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作者: ロック
掲載日:2026/04/09

夜の11時、歌舞伎町のコンカフェ「エデン」のバックルームで、柊はスマートフォンを見ていた。

画面には振込通知が並んでいた。パパ活のAさんから3万。常連の田中さんから1万5千。誕生日プレゼントという名目で別の誰かから5万。

月の手取りは40万を超えていた。

「柊ちゃん、出番」

店長の声で立ち上がる。制服に着替えながら、鏡の中の自分を見た。22歳。黒髪ロング。コンカフェの制服は似合っていた。

客席に出ると、常連の顔が見えた。

「柊ちゃん久しぶり」

「お久しぶりです、ご主人様」

笑顔を作るのは得意だった。3年間で身につけた技術だった。


隣のテーブルには、大輝がいた。

大輝は26歳のホストだった。細身で、黒いスーツが似合っていた。新宿の老舗ホストクラブ「ルシファー」のナンバー3。月の売り上げは600万を超えることもあった。

彼が「エデン」に来たのは、女性客を連れてのアフターだった。

柊と目が合った。

「かわいいね」と大輝は言った。

柊は笑顔で「ありがとうございます」と返した。

その夜、閉店後に大輝は柊を食事に誘った。


付き合い始めてから3ヶ月が経った。

大輝は柊のマンションに転がり込んだ。家賃は柊が払っていた。食費も柊が払っていた。大輝は「来月まとめて払う」と言い続けて、まとめて払ったことは一度もなかった。

柊はそれでも大輝が好きだった。

大輝は夜が明けるまで話を聞いてくれた。柊の家族のこと、コンカフェを始めた理由、将来への漠然とした不安。大輝は「わかる」と言い続けた。本当にわかっているかどうかは関係なかった。わかると言ってくれる人間が必要だった。

「いつか昼職に転職したいんだよね」と柊は言った。

「できるよ、絶対」と大輝は言った。

それが本当かどうかも、関係なかった。


転機は大輝の方に先に来た。

ホストクラブのオーナーから呼ばれた大輝に、あるオファーが来た。系列の不動産会社の営業職として転籍しないかという話だった。

大輝は迷わなかった。

ホストで培った会話力と、人を見る目と、絶対に諦めない精神。それは確かに営業職で活きた。初月から数字を出した。3ヶ月目には同期トップになった。

給料は上がり続けた。

柊に「転職した」と伝えたのは、転職してから2週間後だった。

「すごいじゃん」と柊は言った。

笑顔だった。コンカフェで3年間磨いた笑顔だった。


柊がコンカフェを辞めたのは、大輝の転職から半年後だった。

理由は複合的だった。年齢のこと、体のこと、将来のこと。25歳になっていた。コンカフェには年齢という壁があった。

辞めた翌月から、柊はアパレルの仕事を始めた。時給1200円。週5日フルタイムで働いても、月の手取りは18万に届かなかった。

コンカフェ時代の40万との差は、柊には想像以上に大きかった。

家賃を払うと、残りは10万を切った。食費、光熱費、スマートフォン代。削れるものを削っても、月末には残高が数千円になった。

柊は夜、スマートフォンを見ながら計算し続けた。

どこを削ればいいのか。

何を諦めればいいのか。


大輝の収入は月に60万を超えるようになっていた。

歩合の比率が上がり、大型契約が続いた。上司に認められ、主任に昇進した。名刺の肩書きが変わった。

大輝は柊のマンションから、自分の部屋を借りて出た。

「俺も一人前になってきたから、ちゃんとしたい」と言った。

柊は「そうだね」と言った。

笑顔だった。


二人はまだ付き合っていた。月に2、3回会った。大輝が高い店に連れていってくれることもあった。でも割り勘になることが増えた。

「俺もまだ余裕があるわけじゃないから」と大輝は言った。

月60万の収入で余裕がないという感覚を、柊には理解できなかった。

でも何も言わなかった。


柊がパパ活を再開したのは、アパレルを始めて4ヶ月後だった。

最初は月1回だった。それが月3回になり、月5回になった。

罪悪感はあった。でも家賃を払うためだった。

大輝には言えなかった。

言えないことが積み重なっていった。

大輝に会うたびに、柊は笑顔を作った。コンカフェで磨いた笑顔だった。本物の感情を隠すための技術が、恋人に対しても使われるようになっていた。


大輝が浮気をしていることに気づいたのは、ある夜だった。

大輝のスマートフォンに通知が来た。画面が一瞬だけ光った。名前は見えなかった。でも大輝の表情が変わった。

柊は何も言わなかった。

その夜、柊は眠れなかった。

天井を見ながら計算した。今の収入と支出。パパ活をやめたら払えないもの。大輝と別れたら変わること。変わらないこと。

何時間計算しても、答えは出なかった。


大輝もその夜、眠れなかった。

仕事は順調だった。収入も上がっていた。でも何かが足りなかった。

ホスト時代は、女性が大輝を必要としてくれた。毎晩誰かが大輝に会いに来た。大輝の言葉で誰かが泣いた。その感覚が、普通の会社員生活には足りなかった。

浮気は、その穴を埋めようとする行為だった。

自分でもわかっていた。わかっていて、やめられなかった。


二人が最後に会ったのは、梅雨の終わりだった。

渋谷のカフェ。外は雨だった。

「別れよう」と大輝が言った。

「そうだね」と柊は言った。

泣かなかった。泣く気力がなかった。

大輝が店を出た後、柊は一人でコーヒーを飲んだ。

窓の外を、人が歩いていた。傘を差した人間が、それぞれの方向へ歩いていた。みんな、どこかへ向かっていた。

柊はどこへ向かえばいいのかわからなかった。

スマートフォンを見た。

パパ活のアプリの通知が来ていた。

柊はそれを開いた。


その日の夕方、渋谷の交差点に50メートルのオラウータンが現れた。

最初の目撃情報が入ったのは17時32分。

渋谷スクランブル交差点を歩いていた人間が、空を見上げた。茶色い巨大な体が、ビルの間から姿を現していた。

悲鳴が上がった。

人が走り始めた。

オラウータンは渋谷の街を歩いた。足の一歩が建物を揺らした。窓ガラスが割れた。車が吹き飛んだ。

誰も止められなかった。


柊はカフェを出たところだった。

雨の中、傘を差して歩いていた。

スマートフォンを見ながら、パパ活アプリのメッセージに返信を打っていた。

今夜、会えますか。

その文字を打ち終えたとき、地面が揺れた。

柊は顔を上げた。

空が、茶色かった。


大輝はその頃、渋谷の不動産会社のオフィスにいた。

残業だった。デスクでパソコンを開いていた。

窓の外が騒がしかった。立ち上がって窓を見た。

見えた。

50メートルのオラウータンが、渋谷の街を歩いていた。

大輝は窓に顔を近づけた。

オラウータンの足元に、人が見えた。

傘を差した人間が、一人、立ち止まっていた。


それから先のことは、誰にもわからない。

ただ言えることがある。

その夜、渋谷で何人かが死んだ。名前は報道されなかった。数字として処理された。

翌朝のニュースは、オラウータンの出現原因について議論していた。

柊と大輝の名前は、どこにも出なかった。



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