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ビヨンド オブリヴィオン / BEYOND OBLIVION  作者: 蓮田 希玲
BEYOND OBLIVION / CHAPTER 1

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Episode 6 - I / 怖い夢を見た私

「いつものを頼む。アヴァ、どうする」


 カフェの中は、午後の光で満たされていた。ガラス張りの入口からは、外の光が帯になって揺れている。


「え、うーん、よくわかんないからジェスターと一緒で――いや、レモンティー! レモンティーで合ってるよね、うん……」

「わかった。お前は」

「俺ジンジャー」


 お店の人が静かにお辞儀して戻っていく。周りの人の控えめな話し声が、虫の囁きみたいに聞こえる。ティーカップを手に取る音とコースターに置く音の方が大きくて、天井までよく響いていた。


 音楽が鳴っているけれど、はっきりとした旋律はまだつかめない。なんの楽器だろう。不思議な感じだ。


 ベルジの方を見ると、嘘みたいに彼と目が合う。思い切って、気になっていたことも聞いてみたくなった。


「ベルジくん、人付き合い慣れてないってほんと? 私もぜんぜんなんだ、えへへ」

 彼はジンジャーを飲むのをグッと止めた。目を合わせたまま、言葉を返してくる。

「アヴァにそんなこと言われるの、なんか恥ずかしいな……。でも隠すことでもないよな。てか、実際そうなのに隠すの、もっとかっこ悪いよな、あはは」


 レモンティーって、こんな味だったっけ。もう少し砂糖は多かったような気もするし、いや、味もなんだかはっきりしない。鳴っている音楽と同じで、謎の浮遊感がある。それを私は、不自然だとは思わなかった。こういうのもありなんだと受け入れてしまう。


「私レモンティー好きなんだよね。ジェスターがこの前頼んでくれて」

「甘いの好きだな」


 ベルジはまた、流し込むようにして、あっという間にジンジャーを飲みほしてしまった。どこか頑張っているようにも見える。


「す、すごいね、ベルジくん」

「どんなもんだい……」


 常に誰かと争っているみたいな奴だ、とジェスターは言っていた。その言葉が理解できた。まるで見えない何かと競争しているみたいだ。


 クラリネットのスタッカートが、スキップするみたいに軽いメロディを紡いでいる。包み込むようなフルートも相まって、柔らかな音楽が急に鮮明に聞こえてきた。不思議と、クラリネットの指の運び方を私は知っている。ストローを使って、無意識のまま真似をしてしまう。


「いい曲だな、これ」


 ジェスターが目を瞑って言った。


「ね、私これ好き」


 しばらく三人とも黙って、頭の中だけでリズムに乗りながら聴いていた。ベルジが落ち着いて音楽を聴いているのは、なんだか彼らしくなくて、それもおかしかった。


「そうだ、せっかく来たんだから写真撮ろうぜ、な!」


 曲が終わると、ベルジがスマホを取り出して言った。そう、ベルジと一緒に撮りたかったんだ。私は笑顔を返して、三人同じ椅子に座った。ちょっと息苦しい。妙にベルジが押してくる。スペース取りすぎじゃないかと目を配ったが、彼は私の顔は見ていなかった。完全に、写真用の表情づくりに集中していた。


「で、誰が撮るの?」

「すんませーん。写真撮ってくれませんかー?」


 こんな静かなところで出す声量じゃなかった。ほかの客の視線が、一斉にこっちへ集まってくるのが分かる。顔までは見ていられない。「ちょっと!」とベルジの肩を叩きつつも、内心では少し憧れていた。ああいうふうにためらいなく頼めるのは、すごい。


 店員は目と足で「はい」と答えてくれた。表情を崩さないまま、すっとこちらへ来る。


「おねがいしゃす!」

「いいですか、撮りますよ」


 ジェスターに教えてもらった手の形はこうだった。人差し指と中指を伸ばす形。二人も同じポーズをとっている。真ん中にいた私は、両手でその形を作ってみた。


 スマホからカシャ、という音が鳴った。「どうも」とジェスターが言うと、店員が撮れた写真を見せてくれる。店員が口を開いた。


「あなたの花は汚れています」


 足元。風当りが、その時、全部変わった。


 なんの前触れもなく、ピアノとコントラバスの音が歪みきって残響だけになる。さっきまで座っていた私は、もうそこに座っていない。赤いシャツとあの帽子は、どこに行った?これは部屋着だ。柔らかいと思った地面は、芝生だった。小さな紙片を踏むような感触と、土の沈む感触。鳥のさえずりが聞こえる。


 私はスマホを持っていた。目の前には誰かが三人立っている。ジェスター。それに彼の家族。部屋にあった写真と同じ光景。私が、あの写真を撮った……?


