Episode 5 - II / 凍える私
秒針の音が響いている。暗騒音がこれほど聞こえるのは初めてかもしれない。彼のたばこの臭いがまだ漂っている。眉間の奥の方が詰まるような臭い。家の中であっても、独りは心に迫るものがある。私の目に映るもの、触れるものだけが、今のすべてになってしまうからだ。美味しい紅茶……そろそろ見つけないと。
食器棚からカップを取り出して、瓶の前に立つ。指でラベルを指しながら、中身を確かめていく。
濃い茶色と薄紫色のラルンダ産、黒と白がはっきりしたフォノトス産、優しい緑色のルネ産、黄金色のグラデーションを揃えたカリーナ産、細長くて筆みたいなバルアード産、赤や黄色の果物を使ったネーベ産、虹色かのようにカラフルなポノロエ産。知らない場所の名前がいっぱい書いてある。どんな場所かはネーベを除いて想像できないけれど、それぞれ茶葉が雰囲気を象徴しているのかもしれない。ここからはどれほど離れているんだろう。ラルンダという所では茶葉がたくさん生産されているみたいで、同じラベルの瓶が八つもある。
試しにひとつ、ラルンダ産を開けてみる。蓋と瓶の擦れ合う音は、ジェスターがいる時よりも大きく聞こえた。砂糖が元から入っているのか、甘い香りがする。なぜか眠気を誘ってくる。紫がかっていて異彩を放っている。怖いもの見たさでこれに決める。
引き出しから、丁寧に並べられた薄い空のティーバッグを一つ取る。指で広げると頼りなく口が開いた。破れそうで、少し緊張する。蓋を回す音が、今日はやけに大きい。ジェスターは茶葉を直接入れなかった。こうして袋に詰めていた。茶葉を指でつまむ。ひとつまみでは少ない気がして、もう少し足す。指の腹に残る感触と色を確かめながら、袋の中に落とす。
口を折り返し、軽く振り、カップを手に取る。縁に沿って回すようにお湯を注ぎ、少し待ってから流し捨てる。陶器が指先に熱を残す。
ポットを傾ける。勢いをつけすぎないように。お湯が袋に触れた瞬間、色がじわりと滲み出す。
そろそろだと思って、紐の代わりに袋の端をスプーンで持ち上げる。強く絞らないように、軽く。少しだけ、雫を落としてから、取り出す。跳ねた一滴が手にかかってきて声が漏れた。誰もいないもので、妙に自分の声だけが響く部屋の中はいささかい心地が悪い。視線は感じないのにこの恥ずかしさは一体なんなのか。
カップの中には、落ち着いた色の紅茶だけが残る。ちゃんとできているかは分からない。
爆発するように広がる香り。強烈とまではいかないが、この香りは、鼻にくっついてしばらく離れないだろう。ラベンダーかもしれない。
テーブルに持っていき、椅子を引く。初めて自分一人でいれた紅茶。ジェスターの真似をしてみたけれど、うまくいっただろうか。口元にカップを近づけて、息を吹きかける。一口目は怖い。ハズレであっても全部飲まないといけない。どうかこれは当たりでありますように。
四回息を吹く。勇気を出して一口。甘い香りが鼻を通る。砂糖はそんなに入れてないのに、昨日のレモンティーに似た甘さ。刺すような感じではない。舌にくっついて離れない。不思議なとろみがある。
眉毛が片方、勝手に上がっていくのがわかる。じっと見ていたマルに目を合わせて、「あたし、やっぱり、紅茶ダメかも」とつぶやく。マルは首を傾げてこっちを見た。
揺れる紅茶を見ていると、ジェスターの一言一言が蘇ってくる。思い出すとは、こういう感じなんだ。全く出てこない自分の過去より、ずっと正直に出てくる。彼のイントネーションから、声色まで。その場にいるかのように、頭の中で再生できる。ベルジを思い出すなら、カフェと四区。
ふとした時に、やっぱり目が覚める前のことを思い出したりするのだろうか。もう一口。だんだんこの紅茶も鬱陶しくなってきた。
部屋の角に置かれている、スマホを大きくしたような黒い箱。どうにも気になる。自分の顔がくっきりと映るくらい反射する面と、よく分からない紐がいくつもくっついた、ぐちゃぐちゃの裏面。横には細長い出っ張りがいくつもある。手で触れてみる。
【いやー今日もいい天気ですね!】
うわ、と慌ててもう一度手で触れると、真っ黒に戻って、音もならなくなった。整った格好の男性がこっちを見て話した。どうしてこっちを見ていたんだろう。もしかして見られているのか。いや、こんな箱に人が入っているわけが無い。ドアをノックするように角をつついても何も反応は無い。それにしてもスマホに似ている。後ろに下がりながら紐を取って髪を結ぶ。
「マル、びっくりしないの……?」
もう一度、指で出っ張りを触る。さっきの人ともう一人が隣にいる。スマホみたいに動いている。
【今朝未明、四区東通りで死亡が確認されたのは――】
人の写真が何枚も出てくる。四区だ。あの黒いやつだ。似ているけど違う。食虫植物みたいだ。気持ち悪いあの触手は健在。なんでこんなものが街中で人を襲っているんだろう。
【さて、お次はこちら!ルネを代表する大物歌手の公演が――】
