の頬にそっと触れた。
「顔も冷たい。」
白い顔がそのまま雪になってしまったように、紗理の顔は冷たくなっていた。紗理は純粋無垢な瞳で僕をじっと見ていて、僕の手の上に自分の手を重ねて、少し首を傾けながら満足そうに目を閉じた。
「暖かい手。」
長いまつげに白い肌の紗理は、どこかの国のお姫様のように美しい顔で眠っているようだった。紗理の柔らかい頬の感触を手のひらで感じながら、僕はその安らかな顔をいつまでも見ていたいと思っていた。やがて目を開けた紗理がその大きな瞳に優しげな光を浮かべ、その視線を夜空へ向けた。
「今日の空は、昔山で見た空ほど沢山の星もないし、他の明かりが邪魔をしているけれど、あの時みたいな不安や恐怖がなくて、私好きだな。そばにいてくれる人がいると景色の見え方、感じ方も違うんだろうね。」
紗理は照れるのを隠すように、ニッと小さな歯を覗かせて笑った。
「いつかその山で一緒に星を見に行ってみよう。俺もそんな沢山の星を一度見てみたい。」
「どこの山だったかな。場所までは、記憶が曖昧だけど、私も一緒に行きたい。その時が来るの、楽しみにしている。」
紗理はわずかにと目を細めて、口の両端を上げて微笑んだ。とても自然で柔和な笑みで、今までに見たことのない紗理の笑顔だった。その笑顔につられて、僕も笑みを浮かべた。
紗理の瞳の中には星空が映っている。その瞳は夜になると褐色ではなく、黒々とした輝きを放ち、そこに月の光や、街灯や、星々の小さな光の粒までが映りこみ、とても深く、澄んでいて、純粋な光が宿っている。
とても魅力的で、どこか不思議な気分になる瞳。それはどんな宝石よりも美しく、ころころと動く黒瞳を、僕はとても愛らしく感じてた。
その輝きをいつまでも見ていたいと思ったけれど、冬の夜は僕らから確実に体温を奪っていて、僕がくしゃみをしてしまったのを皮切りに、今日はこのへんで、という雰囲気となってしまった。紗理も再び黒い眼鏡をかけ、瞳の景色も影をひそめた。
「会いに来てくれて、嬉しかった。今日はよく眠れそう。」
「俺も紗理に会いたかったし、会えてよかったよ。会いたい時はいつでも言ってよ。」
「寂しい思いさせて、ごめんね。ありがとう。」
立ち上がって別れる間際、僕は紗理を抱きしめた。眼鏡の奥から、クリンとした目をして、彼女は僕を見上げている。
「結構、さみしんぼで甘えんぼだね。」
「紗理程じゃないよ。」
紗理は口をとがらせて睨みながら、僕から離れようとした。
僕は指先でその柔らかな彼女の唇に触れ、キスをした。ひんやりとした、やわらかな感触が全身に伝わってくる。
紗理はぼんやりとした目をして、思い出したように再び僕を睨めつけた。
街灯に照らされた紗理の白い顔はほんのり赤く染まりながら、ぷくりと頬を膨らませた。
クリスマスも間近に迫り、冬の寒さは更に厳しくなっていった。
そのまま世界全体が凍りかけの水の中に入っているかのように、凍てつく空気が張り巡らされ、ちらほらと白い雪も降り始めた。
バイトを終えて、帰路についていた僕はふらふらだった。
単にバイトが疲れたからではなくて、これは間違いなく風邪をひいてしまったせいだった。
頭がぼんやりとして熱い。帰ってすぐに寝ようという願望以外には何も考えられないくらい思考はろくに働かなくて、自分が今どこを歩いているのかすら把握できているのか怪しいものだったが、自分の中にある帰巣本能のようなもので何とか僕は重たい身体を引きずるように歩いていた。
自宅のそばの小さな公園を通ると、そこにはいつか出会った黒猫が、この間と同じように木の下でちょこんと座っていた。
そしてこの前と同様に、遠くから動かずにただじっと僕を見ている。
僕はまたその猫に近づいて、あやしてやりたかったが、今の僕はそんな余裕ある状態ではなかったし、猫にうつるかは分からないが、風邪をうつしてしまってはいけないと思い、力なく手を振ってそのまま自宅へ帰った。
帰りつくなりまっすぐベッドへ向かい、そのまま倒れこんで、着ていたコートを放り出し、ふとんをかぶった。
頭はグルグルとしていた。横になっていてもちっとも楽にならない。
眠りに入る直前、あの黒猫のことを思った。
かまってあげられなくて、なんだか悪かったような気がした。まあ黒猫からしたら別に余計なお世話かもしれないけれど。でもなんとなく、じっと僕を見る黒猫の視線はほんのちょっぴり寂しそうだったようにも、思えなくはなかった。