「ありがとう。こりゃいい写真だ」


 髭のないジェスターは、どこか他人行儀な声で、私のスマホを見て言った。家族もついでにこっちへ駆け寄ってくる。ジェスターの妻の指には、あの指輪があった。錆びていない。見るたびに光を跳ね返している。彼らの背後にある立派な家を、木の葉が撫でていた。


「我ながら、いい写真を撮ったって?」

「そう思う」


 木のシルエットは、いつのまにかあの堅牢な城のシルエットになっていた。気づけば彼しかいない。私はどこに行ったのか、聞かなかった。


 あの夕焼けを見た場所。また、雲が太陽を隠そうと頑張っている。海のうねりは一層強く見えた。ジェスターは呆然と口を開けたまま、絶景を眺めている。懐かしいねジェスター、と彼の袖をつまんだ。


 つまんだところが、冷たかった。もしやと思い、彼の方を見る。ジェスターが泣いていた。何かを握りしめて、背中を丸め始める。歯ぎしりが聞こえそうなくらい、奥歯を噛みしめているのが分かる。


 私は膝をついていた。「大丈夫?」と、彼を慰めようとした。大丈夫なわけがないのに。それしか思いつかなかったのかもしれない。


「お前のせいだ」


 何の音も聞こえなくなった。自分の息、服の擦れる音、足音、彼の声だけが、やたらとはっきりと聞こえる。彼の目つきに喉がふさがれる。どうしてそんなことを言うのか分からない。あまりに突然だった。


 彼の握りしめた手からは、石同士が削り合うような音がした。焦げた臭いもする。私が、彼の袖を凍らせてしまったからだろうか。


 ジェスターは私を腕で押し払った。すぐに銃を取り出して、私が「やめて」と言う間もなく、数発撃った。


 視界が床に落ちる。体が言うことを聞かない。ごめんなさい。本当は知りたいなんて思っていなかった。けれど、何者か分からない人のところへずっといるのも、私は不安でいっぱいだった。体がずっしりと重たいのが分かる。上から何かが乗ってきているような、沈んでいくような。


「ほら、よく見ろ」


 私はいつものソファに寝そべっている。彼が指先に火の玉を出して見せている。顔は穏やかで、火は仄かに温かい。さっき銃を持っていた時の顔とは、まるで嘘みたいに反転していた。夕食の時を思い出す。反射的に、私の口から言葉が飛び出た。


「怒ってない?」

「なんだ?」

「怒ってないよね? 怒ってない?」

「怒ってなんかないよ」


 私の知っている彼だった。一瞬一瞬を感じるのが、怖い。彼の真似をしてみると、静かに私の指先にも火の玉が現れた。


「ジェスター、私できるようになったかも」

「は?寝ぼけんなよ」


 声はベルジだった。目を見ると、やっぱりベルジだった。ああ、目を合わせるのが恥ずかしくなってくる。ジェスターだった気がしたはずなのに、違ったようだ。


 何かがおかしい。さっきから私は何をしている?


 思えば私は今……寝ている。


 目を開けていたつもりだったが、それに気づいた時には、海の中にいるような視界が広がっていた。暗闇の奥で、薄明かりが揺れ動いている。暖炉の音が聞こえだした。手の感じと足の感じも戻ってくる。少し痺れている。


 いつもの天井が見えた。夢で良かった、と心の中で何度も繰り返す。ため息がこれでもかというくらい出た。


「おはよう」


 手を使って体を起こすと、昨日と同じように、ジェスターが座ってスマホを眺めていた。肘をついたところには、紅茶のカップ。香りからして、いつもと違うのを飲んでいる。彼がそれを飲むたびに、口元を横に伸ばしている。たぶん、ハズレだ。


「ジェスター」

「ん? どした」

「私、怖い夢ばっかり見るんだけど……」

「俺もだ。お前が来てから、特にな」

「え? それって……」

「お前の花のせいだな」

「ごめんなさい、ほんと、そんな、私」

「大丈夫だよ、夢なんだから。俺は、大丈夫」


 夢の中で怒っていた彼の顔が、まだ頭から離れない。怒っていないと言いながら、本当はどこかで怒っているんじゃないかと、正直怖い。


 それが喉につっかえたまま、口から滑り出た。


「夢の中で私、ジェスターにめちゃくちゃに怒られた」

「俺が? お前に? 俺が怒るって、相当なことしたんだなあ」

「えへへ……」


 彼の顔を見ていたら、馬鹿馬鹿しくなってきた。見てもいないことを、ずっと一人で気にして怖がっていた。いつのまにか、彼が仮面をつけて私と話しているんじゃないかとさえ思い込んでいた。ひどい妄想に憑りつかれていたものだ。


