柊
夜の11時、歌舞伎町のコンカフェ「エデン」のバックルームで、柊はスマートフォンを見ていた。
画面には振込通知が並んでいた。パパ活のAさんから3万。常連の田中さんから1万5千。誕生日プレゼントという名目で別の誰かから5万。
月の手取りは40万を超えていた。
「柊ちゃん、出番」
店長の声で立ち上がる。制服に着替えながら、鏡の中の自分を見た。22歳。黒髪ロング。コンカフェの制服は似合っていた。
客席に出ると、常連の顔が見えた。
「柊ちゃん久しぶり」
「お久しぶりです、ご主人様」
笑顔を作るのは得意だった。3年間で身につけた技術だった。
隣のテーブルには、大輝がいた。
大輝は26歳のホストだった。細身で、黒いスーツが似合っていた。新宿の老舗ホストクラブ「ルシファー」のナンバー3。月の売り上げは600万を超えることもあった。
彼が「エデン」に来たのは、女性客を連れてのアフターだった。
柊と目が合った。
「かわいいね」と大輝は言った。
柊は笑顔で「ありがとうございます」と返した。
その夜、閉店後に大輝は柊を食事に誘った。
付き合い始めてから3ヶ月が経った。
大輝は柊のマンションに転がり込んだ。家賃は柊が払っていた。食費も柊が払っていた。大輝は「来月まとめて払う」と言い続けて、まとめて払ったことは一度もなかった。
柊はそれでも大輝が好きだった。
大輝は夜が明けるまで話を聞いてくれた。柊の家族のこと、コンカフェを始めた理由、将来への漠然とした不安。大輝は「わかる」と言い続けた。本当にわかっているかどうかは関係なかった。わかると言ってくれる人間が必要だった。
「いつか昼職に転職したいんだよね」と柊は言った。
「できるよ、絶対」と大輝は言った。
それが本当かどうかも、関係なかった。
転機は大輝の方に先に来た。
ホストクラブのオーナーから呼ばれた大輝に、あるオファーが来た。系列の不動産会社の営業職として転籍しないかという話だった。
大輝は迷わなかった。
ホストで培った会話力と、人を見る目と、絶対に諦めない精神。それは確かに営業職で活きた。初月から数字を出した。3ヶ月目には同期トップになった。
給料は上がり続けた。
柊に「転職した」と伝えたのは、転職してから2週間後だった。
「すごいじゃん」と柊は言った。
笑顔だった。コンカフェで3年間磨いた笑顔だった。
柊がコンカフェを辞めたのは、大輝の転職から半年後だった。
理由は複合的だった。年齢のこと、体のこと、将来のこと。25歳になっていた。コンカフェには年齢という壁があった。
辞めた翌月から、柊はアパレルの仕事を始めた。時給1200円。週5日フルタイムで働いても、月の手取りは18万に届かなかった。
コンカフェ時代の40万との差は、柊には想像以上に大きかった。
家賃を払うと、残りは10万を切った。食費、光熱費、スマートフォン代。削れるものを削っても、月末には残高が数千円になった。
柊は夜、スマートフォンを見ながら計算し続けた。
どこを削ればいいのか。
何を諦めればいいのか。
大輝の収入は月に60万を超えるようになっていた。
歩合の比率が上がり、大型契約が続いた。上司に認められ、主任に昇進した。名刺の肩書きが変わった。
大輝は柊のマンションから、自分の部屋を借りて出た。
「俺も一人前になってきたから、ちゃんとしたい」と言った。
柊は「そうだね」と言った。
笑顔だった。
二人はまだ付き合っていた。月に2、3回会った。大輝が高い店に連れていってくれることもあった。でも割り勘になることが増えた。
「俺もまだ余裕があるわけじゃないから」と大輝は言った。
月60万の収入で余裕がないという感覚を、柊には理解できなかった。
でも何も言わなかった。
柊がパパ活を再開したのは、アパレルを始めて4ヶ月後だった。
最初は月1回だった。それが月3回になり、月5回になった。
罪悪感はあった。でも家賃を払うためだった。
大輝には言えなかった。
言えないことが積み重なっていった。
大輝に会うたびに、柊は笑顔を作った。コンカフェで磨いた笑顔だった。本物の感情を隠すための技術が、恋人に対しても使われるようになっていた。
大輝が浮気をしていることに気づいたのは、ある夜だった。
大輝のスマートフォンに通知が来た。画面が一瞬だけ光った。名前は見えなかった。でも大輝の表情が変わった。
柊は何も言わなかった。
その夜、柊は眠れなかった。
天井を見ながら計算した。今の収入と支出。パパ活をやめたら払えないもの。大輝と別れたら変わること。変わらないこと。
何時間計算しても、答えは出なかった。
大輝もその夜、眠れなかった。
仕事は順調だった。収入も上がっていた。でも何かが足りなかった。
ホスト時代は、女性が大輝を必要としてくれた。毎晩誰かが大輝に会いに来た。大輝の言葉で誰かが泣いた。その感覚が、普通の会社員生活には足りなかった。
浮気は、その穴を埋めようとする行為だった。
自分でもわかっていた。わかっていて、やめられなかった。
二人が最後に会ったのは、梅雨の終わりだった。
渋谷のカフェ。外は雨だった。
「別れよう」と大輝が言った。
「そうだね」と柊は言った。
泣かなかった。泣く気力がなかった。
大輝が店を出た後、柊は一人でコーヒーを飲んだ。
窓の外を、人が歩いていた。傘を差した人間が、それぞれの方向へ歩いていた。みんな、どこかへ向かっていた。
柊はどこへ向かえばいいのかわからなかった。
スマートフォンを見た。
パパ活のアプリの通知が来ていた。
柊はそれを開いた。
その日の夕方、渋谷の交差点に50メートルのオラウータンが現れた。
最初の目撃情報が入ったのは17時32分。
渋谷スクランブル交差点を歩いていた人間が、空を見上げた。茶色い巨大な体が、ビルの間から姿を現していた。
悲鳴が上がった。
人が走り始めた。
オラウータンは渋谷の街を歩いた。足の一歩が建物を揺らした。窓ガラスが割れた。車が吹き飛んだ。
誰も止められなかった。
柊はカフェを出たところだった。
雨の中、傘を差して歩いていた。
スマートフォンを見ながら、パパ活アプリのメッセージに返信を打っていた。
今夜、会えますか。
その文字を打ち終えたとき、地面が揺れた。
柊は顔を上げた。
空が、茶色かった。
大輝はその頃、渋谷の不動産会社のオフィスにいた。
残業だった。デスクでパソコンを開いていた。
窓の外が騒がしかった。立ち上がって窓を見た。
見えた。
50メートルのオラウータンが、渋谷の街を歩いていた。
大輝は窓に顔を近づけた。
オラウータンの足元に、人が見えた。
傘を差した人間が、一人、立ち止まっていた。
それから先のことは、誰にもわからない。
ただ言えることがある。
その夜、渋谷で何人かが死んだ。名前は報道されなかった。数字として処理された。
翌朝のニュースは、オラウータンの出現原因について議論していた。
柊と大輝の名前は、どこにも出なかった。
完




