背中
彼の身体は決して大きいわけではない。
どちらかというと小柄な部類だ。
けれど、私はその小ささを感じたことなどまったく無かった。
だって、いつだって彼の心はとても強くて、広くて、大きかったから……。
背中
その日、彼の様子がおかしかったことに私はすぐに気がついた。
なんとなく……なんとなく、彼の背中を小さく感じたから。
それは頬を切り裂くような冷たい風が吹きすさぶ中で凍えているから? ううん、そうじゃない。
そんな外的影響を受けてじゃなく、もっと内面的なこと……。
彼の仕事は特殊な消防士だ。正式には消防救助機動部隊……わかりやすく言うとハイパーレスキュー隊。いつも危険と隣り合わせの仕事をしている。
背は小柄だとはいえ、引き締まったたくましい筋肉質な体をしている。力も強い。自分の倍もあろう体重のひとですらひょいと担ぐ。
仕事でも新人研修の教官として鬼の軍曹役を指名されるくらいの、なかなかの出世株だ。
心身ともに私に比べれば相当強い。
とはいえ彼だって人間だもの。調子を崩すこともあるし、メンタル面で凹む事だってあるだろう。
けれど、今日のそれはいつものそれとはまったく違っていた。
カララとサッシを開けると、予想以上に外気は冷えていた。手に持っていたマグカップから塊のように立ち上った巨大な湯気の塊に襲われて、私はとっさに目を瞑った。
「……何してんの?」
振り返った彼が覇気の無い声でたずねた。
何してんの? っていうのは、私の言う台詞だと思いますが?
こんな寒い日にずっとこんなところで突っ立っているんだから。
私は苦笑いを浮かべた。質問を質問で返すようなことはせず、かわりに手に持っていたマグカップの一つをぐいと彼に押し付ける。
「ココア」
もうもうと湯気が立ち上り、甘い匂いが彼の元にも届いたのだろう。
「ココアって、ガキやあるまいし」
彼は苦笑いしながらも、受け取って儀礼的に口元に運び一口啜った。
「アチッ」
反射的に身体を後方に引き、外気に触れさせるように舌を出した。そんな仕草はいつもの彼だけれども、その後マグカップを下方に下げてまた遠くを見つける彼は、やはりいつもの彼らしくなかった。
……凹んでるとは思ってたけど、これは重症だ。
機嫌の悪いときだったら近付かずに放っておこうって思うけれど、なんとなく彼の危ういほどの空虚感を感じ、私はそこから離れられなくなってしまった。
「……寒いのに、中入りや?」
マグカップを片手で握ったまま、冷たいベランダを抱え込むように凭れ掛かった姿でこちらを見ようともせず、私のことだけ気遣う。
たしかに本当に寒い。耳の横がぴりぴりするほど痛かった。
けど、このまま彼を外に一人で出していたくもなかった。
「そうなんだけどね」
私も小さく呟いて、彼の右隣に佇んだ。
今日は空気が澄んでいるのだろう。たくさんの車のヘッドライトの流れや、遠くの船の明かりまではっきりと見えた。
かじかんだ手に、手の中のマグカップの熱が痛い……。
でも、隣の彼が感じている痛みは、こんなものではないのだろう。
私はマグカップに視線を落とし、何度も表面に息を吹きかけてココアを啜った。
甘い、とても甘いホットドリンクが、滑らかに喉を嚥下していく。
しばらくしていると、隣の彼もズズッと音を立てながらココアを飲み始めた。なにもそこまで下品に飲まなくてもいいだろうって思うくらい、まるでうどんかラーメンを啜るみたいにズズズ、ズズズとココアを啜り飲む。
でも、ま。うん。
何かを胃に入れようと思えるくらいには大丈夫、ということだろう。
食べるということは生きるということの基本だから。
じんわりと、ココアの甘さと熱さが硬くなっていた身体を解きほぐす。やわらかくなった身体が外気の冷たさを感じ、それまで忘れていた寒さを思い出したのだろう、彼はぶるっと一震えした後、天井に向かってはぁ、と白い呼気を吐き出した。
コトンと空になったマグカップを室外機の上にのせて背後から私の身体を抱きしめる。最初は冷たく冷えてる彼の身体にぞくっとしたけれど、すぐに懐の熱い体温を感じて、寒さが半減した。
耳元に感じる彼の呼吸がくすぐったくもあり、愛しい。
「なぁ」
「うん?」
「俺、間違えたんかなぁ?」
何を?
