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枕草子は史上最高の百合作品であり、全部道長が悪い

掲載日:2026/06/16

古典の授業で、誰もが一度は読まされたことがあるであろう作品に、『枕草子』というものがある。


言わずと知れた清少納言の代表作であり、春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて、でおなじみの、あのやたらと教科書に載っている随筆だ。


では、その『枕草子』を読んで、皆は何を思っただろうか。


四季の美しさ?

平安貴族の雅?

清少納言の知性?

日本文学史における随筆文学の完成度?


なるほど。全部正しい。


しかし私は最初に読んだ時、真っ先にこう思った。


エロいな、と。


いや、もちろん『枕草子』はそういう作品ではない。別に直接的に何かが書かれているわけではないし、清少納言本人も「私と定子様の関係、どう? 湿度高いでしょ?」などとは一言も言っていない。


だが、書いていないからこそ、余計に来るものがある。


清少納言の主人である中宮定子と、清少納言の関係が、やけに親しい。やけに距離が近い。やけに空気がやわらかい。やけに、こちらが勝手に気まずくなる。


あれはただの主従ではない。


いや、歴史的には主従だ。そこは分かっている。分かっているけど、文章から漂ってくるものがある。部屋の奥に焚かれた香の煙みたいに、薄く、静かに、しかし確実に漂っている何かがある。


有名な「香炉峰の雪いかならむ」の一節を思い出してほしい。


雪の降る朝、定子が清少納言に「香炉峰の雪、どうなっているかしら」と問いかける。すると清少納言はすぐに御簾を上げる。これは白居易の漢詩を踏まえた機転であり、定子はそれを見て大いに喜ぶ。


授業ではだいたいここで、「清少納言は漢詩の教養があり、機転が利く女性だった」と説明される。


もちろんそうだ。


でも、それだけか?


私は思う。


これは、クイズに正解した話ではない。


これは、二人だけに通じる合図があった話だ。


定子がぽんと投げた言葉を、清少納言が即座に受け取る。説明はいらない。確認もいらない。定子が何を求めているのか、清少納言には分かる。そして清少納言がどう返すのか、定子もまた分かっている。


この噛み合い方。


この「言わなくても分かる」感じ。


もはや長年連れ添った夫婦のそれである。


しかも二人とも若い。美しい。教養がある。宮中という閉ざされた空間の中で、権力と儀礼と嫉妬と噂に囲まれながら、それでも一瞬だけ、雪を見るために御簾が上がる。


そんなの、どう考えても絵になりすぎている。


そして、もっとすごい場面がある。


ある夜、清少納言が定子のもとへ呼ばれる。そこで定子は、清少納言の髪に触れる。髪をほどきながら、「お前の髪はこんなふうなのね。私のものだったら、このまま取っておきたいくらいだわ」というようなことを言う。


どう?


エロくないか?


いや、今の感覚で「髪を触られた」だけなら、そこまででもないかもしれない。現代では髪はファッションの一部だ。短くしたり、染めたり、巻いたり、結んだり、気分で変えるものでもある。


だが平安時代の女性にとって、髪はただのパーツではない。


髪は美そのものだった。


長く、黒く、艶やかな髪は、女性の美しさを象徴するものだった。顔をまじまじと見る機会が少ない時代において、髪はその人の存在感であり、魅力であり、ある種の魂みたいなものだった。


つまり定子は、清少納言の美そのものに触れている。


そしてそれを、「私のものだったら取っておきたい」と言っている。


何それ。


告白じゃないか。


もちろん私が勝手にそう解釈しているだけだ。文学研究としてこれを提出したら、先生に赤ペンで「飛躍」と書かれるかもしれない。だが、飛躍して何が悪い。古典は飛躍するためにある。千年前の文章を読んで、千年後の人間が勝手に情緒を破壊される。それこそが文学の力だ。