原色の絵の具をぶちまけて、ぐちゃぐちゃにかき混ぜたような夢をみた。
暗く、重苦しく、何が何だか訳が分からない。
苦しい状態から抜け出したくて、いくらもがいても身体は金縛りにあったように動けない。
そんな状態が永遠につづいてしまうんじゃないかと僕は底知れぬ恐怖に包まれていた。
僕をそんな悪夢から解放してくれたのは、現実の呼び鈴の音だった。
真っ暗な部屋の中で、その乾いた高音はやけに大きく部屋全体に響き渡る。
どのくらい寝ていたのか分からないが、僕は寝ていたにも関わらずひどく疲れていて、よけいに風邪が悪化したようにも思えた。
僕はのろのろと立ち上がり、ふらふらでがんがんの頭を押さえながら、玄関に向かった。
たいてい呼び鈴が鳴っても、新聞や宗教の勧誘だったりするから居留守を使うことが多いのだけど、その時は何も考えずに吸い寄せられるように玄関へ向かい、ドアを開けた。
僕の視界には紗理の大きな瞳が映った。
寝起きで夢と現実の区別がついていなくて、その場の状況がいまいち理解できなかった。
でもそこには、分厚いコートを着て、マフラーで顔半分を覆い、黒縁眼鏡をかけている紗理が確かにいた。その格好は、北極とかの住人のように着ぶくれていた。
「ひどい顔。」
じっと僕を見つめていた紗理の瞳が、優しい色を浮かべた。
大きなコートからわずかに覗く白い手を僕の額に当てて、結構熱あるね、とつぶやいた彼女は、当然のようにそのまま僕の部屋へ入った。電気を点け、僕をベッドに寝かしつけてから、手に持っていたスーパーの袋から冷却シートを取り出して、僕の額に貼った。
一瞬その冷たさにびっくりさせられた。紗理はその後冷蔵庫を開けて氷を取り出し、氷枕を作ってくれた。
「お粥作るけど、食べられる?」
食欲はあまりなかったけれど、僕は黙って頷いた。
紗理はとても慣れた手つきで、実にてきぱきと動いていた。彼女にこんな一面があるのに驚いて、僕はただじっとその姿を目で追っていた。
湿布のような冷却シートの冷たさが額からじんじんと伝わってくる。でもその冷たさは、さっきまでのぼんやりとした意識をだんだんとはっきりさせてくれた。
部屋の中が蛍光灯の光で満たされ、換気扇の音や紗理が小気味よくまな板をたたいて野菜を刻む音が聞こえる。
死んでいたような暗い僕の部屋は、紗理が来てくれて生き返ったようだった。僕の方も、頭の中ではなぜ紗理が突然来たのかを理解できなかったし、整理できるほど正常に僕の頭は働ける状態ではなかったので、余計なことは考えないようにした。
紗理がいま目の前にこうしていることが、今の僕にとっては救いで、暗闇から解放されてとても安らかなものに包まれるように感じられた。
紗理の手料理を食べるのは初めてだった。その初めて食べる彼女の手料理は質素なお粥だったけれど、人参の赤やネギの緑、透明な大根などの野菜が色鮮やかに散りばめられていて、とてもおいしくて食べれば食べるほど身体が温まって、元気になっていくようだった。
黙々とお粥を口へ運ぶ僕を、紗理はただじっと、まるで病人がどのようにお粥を食べるのかを観察するようにしげしげと見つめていた。
紗理はお粥を作っていた時から眼鏡を外している。おそらく湯気で眼鏡が曇ってしまうからだろう。だからその強烈な瞳にずっと僕は見つめられていたので、少し恥ずかしくてただお粥を食べる作業に集中していた。
彼女が料理を作るなんて話は聞いたことがなかったし、料理を作るイメージもなかったので、このような見事なお粥を作れる紗理というのがとても意外だった。
「おいしい?」
紗理は何も言わなかったけれど、その瞳はそう言っているようだった。
「すごくおいしいよ。こんなうまいお粥食べるのは、初めてだ。」
僕は紗理を見て、ニコリと笑った。
「お粥くらいで大げさだなあ。」
紗理は、その瞳にやんわりとした色を浮かべて微笑んだ。明るい部屋の中で、紗理の瞳は褐色に輝いている。蛍光灯の光に反射しているのが、太陽に反射して輝く星のように瞳自体が光を放っているかのようだ。
お粥を食べ終えて、紗理の暖かな光に照らされると、少し元気になった。
「ごめん。色々と世話をかけてしまった。」
紗理は首を振った。
「風邪は辛いもんね。しっかり寝たら治るのだろうけど、治るまでの間、独りで苦しんでしまうのは、とても辛い。そばにいて、少しでも気持ちが楽になればと思って。」