私はそっと彼の様子を伺った。
「俺、いい手本がおったのに、なんでこないなことになったんやろう?」
私はゆっくりと彼を振り返った。
とても弱々しく、震えた声。
いい手本、というのは今年、本場のレスキュー隊に研修にいってしまった彼の先輩上司のことだろう。ずっとその人のこと、彼はとても崇拝していた。
そして心当たった。
彼が落ち込んでしまっている要因に。
最近TVでもニュースで流れていた。
彼の教え子が、レスキュー中に事故にあってしまったのだ。
無茶な救助を試みたとか何とか。
「俺は、あんな救助の仕方を教えたわけじゃないつもりやったのに。あいつは、あんなことするようなやつやなかったと思ったのに。なんか間違えとったんやろか? こんなんやったら……あの人に、どうやっても追いつけんし、顔向けもできひん」
痛々しい彼の吐露に私の目頭が熱くなった。
今回事故を起こした彼の教え子は、彼が敬愛する先輩が気に入っていた、眼にかけていた部下の一人だったらしい。
部下の成長を気にかけながら渡米した先輩が、この事故を聞けばどう思うだろうか? つまるところ、彼の心配はそのことだろう。
この身体はどれだけの感情と責任を抱え込んでいるのだろう?
危険な場所で助けを待っている人を救出に行く、もちろん自分の命を真っ先に守る、隊長として部下の命を優先する、状況をいつでも的確に判断する。
時として誰かのことを生殺与奪するに近い状態まで追い込まれることもあるだろう。
全てにおいてのプレッシャーは相当のもののはずだ。
「……あの人の状況と、あなたの状況は違うでしょう?」
私も手を伸ばして手にしていたマグカップを室外機の上にのせて振り返り、そっと彼の頭に手を回した。癖が強いから少々ごわついてるけれど、すんなりと手になじむ髪の毛に指を絡ませる。
「けど、あの人がおったらこんなことにはなってなかった気ぃするんや」
『あの人は部下を死にかけるような状態にするとは思えん』
いつでも彼が言っていた、あの人の強烈な印象。
私の腕の中で、彼の肩が震えていた。
いつもなら決して見せない、彼の弱さ。本当なら痛い筈なのに、どこかで湧き上がるくすぐったい喜びがあった。感じてはいけない、そう思いながら、否定しきることができない、彼の弱さを見た自分の喜び。
胸がキュンと締め付けられそうだ。
でも、それだけは絶対に彼に知られてはいけない。
それに、まず私がしなきゃいけないことは、ここからの挽回だ。くすぐったい喜びとか、嬉しさなんて、それができなきゃ絶望に変わるだけだから。
しかも、この仕事は相当難しい。
「もう、どないしようかな……。あの人、戻って来ぃひんかな」
それは、すなわち彼の失脚をあらわすのだろう。
すでに私は彼になんと言葉をかけていいのかわからずに、自分の語彙の少なさを呪いたくなっていた。
そんなこと、言わないで。
幸せな気持ちは露と消えて一瞬でも浮かれた自分が恥ずかしくなる。私は自分の気持ちを伝えられないもどかしさに苛立った。自分の無力さが悔しくてただただ彼に回した手に力を込める。
どうしたらいいだろう。
ずっと、あの人の背中を追いかけて、今なお彼を支配する強烈な存在に、私は何を言えるだろう。
「……俺は、今こんな風にお前のこと抱きしめとるけど……本当はそんな資格なんてあらへんのかも」
「そんなことない!」
私は間髪入れずに強く否定した。
「あの人がいたら、とか……もし、自分が隊長じゃなかったら、とか……そんなこというの、あなたらしく無いよ。あなたはいつだって与えられた中で全ての能力を発揮できてたじゃない、あなただってすごく早くたくさんの仕事をこなしたじゃない! お願いだからこれまでの自分を全部否定しないで」
どういえば思いは届くだろう。
きっと、あなたの先輩でも、無理なことがあったよ。
あなたが思ってるほど、あなたは悪くないよ。
だって、確実になたに救われた人はいるのだから。
あなたの存在に心を救われている人間が、確実にここに一人はいるんだから。
「それにあなたが私を抱きしめてくれなかったら、誰が私を抱きしめてくれるの? あなたが生きてここにいてくれるから、私は毎日ここで笑っているよ? あなたにそれを放棄されたら、私はどうすればいいのよ、他人のところに行けって言うわけ?」
私は拳骨で彼の胸をトンと叩いた。
誰かのところに行くなんて、想像もつかない。
行きたくもない。
悔しさ交じりの涙が溢れてきそうになり、我慢してたけど、かわりにう~といううめき声が溢れた。
だって、本当に悔しかったから。
なんで、なんで、そんなに私のことまで否定するくらい弱くなるのよ。
「すまん、やつあたりやった」
彼が私の手を取って改めて抱きしめてくれる。
その力強い温もりを離すまいと私は彼をぎゅっと強く抱き返した。