清少納言にとって、定子はただの主人ではなかったのだと思う。


この人のそばにいると、自分が一番賢く、一番おもしろく、一番輝いていられる。


この人だけは、自分の言葉の速さを分かってくれる。


この人だけは、自分の才気を怖がらず、むしろ喜んでくれる。


そういう相手だったのだと思う。


清少納言は、自分の頭の良さを隠さない。むしろかなり見せびらかす。嫌いなものは嫌いと言うし、鈍い人間には容赦がない。現代にいたら、たぶんかなり炎上しやすいタイプだ。だが同時に、その鋭さを愛してくれる場所が必要な人でもあった。


その場所が、定子のいる宮中だった。


定子の後宮は、明るかったのだと思う。


知性があり、ユーモアがあり、ちょっとした言葉遊びがあり、女房たちの笑い声があり、美しい衣があり、香があり、雪があり、月があり、そして清少納言の「見て見て、これ最高じゃない?」という視線があった。


『枕草子』を読んでいると、ときどき清少納言の自慢話が鼻につくことがある。


「私、こんなに気が利くんだけど?」

「私、こんなに教養あるんだけど?」

「私、こんなつまらない男を論破したんだけど?」


みたいな圧がすごい。


でも、それすらも可愛いと思える。


なぜなら『枕草子』は、清少納言が自分のためだけに書いた文章であると同時に、定子のいた世界を保存するための文章でもあるからだ。


楽しかった日々。

輝いていた人。

もう戻らない宮中の空気。


清少納言は、それらを「春はあけぼの」という美しい冒頭の奥に、ぎゅっと閉じ込めたのではないか。


だから『枕草子』は明るい。


だが、その明るさは、ただの明るさではない。


失われたものを忘れないための明るさだ。


泣きながら笑っている文章なのだ。


さて。


そんな幸福な時間は、長くは続かなかった。


定子の実家である中関白家が、転落していくからだ。


定子の父は藤原道隆。道隆が生きている間、定子はまさに栄華の中心にいた。兄の伊周も出世街道を進み、弟の隆家もいる。中関白家は、一条天皇のもとで強い力を持っていた。


しかし道隆が亡くなる。


ここから、すべてが崩れ始める。


権力というものは、本当に残酷だ。昨日まで皆が笑顔で近づいてきた場所から、急に人がいなくなる。昨日まで「さすが定子様」と言っていた人間が、今日から別の誰かの顔色を見る。宮中とは雅な場所であると同時に、権力の天気予報を読む場所でもある。


そして中関白家にとどめを刺したのが、長徳の変である。


定子の兄、藤原伊周と隆家が起こした事件だ。


ざっくり言えば、伊周が通っていた女性のもとに、花山法皇も通っていた。伊周はそれを、自分の恋敵だと勘違いした。そこで弟の隆家とともに法皇を襲撃するような騒ぎを起こしてしまう。


いや、最悪である。


まず勘違いで権力者を襲うな。


恋愛で視野が狭くなるのは分かる。分かるが、相手は法皇だ。元天皇だ。そこに矢を向けるのは、もう恋の暴走とかいうレベルではない。平安貴族版の「ちょっと冷静になれ」である。


結果、伊周と隆家は処罰され、左遷される。


そして当然、その影響は定子にも及ぶ。


兄が失脚すれば、妹である定子の立場も悪くなる。後宮での力も弱くなる。定子を支えていた家の力が崩れれば、定子自身もまた宮中の中心から押し出されていく。


ここで思う。


伊周、何してるんだ。


本当に何してるんだ。


お前のその勘違いと短気のせいで、定子様の世界が壊れたんだが?


清少納言が愛したあの明るい後宮が、お前のせいで沈んでいくんだが?


香炉峰の雪を見て笑っていたあの空気が、お前のせいで二度と戻らなくなるんだが?


