気のせい
「おう、久しぶりだな!さ、遠慮せず上がってくれ」
男は玄関のドアを開けたまま、目の前の友人たちにそう声を掛けた。
「邪魔するぜー」
「おじゃましまーす」
社会人となってから数年は経っているのに、大学生の頃と全く変わっていない姿には安心感さえ覚える。靴を脱ぎ散らかして辺りを見回す正樹に、丁寧に正樹の靴も整える瑞葉なんかはまさに。まさかこれがまた見られるとは……。
男は二人をリビングまで案内した後、早速冷蔵庫から酒を取り出し、ソファに腰を下ろした二人に手渡した。
「じゃあとりあえず、乾杯だけしちゃおうぜ。正樹頼むわ」
「よっしゃ任しとけ」
そう言うと正樹は、手に持ったビール缶を上に掲げた。
「えーみんな今日も一日、仕事お疲れ様でした!今夜は朝まで飲むぞー!乾杯!!」
「乾杯!」
「かんぱーい!」
そうして、小さな同窓会は幕を開けたのだった。
「結局さ、牧先輩って就職したんだっけ」
「さあ、したんじゃねえか?」
「途中からサークル来なくなっちゃったもんねー」
仕事や知人、思い出話で盛り上がり、段々と酔いも回ってきた頃。
ずっと気になっていたと言わんばかりに、正樹が口を開いた。
「しっかしよお。話には聞いてたけど、ほんとに木造なんだな。マンションとは思えねえわ」
「ねー。広いし綺麗だし…………お高いんじゃないの?ねー」
「それが、そうでもなくてだな」
ニヤニヤとこちらに顔を向ける瑞葉に、男はあえて神妙な顔をして言った。
「実はここ……事故物件らしいんだ」
「……え?冗談……よね?」
その言葉に、男が無言でニッコリと笑顔を返すと、瑞葉は小動物のようにきょろきょろし始めた。……少し、怖がらせすぎたかもしれない。
「おいおい、大丈夫なのか……?」
「まあ、事故物件と言っても、幽霊が出たりなんてしてねえし、人がここで死んだとかでもないしな。ただ前の入居者が、二人連続で行方不明になったってだけだ」
「それはそれで怖えーよ」
「ははは、ちがいねえ」
「……」
「ほら、瑞葉だってこんなに震えて…………瑞葉?」
「…………ううん、なんでもないの。気のせい、多分気のせいだから」
「……おい、変なこと言うなよ。こっちまで怖くなってくるわ」
「あはは、冗談……うん、冗談だから」
「……ったく、そんなんだから彼氏にも――」
「ちょっと、それは今関係ないでしょ!?だいたいそれを言うならあんたも――」
その後も、特に何事もなく飲み進めていき、終電がくるからとお開きになった。
「んじゃあー俺らは帰るわー」
「ごめんねー片付け手伝えなくて」
「あーいいからいいから、早く帰んねえと間に合わなくなっちまうぜ」
男は二人を見送るため、ソファから立ち上がった。
「あーすまんトイレだけ借りていいか?」
「おう」
玄関に向かう途中で、正樹が廊下を引き返しトイレに向かった――その時。
ドンっ、と何かが倒れる音が後ろから聞こえてきた。
男は足を止め、後ろを振り返る。
するとそこには――
痛ってぇー、と手をつきながら倒れている正樹がいた。
「……おいおい、大丈夫か?なんもないとこで転ぶなんて、流石に酔いすぎだろ」
「いや、今なんかにつまずいた気が……酔ってんのかな」
「……」
「まあいいや、さっさとトイレに…………なあ。なんか、鍵閉まってるんだけど」
「はあ?そんなわけねえだろ」
「いや、なんか開かなくてよ」
そう口にして、ドアの取っ手をガチャガチャする正樹。見ていられなくなった男はトイレまで向かって取っ手を掴み――扉を開けた。
「ほら、普通に開くじゃねえか」
「……ほんとだ。おかしいな」
「やっぱ飲みすぎて酔ってんだって。昔より酒弱くなったんじゃねえか?」
男がにやりとした顔を正樹に向けるも、正樹は言い返すどころかしばらく黙ったまま固まり……やがて動き出した正樹は目も合わせないまま口にした。
「……だといいけど」
「――じゃあ今日も、元気に一日を過ごしていきましょう」
「よーし始めるかあ」
「A社の案件って誰がやってるっけ」
「A社については私と――」
サウンドデザイナーとして働く男は、今日もオフィスで効果音作りに励んでいた……のだが。
「課長。これ、チェックお願いします」
「あーはいはいどれどれ…………うーん森中くん。ここ、ノイズになっちゃってない?」
「……ノイズですか?」
「うん。何というか……音が強い?重ね過ぎっていうか……そういう意図ならいいんだけど」
「……私には、ちょうどいいようにしか感じないのですが」
「……え?」
「森中さん、今大丈夫ですか?ちょっと見て欲しいものがあって……」
「どれですか?」
「ここなんですけど…………あれ、森中さんって、そんなに目悪かったでしたっけ」
「え?」
「いやだって、流石に顔を近づけすぎというか……もう画面におでこつく勢いっすよ」
「……気づかなかった」
「森中さん、コーヒー淹れてきたのでよかったら……きゃっ!」