「本当にね、そんなやつあたり、勘弁して欲しいわ」
私はむーっと唇を尖らせて彼に言って、
「でも、今の状態はあなたにとって苦しいかもしれない、つらいかもしれない。けど、きっと、あなただけじゃないでしょう? 苦しんでるのも、悲しんでいるのも、あなただけじゃないでしょう?」
私は目の前の顔を見つめた。両手で頬をパンと挟んで、彼の目を睨むように見つめた。
彼の話を聞く限り、こんな状態になって落ち込んでいるのは彼だけでないはずだ。彼の仕事仲間は皆、仲間思いの人たちが揃っているもの。
私は核心持っていえるよ、きっとあなたの教え子のニュースを聞いて心を痛めているのは、あなた一人じゃないって言うことを。
「ねぇ、その人達は? まだあなたみたいに落ち込んでるだけなの? それとももう変わろうと努力している?」
私は彼に問い続けた。
「あなたはこれから何をすべきなの? 今、目の前にいない背中を見続けて、自分がふがいないばかりに、って落ち込むだけ落ち込んで、この後の事故処理を他人に押し付けるの? あなたはそんなことができる人間じゃないでしょう?」
私はぐいっと彼の顔を引っ張り寄せると彼の額に口付けをし、手をぱっと離した。
もうおしまい。これ以上ここで話し合っても、寒いだけだ。
私はエアコンの室外機に乗せていたマグカップを拾い上げると、温かい暖房の部屋に戻っていった。
背後で彼が何をしてるかなんて、もう振り向かないから知らない。
寒さに乾いてコップにこびりついたココアの細かい泡を、お湯でやわらかくし洗剤を含ませたスポンジできれいに拭いとる。
わざとガチャガチャ音を鳴らせて洗っていると、いつの間に戻ったのか彼がすぐ近くに立っていた。
シンクに手を突いて
「おまえ、格好ええな」
いきなり変な感想を述べてくださった。
「はい?」
「いや、漢前やなぁ、思って」
……今、男の字じゃなく漢の字で言った?
私は顔が引きつったのを感じた。
「そりゃ、どうも」
お世辞にも言って欲しくなかったわ。
私はマグカップを食器乾燥機に入れながら、ふむ、と頷いた。
どうやら、つき物は落ちたらしい。
しかし、あんな一言で浮上するとは……。
サドっぽいくせに、たまにマゾっぽいところがある。何とかとなんとかは紙一重、って言うから彼もそうなのだろうか?
「で? 頭を冷やして、何か答えは出てきた?」
濡れた手をタオルで拭きながら尋ねると、彼はにっと笑った。
もう、いつもの顔だった。
「とりあえず、寝る。いろいろ回復せなあかんし」
「そうだね」
私は頷いた。最近ばたばたして、ろくすっぽ眠れてないものね。
「だから」
彼はそういうと私をほい、と荷物を扱うように抱き上げた。
「ちょ、なにすんのっ」
私がじたばたしても、こうなったら彼の力には叶わない。小さくともとてつもない体力を秘めている。
「別になんも。一緒におって? 寝よ」
彼は簡単にそう言って、寝室の扉を開きどさりとベッドに私を下ろした。
エアコンをつけてなかったからひんやりとした空気が肌を撫でる。
文句を言おうとしたけどすかさず彼の唇が私の唇をふさいで、柔らかな舌が当たり前のように進入してきた。
軽く咥内を確認するだけのキス。唇が離れた後、私たちは互いをじっと見つめあった。
「あなたはそんな資格、無いんじゃなかったの?」
私が問うと、
「ん。いや、お前泣かせるん嫌やし、とりあえず手始めにできるところから回復したいやん?」
彼は私を胸に抱きしめて、そのままベッドにどさりと倒れこんだ。
「それにこんなこんなええ女、他のやつに渡せるわけ無い」
続けて言われた台詞に、私は我が耳を疑った。
「勇」
驚いて彼を見ると、彼はもう目を閉じて眠りの体制に入っていた。
覘きこんだけれど、もう口を開く気はないらしい。
しかたなしに私も彼の隣にもぐりこんで眠る体制をとる。自然に私の背に回された手に確かな温もりを感じ、私も彼の背にそっと腕を回した。
彼の背負うものと、彼があこがれる人の背負うものは似ている。同じ道に進んで行こうとすればするほどなおさらだ。けれど、人によって道が違う、速度が違う、気候が違う、負担が違う。
決して同じにはありえない。
だから、あの人がいたらこんな事故はおきなかったなんて、そんな都合のいいことはありえない。事故は起こるべくして起きたのだ。
彼の背中はとても広くて頼りがいがあって強いけれど、やはりこの手に抱きしめられるほど小さいものでしかない。
彼の背負っているもの全てを肩代わりできるなんて思わない。けれど、きっと私が背負える部分があるだろう。
二人分の背中になったら、幾分面積が増えるから。
彼と一緒に生きていくって決めたときに、できるだけ彼を支える柱になろう、そう心に誓ったのだ。
私は腕の中で健やかに寝息を立てる彼を見て胸の中に湧き上がる暖かさに涙した。