ガルディア司教長
雄大なる山々と、海をも思わす大河に囲まれし水の王国エルヴィガルナ。
その中心には二つの城が双子のようにそびえ立っている。
一つはエルヴィガルナの現在の王城である白亜の城シャングリディエガが。
そしてもう一つはかつての王城であり、現在では水神ミューティアを祀る国教ミュティヌス教会の総本山となった蒼き湖上の城サファティガルが。
「まだ目覚めないのか!あの落ちこぼれは!」
静寂に包まれた教会の回廊に、似つかわしくないダミ声が響き渡る。声の主はでっぷりした巨体に銀と青の装飾の入った白いローブと幾重もの装飾品を纏い、魔蛙のような顔をしかめた。
一見すると悪徳領主の様な風貌のこの男…
「落ち着いて下さい。アルギア副主教様。」
…ミュティヌス教会のNo.2である。
「落ち着いてなどいてられるか!あの忌々しい根暗め!何の役にもたたぬくせに、身投げとは!醜聞にも程があるわ!!」
青筋をたてて捲し立てる様は、フロッガーを通り越して小鬼のようである。
「まだ身投げと決まった訳ではありませんが。」
感情の籠らない声で淡々と応えるのはミュティヌス教会本部の司祭を纏め上げるガルティア司教である。弱冠26歳という若さで教会の第四席に就く有能さを持ち、生家の身分も高く、加えて身目も良い為婦女子から人気が高いのだが、
「それに今更醜聞の一つや二つ増えたところで何も変わらないでしょう。」
如何せん冷徹無比な毒舌家な為、もっぱら観賞用に留まっている。
「あの能無しの醜聞が増えるだけなら問題はないわ!身投げともなれば教会にも何らかの非があると思われるであろうが!」
唾を飛ばして喚く副主教を一瞥する。今更何をと思わないこともないが、言えば更に喚く事間違いなし。黙って聞き流すが吉である。
「とにかく!目を覚まし次第今回の失態について言及しろ!事故ならばある程度の罰則で許してやらなくもないが、身投げなどという教会の品位を貶めるような愚かな考えを持つならば、然るべき処置をとれ!」
「然るべき処置とは?」
「幽閉するなり何なり好きにしろ!アレはお前の担当だろう!」
自分の言いたいことを言い終わるや否や、副主教はドスドスと音を立てて歩き去って行った。
(押し付けておいて良く言うものだ。)
去って行く副主教を鉄面皮を崩す事なく見送り、自室へと続く回廊を歩きだしながらガルディア司教長は胸中で毒づいた。
何を隠そう、元々のファルシアスの担当はアルギア副主教であった。しかし、副主教直々に選んだ教師役がファルシアスに能無しと判定を下してすぐに、目をかける価値なしと担当から外れたのだ。
そして、その後釜として担当にされたのが、当時16歳という若さで最年少司教となり注目を集めていたガルディア司教長である。恐らく、調子に乗っている若僧への当て付けのつもりで押し付けたのであろう。
(俗物な副主教とその取り巻きに目の敵にされるとは、神子もつくづく哀れだな。)
今だ自室の塔で目を覚まさないファルシアス。目覚めない方が幸せなのでは無いかとさえ思える。
ミュティヌス教会本部は長い間、アルギア副主教が教会内の権力を牛耳っている状態が続いている。
教会内にファルシアスを不憫に思う者が居ないわけではない。しかし、下手に庇い目をつけられれば、教会内での居場所をなくす事になる。実際にファルシアスに初めから付けられた侍女の中で残っている者は極少数である。
ファルシアスは神子であるので、さすがの副主教達も命を脅かすような真似は出来ない。最低限の生活と生命は保証されているため、冷遇を見て見ぬふりでやり過ごし、ファルシアスに対して興味のない素振りを見せる事が、周りの者にできる精一杯であった。
(哀れには思うが、私とて今の地位を無くすわけにはいかぬしな。)
自身の思惑の為に、今この地位を失うわけにはいかない。
しかし、身投げするほど追い詰められていたとなれば、何らかの手は打たなければならない。
ファルシアスが自身の神子としての立場を嵩に着て好き勝手やるような娘であったり、自身の境遇を恨み周りに当たるようならば多少は気も楽であろう。だが実際には彼女はどこまでも内向的で、周りに怯えて文句や恨み言どころか弱音すらも漏らさないため、表に出さないだけで罪悪感に埋もれている者も少なくない。特に敬虔にミューティア神を信仰している信徒達はいずれ神罰を下されるであろうと覚悟を決めている者も多くいる。
(しかし、そこまで追い詰められていたか。いや、よく考えれば10年間ももっていた方が奇跡だったのかもしれないな。)
かく言うガルディア司教長も少なからず罪悪感を持つ一人だ。鉄面皮な冷徹無比の為、冷酷非情に思われがちだが、冷静に状況を見れるが故に、表だって自身ができる事はないと判断している。また、それを不甲斐ないとも思っている。顔には全く出ていないが。
副主教から目を付けられない為にも、最低限の生活を送れる程度にしか環境を整えてやれず、直接の接触もなるべく避けてきた。唯一十分してやれた事は、不慮の外敵から神子の命を守るという名目で、密かに部屋の外と塔の周りに護衛を配置していた事だけだ。それも、手の届かない室内で、自ら命を絶たれてしまえば意味をなさないのだが。
(如何に上手く事故に見せかけ、穏便に処理するか。)
彼はまだ知らない。事を起こした張本人が普通に済ましてなるものかと画策している事を。
思案しながら歩みを進め自室の前にたどり着けば、侍女長が控えていた。
「お待ちしておりました。ガルディア司教長様。神子ファルシアス様がお目覚めになりました。」
「うむ。すぐに向かおう。」
これといった案が思い付かぬままだが、起きた以上は話を聞かなければならない。どのみち状況に合わせた事故を作り上げなければならないのだから、話を聞くのが先である。
(さっさとしないと、また、あのせっかちが煩いからな。)
教会内には害虫のように副主教派がうようよ潜んでいる。司教長が知らせる前に、神子が目覚めた事は副主教の耳に入るだろう。
これからの事を考え、多少の頭の痛さを感じつつ、ガルディア司教長は侍女長と共に神子の待つサファティガル城の尖塔へと向かって行った。