「俺そんな怖いか? 髭そったほうがいい?」

「い、いや、大丈夫。……かっこいいと思うよ、おひげ」

「そうか? 褒められたことないんだけどな、はは」


 髭はもじゃもじゃとしていて、かっこいいというより不気味なくらいだ。でも、それが彼のチャームポイントでもあって、笑っている時も分かりやすい。彼は嬉しそうに、ずっと髭を撫でて整えていた。


 一息ついて周りを見渡す。また一日が終わって、また始まったんだ。あの時から三日、四日? 毎日新しい発見があって、時間の感覚が掴みづらい。辛いこともあるけれど、その分、幸せを感じる時もある。


「俺、考えたんだ。お前の花は、ときどき良くないものを見せてくるはずだ。たまにはいいものも見れるかも? ま、それを日記みたいに記録しておくんだ。ほら」


 ジェスターはそう言いながら、廊下沿いのキャビネットから、手ごろな大きさの手帳を取り出した。紐で羽ペンがつながっていて、日焼けしたような紙で作られている。ずいぶんと古そうにも見える。表紙はざらざら、すべすべ。革でできていた。


 ページをめくってみると、無地で白紙のページしかない。数百ページはありそうだ。羽ペンは本の高さに負けないくらいの、真っ白な鳥の羽。根本から先にかけて、朝日を浴びて柔らかく光っている。


「これはな、昔、備忘録用に売ってた代物なんだけど、俺そういうの苦手でさ。こう、生活習慣的なの、続かなくて。人に提案はするんだけどな? スマホもあるし……。お前のスマホも買ってあげたいんだけど、ちと高くってな――」

「使いたい!」

「お、おお。どんどん使ってくれ。――ああ、書くときもコツがいるんだった。貸してごらん」


 二人でテーブルに向かって、隣り合って座る。ジェスターは一番後ろのページを開いて、羽ペンを持った。ペン先には、黒い小さな球がくっついているように見える。


「インクとかはいらないんだ。とにかく書くときに、どんなことを書くか、書き残したいか、考える。まあ、普通に日記みたいに書けばいいんだ」


 ジェスターは、自分の名前をすらすらと書いて見せた。ジェスター・フォード。綺麗で読みやすい字だ。さすが町の保安官。


「私書いてみていい?」

「お前のだ」


 その下に、自分の名前を書いてみる。アヴァ・クラリオネ。私……私の名前。自分の名前を、初めて書いた。読めるし、書けるし、話せる。言葉が分かる。言葉が分かるのが、急に不思議になる。


 それだけでも私は、相当な幸運なんじゃないか。意識しないと気づけないラッキーなことって、案外身近に転がっているものなんだ。


「ほっそい字だなあ」

「読めるんだからいいでしょ」

「そう。書くときにな、太い字にしようか細い字にしようかとか、色とか。ちょっと頭をひねらせながらすると、その通りになる。ただ、適当に書けないのが不便で」

「適当に?」

「ほら、瞬時にメモしたり?ああいう、あやふやな時は羽ペンは反応してくれない。だから鉛筆も持ってるといい」

「なんだか……指パッチンの魔法みたいだね」

「ん、原理は一緒だ」

「いままでのことも書きたいな」


 ジェスターは軽くうなずいた。肘をテーブルに預けて前のめりになりながら、私が書く最初のページを、隣で見守ってくれる。


 あの時から覚えていることと、ジェスターとベルジのことを思いながら、慎重に書いていく。四区は危ない、ルネはすごそう、カフェは素敵――。


 彼の前では、あの指輪のことは書かないでおこう。書かなくても、忘れはしない。


 ずらりと今までの事を書いてみたけれど、何かが足りない。これはいつあったことなのかをまだ書いてない。昨日やおとといに名前はあるのだろうか。


「日付がないと分からなくないか?」


 それが言いたかった。ああ、とペン先をページの端に持っていく。


「今日は二二〇年八月二十五日だ」


 私は言われた通り、目が覚めたあの日まで、一日ずつ遡りながら、日付を書いた。


「ねえ聞いてジェスター。私、もっと外歩いてみたいんだよね」

「ああ、すまん今日も、仕事なんだ」

「ひとりで」

「ん、帰り道はどうするんだ?」

「あ……」

「これだ。持っとけ」


 ジェスターがキャビネットの引き出しから何かを取り出した。懐中時計のように見える。針がガラスの向こうでくるくると回っている。振り子みたいに揺れ動くこともあった。


「なにそれ」

「コンパスだ。どこへ行っても、この針が指すところが家だって分かる。迷子にはならんだろう」

「ありがとう」


 手のひらに乗せてみると、ひんやりとした感触が目まで届いてきた。針もそれに合わせて速く回った。これもドアと同じような、生命感があった。緑色の宝石で花の装飾が施されている精巧な作り。磨かれた表面に手を滑らせそうで怖かった。


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