しかし。


ここで伊周だけを責めて終わるのは、まだ浅い。


伊周は確かにやらかした。かなりやらかした。擁護不能に近い。


だが、伊周が落ちたことで誰が得をしたのか。


ここで出てくるのが、藤原道長である。


そう。


道長だ。


出たな、平安権力バトルのラスボス。


道長は、定子の父・道隆の弟である。つまり定子から見れば叔父にあたる人物だ。そして道隆亡きあと、藤原氏内部で権力を握っていく。


歴史の授業では、道長はわりと「この世をば」の人として出てくる。


「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」


はいはい、出た。満月ポエム。


教科書では、「藤原氏の摂関政治が全盛期を迎えました」みたいなテンションで出てくる。道長、すごいね。権力を握ったね。娘を天皇に入内させて、外戚として政治を動かしたね。めでたしめでたし。


でも、定子側から見たら全然めでたくない。


道長の栄華とは、誰かの没落の上に咲いた花である。


その「誰か」が定子だった。


道長は自分の娘である彰子を一条天皇のもとへ入内させる。つまり、定子と同じく天皇の后となる存在を送り込む。後宮に新しい中心を作るわけだ。


ここから定子の立場はさらに苦しくなる。


一条天皇は定子を愛していたと言われる。そこがまたしんどい。政治的には定子の実家は弱くなっていく。道長の側はどんどん強くなる。だが天皇の心は、簡単には政治だけで割り切れない。


だからこそ地獄なのだ。


愛はある。


でも権力がない。


心は残っている。


でも場所が奪われていく。


こんな残酷なことがあるか。


一条天皇と定子の関係を美談として読むこともできる。だが、その美談の背景には、後宮をめぐる政治の圧力がある。定子はただ恋のライバルに負けたのではない。家ごと、政治ごと、時代ごと、押し流されたのだ。


そしてその流れを作った中心に、道長がいる。


もちろん道長が一人で全部やったわけではない。


伊周は勝手に失敗した。隆家もやらかした。道隆が亡くなったことも大きい。宮中の権力構造そのものがそういう仕組みだった。女の幸福が実家の男たちの出世に左右される時代だった。天皇の愛でさえ、政治の前では万能ではなかった。


それは分かっている。


分かっているが、私は言いたい。


道長が全部悪い。


厳密な歴史分析ではない。


感情の結論である。


推しの幸せを壊したやつは、だいたい全部悪い。


定子の人生を思うと、胸が苦しくなる。


彼女はただ美しく、賢く、明るい人だっただけではない。自分の後宮を、文化の花園にした人だった。そこには清少納言がいて、笑いがあって、教養があって、きらめくようなやり取りがあった。


なのに、その場所は長く続かなかった。


定子は出家する。けれど一条天皇との関係は続き、子も産む。だが彼女の立場はもう、かつてのようなものではない。華やかな中宮として宮中の中心にいた頃とは違う。政治の流れは完全に道長の側へ向かっていく。