「おっとっと、大丈夫ですか?」
「ご、ごめんなさい!つまずいちゃって……って、コーヒーかかっちゃって……や、やけどしてないですか!?ごめんなさい!」
「いえ、大丈夫ですよ。特に熱くはな――」
「だ、大丈夫なわけないじゃないですか!持ってるだけでも熱かったのに……あ、やっぱり手が赤くなってます!すぐに冷やさないと!」
「……ほんとだ」
「それで、仕事を早退してうちに来たと。話を聞く限りでは、聴覚に視覚、それと触覚にも問題があって、それに今日突然気づいた……ってことでいいのかい?」
「はい」
「うーん……どこが原因となっているかは検査してみないと分からないけど、これだけ広範囲だといろんなものが合併してって可能性もある。幸いなことに、ここは大きな病院だから、とりあえず聴覚から――」
すぐに終わる、と言っていた検査から既に数時間が経過し、男は待合室で待ち続けていた。男もよく分からないまま病院内をたらい回しにされ、色々と検査を受けさせられたが、それほど重大な病気なんだろうか。
男は特に何をするでもなく、呼び出し番号だけをぼんやりと眺める。
そして。
「23番。23番の方は、9番の診察室へ――」
呼びだされたと同時に席を立った男は、診察室へ向かい――
「……正直に言うと、原因は分からなかった」
入って開口一番に医者からそう告げられたのだった。
「分からないって、そんなこと――」
「……調べたところ、確かに君は聴覚、視覚、触覚において異常が見られた。それに、君は気づいていなかっただろうが、嗅覚についても問題があると結果が示していた」
「じゃあなおさら――」
「が、君の体には何の異常も見つからなかった。いいかい?つまり医学的には、君に問題が起こるはずがないんだ」
気のせいってやつだね、と口にする医者に、男は何も答えられなかった。
「だから僕は初め、君が嘘をついているんじゃないかと疑ってもいたけど……どうやらそれも違うようだし、完全にお手上げだよ。何か思い当たるようなことでもあったりしないのかい?」
「……ありません」
それから。
この原因不明の病が一向にして治ることもなく、思うように仕事することも出来なくなり、それとなく休職を勧められた男はなんとかその日をやり過ごし、自宅へと戻ってきた。……いや、原因などとうに見当はついている。
「……」
男が自宅を見回すも、特に何かを感じることはない。もしかすればこれも、段々と感覚が鈍っているせいなのかもしれないが……。
あれから男は、色んなところに回った。しかし、医者は困ったように顔を振るばかりであり、神社に行こうとも「うちではどうすることも……」と門前払いされたのだから、意味はなかったと言えるだろう。なんでも、「悪い気はしていない」などと抜かしていたのだから、神頼みなどという胡散臭いものにまで頼った自分はあまりにも愚かだった。
男は気を紛らわせるべく、スピーカーを大音量にして正樹に電話を掛けた。
Prrrとしばらくコール音が鳴った後、聞きなじみのある声がスマホから聞こえてきた。掛けた先は間違っていないようである。
「……もしもし?」
「俺だ、正樹。ちょっと相談したいことが――」
「バカお前声でけえって!」
「あ、ああすまんこんなもんか……?それで最近なんかおかしくて――」
「……その前に。お前、今一人か?」
「あ?そうだけどなんだ?」
「……いや、なんか、ギシギシっていう音がずっと鳴ってて……なんつうか、木が軋む音っていうか……」
「……」
男が辺りを見回すも、やはり何かを感じることはない。それどころか、何故か段々と心地よさを感じているような気がする。
「なあ、瑞葉も俺もこの前は言わなかったけどさ…………やっぱりお前ん家……「火事だー!」……ッ!?悪い一回切るわ!やっぱり疲れてるだけかもな!」
「お、おい!……何なんだ一体」
男は、もっていた黒いもやのようなスマホをソファに投げ捨て、床に寝っ転がった。今夜は冷えるそうだが、もはや男に関係はない。
しかし、今にして思えばなぜ自分はあそこまで必死になっていたのだろうか。こんなに気持ちがいいのだから、初めから身を任せてしまえばよかったのに。
……違う。駄目だ。一刻も早く、ここからでなくては。
「……それにしても、疲れか。確かにそうなのかもしれない。幽霊なんて、いるわけがない。だから、こうして横になるのも仕方がない」
…………違う。違う。違う。これは疲れなんかではない。急げ。早く。今すぐに。で名けレば――
「目なんか見えなくとも、耳なんか聞こえなくとも、なにもおかしくない。そうでしょ?だってこれは――」
逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。
ソイツから、今すぐ離れろ。ソイツが、ソコがすべての――
「――全部、気のせいなんだから」
……アア、その通りダナ