紗理は照れているのか、胸元のネックレスをいじりながら、小さな声で言った。それは僕が彼女に贈った、あのアクアマリンのネックレスだった。
「それ、ちゃんと着けてくれているんだ。よかった。」
紗理はギョッとした顔をして、ネックレスから手を離し、照れ笑いを浮かべた。
「紗理が来てくれて、ほんとに気持ちが軽くなったよ。紗理が来るまで、独りでうなされてたから、紗理が天使に見えるよ。」
「ほんとに、大げさだなあ。病人の戯言なんて、聞いていられないよ。」
僕は、また彼女にベッドへ寝かしつけられた。
紗理の細い指が僕の前髪をかき上げる。少し照れながらも、ぎこちなく微笑む彼女の顔が、僕のぼんやりとした視線の中で静かに揺れていた。僕が眠ってしまったら、紗理はもう帰ってしまうのだろうかという不安が顔に出てしまっていた僕を見て、彼女はクスリと落ち着いた笑みを浮かべた。
「大丈夫。そばにいるよ。」
穏やかな声で紗理は言いながら、僕の手をぎゅっと握った。
「今日くらいは、ちゃんと面倒見てあげるから、早くよくなってよね。」
「風邪、うつしちゃったらごめん。」
「その時は、看病してもらう。」
はじめ冷たかった彼女の手が、僕の手の中でだんだんと暖かくなっていく。彼女の手の感触を確かめながら、彼女の瞳に見とれながら、僕はいつの間にかうとうとと眠ってしまっていた。
雀の鳴き声がして、僕は目を覚ました。
部屋の中は電気も消えていて薄暗く、朝のやわらかな光がうっすらとカーテンを透かしている。
昨日までの重苦しい体調は嘘のように軽く、とてもすっきりとした目覚めだった。
紗理の姿は見えなくて、薄暗い部屋はひっそりとしていた。彼女が来て、にわかに活気づいていたこの空間が、閉まってしまった遊園地のように、がらんとした寂しさのようなものがある。
僕の手には、紗理がずっと握ってくれていた手の感触がまだ残っているような気がした。
起き上がって窓を開けると、冷たい風で鳥肌が立った。空は雲一つなくて爽快な碧が広がっている。
外には昨日降った雪の名残がちらほらとあって、道路の端や木々の根元で小さな雪が朝日でキラキラと光っていた。
寒いので窓を閉めようとした僕の目に、黒く小さいものが目にとまった。
僕の部屋からは、そばにある公園が見える。その公園にあの黒猫がいたような気がした。
僕は目覚めもよく身体も軽かったので、散歩のつもりで外に出てみることにした。
朝の空気は、静かで澄んでいる。会社に向かう人や車がちらほらと通り過ぎていき、寝起きと同じように少しずつ世界が動き始めているような感じだった。
吐く息が白くなってあらわれて、朝の空気に溶け込んでいく。
公園に着くと僕の思った通り、いつもの木の下にあの黒猫がいた。
時折大きな目を瞬きしながら、近づいていく僕をじっと見る。
僕は黒猫のそばに座って、笑いかけた。
「今日も寒いね。」
小さな声で語りかけると、黒猫は瞬きをして、細長い尻尾をするりと動かした。
僕は黒猫の頭をゆっくりと丁寧に撫でた。外にいるにも関わらず、意外と黒猫の体温は温かかった。
家から持ってきた食パンを小さくちぎって、黒猫に差し出した。黒猫は僕の手のひらに乗っているパンのかけらへ慎重に鼻を近づけて、ひょいと口へ入れた。もごもごと小さな口を懸命に動かしている姿は可愛らしい。
もう一度パンをちぎって黒猫に与える。その行為を三度ほど繰り返して、食べ終えた黒猫はじっと僕を見上げた。
大きな瞳は綺麗に磨かれた硝子玉のように、少しの陰りもなく、朝の空気のように澄んだ輝きを放っている。
僕はその猫に名前があるのか分からなかったが、自分の中でふと思いついた名前をさりげなく呼んでみた。
黒猫はじっと僕を見つめて、小さな鳴き声をあげた。
終
この作品では、登場人物の年齢等はあえて詳しくは書きませんでした。結末もぼかしているので、すっきりしなかったり、腑に落ちない方もいるかもしれませんが、読む人の解釈で捉えて頂ければと思います。二人が同い年なのか歳が離れてるのか、高校生か大学生かフリーターか、黒猫の正体は紗理なのかもしれないし、違うかもしれない。解釈は限られていくとこもありますが、読む人によって、様々な色を帯びる、そんな作品であればと思います。最後まで読んで頂きありがとうございました。