そして定子は若くして亡くなる。


ここで『枕草子』の明るさが、急に別の意味を持ってくる。


春はあけぼの。


その言葉は、ただ季節の美しさを語っているだけではないのかもしれない。


春の夜明けは美しい。


けれど夜明けは、夜が終わる瞬間でもある。


夏は夜。


秋は夕暮れ。


冬はつとめて。


清少納言は、移ろいゆくものの美しさを知っていた。美しいものは、ずっと同じ場所には留まらない。花は散る。雪は溶ける。月は欠ける。人は去る。栄華は終わる。


だからこそ、書き留めるしかなかった。


清少納言が書いているのは、単なる宮中あるあるではない。


「かつて定子様のそばには、こんなにも美しい時間があった」


という証言なのだと思う。


そしてそれは、道長の時代に対する静かな抵抗でもある。


勝者の歴史は道長を書く。


権力の歴史は道長を書く。


摂関政治の全盛期として、道長の名を大きく残す。


だが清少納言は、その横で別のものを書いた。


道長が作った政治の物語ではなく、道長によって押し流された側の光を書いた。


定子がどれほど魅力的だったか。

定子の後宮がどれほど楽しかったか。

自分がその場所でどれほど生き生きしていたか。

そこにどれほど美しい会話があったか。


それを書いた。


私はそこに、清少納言の意地を感じる。


「そちらが権力で歴史に残るなら、こちらは文章で残ってやる」


みたいな意地だ。


道長は確かに勝った。


娘の彰子を入内させ、権力を固め、藤原氏の頂点に立ち、「この世をば」と詠むほどの栄華を手に入れた。


だが、千年後の私たちはどうだ。


道長の政治的手腕を学ぶ一方で、清少納言の文章を読んで、定子の後宮に心を持っていかれている。


香炉峰の雪の場面でにやけ、髪の場面で勝手に情緒を乱され、定子の没落に怒り、伊周のやらかしに頭を抱え、最後には道長に拳を握っている。


つまり清少納言は勝っている。


少なくとも、感情の領域では勝っている。


道長は政治で勝った。


でも清少納言は読者の心を奪った。


これはかなり強い。


権力は時代が変われば消える。官位も役職も、今となっては試験に出る単語でしかない。だが、「この人とこの人、なんか良くないか?」という感情は千年経っても死なない。


人類、そこだけは本当にしぶとい。


だから私は『枕草子』を、ただの古典として読みたくない。


これは、清少納言による定子様メモリアルブックである。


世界一上品で、世界一知的で、世界一負け惜しみの美しい推し活記録である。


「あの頃は良かった」

「定子様は素敵だった」

「私たちはこんなに楽しかった」

「この美しさを、なかったことにはさせない」


そういう文章なのだ。


そして、その背景にいるのが道長だ。


道長がいなければ、定子の運命はもう少し違ったかもしれない。


もちろん歴史に「もし」はない。道隆が長生きしていたら。伊周が冷静だったら。長徳の変が起きなかったら。一条天皇がもっと政治的に定子を守れたら。彰子が入内しなかったら。いくらでも分岐点はある。


でも、そんな細かいことを言っていたら感情が迷子になる。


だから私は、強引にまとめる。


道長が全部悪い。


定子の後宮が失われたのも。

清少納言が過去の光を書き留めるしかなかったのも。

一条天皇と定子の愛が政治に押し潰されていったのも。

彰子という新たな中心が置かれ、定子が時代の主役から外されていったのも。

千年後の私が古典の授業中に情緒を破壊されているのも。


全部、道長が悪い。


いや、本当は全部ではない。


でも全部悪いことにしたい。


なぜなら『枕草子』を読んでいると、歴史を冷静に整理する前に、まず定子の味方をしたくなるからだ。


清少納言の文章は、そういう力を持っている。


彼女は定子を直接「かわいそうな人」として描いたわけではない。むしろ、明るく、華やかに、美しく、時には笑えるように書いた。だからこそ、失われた後の痛みが増す。


楽しかった記憶ほど、あとから刺さる。


幸せだった時間ほど、終わったあとに重くなる。


『枕草子』は、明るい文章でできた喪失の文学だ。


そして私は、その喪失の向こうに道長の影を見てしまう。


満月を見上げて「欠けたところがない」と詠んだ男の足元には、欠けていった人たちの人生がある。


定子という月は欠けていった。

中関白家の栄華は欠けていった。

清少納言の居場所も欠けていった。


その上で道長は、自分の月だけを満ちたものとして詠んだ。


腹が立つ。


めちゃくちゃ腹が立つ。


だから私は、これからも『枕草子』を読むたびに思うのだと思う。


定子様、あまりにも尊い。

清少納言、あまりにも健気で強い。

伊周、お前は本当に反省しろ。

一条天皇、もっと頑張れなかったのか。

彰子、君は君で悪くない。むしろ君も政治に使われた側だ。

紫式部、そこで冷静に観察してるの怖いけど好きだ。


そして最後に。


道長が全部悪い。


『枕草子』とは、春のあけぼのの美しさを語る作品である。


同時に、失われた定子の後宮を、清少納言が千年先まで保存した作品でもある。


そして私にとっては、読めば読むほど「道長、お前さあ……」という気持ちが湧いてくる作品である。


古典は遠い昔のものだと思われがちだ。


だが、実際には全然遠くない。


推しがいる。

推しの幸福を願う人がいる。

推しを取り巻く権力争いがある。

推しの居場所が奪われる。

それでも誰かが、推しの美しさを書き残す。


こんなもの、現代と何も変わらない。


だから『枕草子』は今読んでも刺さる。


そして刺さった結果、私は今日も同じ結論にたどり着く。


道長が全部悪い。


以上。

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