人が死んでるっていうのに、平然としている。恐ろしい知らせと思いきや、娯楽の話にいきなり切り替わっている。歌が流れる。たしかに綺麗な歌声。オーケストラに負けない声量で響いている。ルネの様子だろうか、あの時計塔くらいの高さの建物が規則正しく並んでいるのが見え、車がよく走っている。あそこで見た時は、四区にも似たもの悲しさがあったのだけど、なんだ、この音の止まない賑やかさは。
出っ張りの横にも別の出っ張りがある。矢印が書かれている。触れて見ると、一瞬だけ真っ暗になってから、別の何かが映し出された。
【――界最大の科学企業ユニファイが、皆さまの生活をよりよくするため日々――】
幾何学的な模様がパラパラと動き回る。女性の無感情で平面的な声。病院で見たポスターでも、こんな感じのものを見たような。
もう一度。
【―て!お前だろう!】
ジェスターみたいな男の人がこちらにむかって声を張った。首根っこを掴まれたようで、焦ってもう一度出っ張りに触れる。
【―や、はっきりと言いますが、シルキーとは無関係です。いいですか、我々としても、レディオラリアの正体がなんなのか分かりません】
同じ格好をして身なりを整えた大人が机に並んで座っている。私には喧嘩をしているようにも見えた。口調の荒い人、鎮めようとする人、長々と喋ってまわりをうんざりさせている人。そんな中、彼らの背後に映し出されている蚕。足がいっぱい、くねくね動く芋虫が行儀よく並んで糸を吐く、そして作られるのはこの黒い箱やあのスマホ。それを見ていると目尻が後ろに引っ張られるのと同時に、すごいものを見ている、という感心も沸いた。何度もマルの顔を見るが、彼女は鼻で笑うような、淡々とした感じだった。
レディオラリアと呼ばれるおかしな名前をつけられた生き物の数々。いろんな写真が並べられていて、それについて議論をしているようだった。小さな種類のものは、まるで雪の結晶みたいで、それがふわふわと動き回るという気味の悪い姿をしている。
【「ではこれはどう説明する!なんなんだこれは!ひとりでに崩れた壁が修復している!」「ですからシルキーにはそんな――」「説明してもらわないと分かりませんわ。一体シルキーがなんなのか。こんなものをどうして作り出せるのか。ユニファイは独占しすぎています」「レディオラリアとの関係は?」「いいですか、逆行物質は――」】
四区。崩れた壁、瓦礫が、穴の開いたところに集まって綺麗に戻っている。私が足を引っ掛けて転けてしまった時と同じ。その次に、落ち葉の色が緑色になっていく様子。この人たちが何を言っているのか、難しすぎて頭に入ってこないが、あそこが本当に理解を超えた場所だということは分かる。そんなところで寝ていた自分も、ジェスターやベルジからどう見られているのかも、考えるほどに体をさすった。
外を走っている車の音に耳が傾ける。知的な言葉を聞きすぎて疲れたのかもしれない。カーテンを避けて見てみると、昨日と何ら変わらない光景が広がっていた。白く光る石畳が眩しい。あのおばあさんが箒を持って歩いている。話してみたさもあるけれど、いろいろ余計なことが頭の中で邪魔をする。下唇を噛んで窓から離れる。
もみあげをいじりながら部屋を見渡す。暖炉を見て"優しい魔法"を思い出した。そばに屈んで、繰り返し指を鳴らしてみる。ジェスターみたいに綺麗な音は一向に鳴ることは無く、指の擦れる音だけ。ひとりでにこんなことをしている自分がおかしく思えてきた。右手も左手も試すが、どうやっても上手くいかない。誰でもできるようになるなんて言っていたけれど、才能はどうしても関係していると思う。
ジェスターの家族の写真に目が留まる。彼が夕陽を見ている時に浮かべていたのはこの写真だろうか。帰りたい気持ちに似ていると言っていた。なにか後悔もしていた。どうして彼は家族を置いてここに住んでいるんだろう。彼の口ぶりと表情からは寂しがり屋という印象を私は受けている。
要らないものは置いていったという二階に行ってみる。私が今後使うかもしれない一番広い部屋。自分の部屋という感じが全くしない。引き出しを開けるのも億劫。申し訳なさもありつつ、静かに白い引き出しを引く。ボタンや糸が丁寧に仕分けてある。ワードローブにかけてあった服と似た色。別の段には紙が大量に入っている。盗人をしているような気になって自分に嫌気がさす。でも、彼の素性は知っておきたい。一緒に住んでいる人のことくらいは。
指輪がある。錆のような汚れが見える。はめてある宝石は、それが気にならないほど眩くキラキラ輝いている。小ぶりで、ジェスターの手には合わないと思う。奥さんのだと思った。ただ単に都に行っただけでは無さそうだった。私にはそう見えない。封筒はジェスター宛の手紙ばかり。中身は見たくない。
そっと手に取るとそれは鮮明に見えてくる。この指輪は何かが染みている。目を閉じると像はより一層深く、色を帯びてくる。
ジェスターと奥さんの日常に挟まるように、彼の悔しそうな表情が見える。この指輪を強く握りしめている。娘さんと追いかけっこをしている。彼を見ると娘さんは大きくなっている。服を縫っている。紅茶をみんなで飲んでいる。あれはジェスターが一番好きだと言っていたものだ。そこにナイフで斬るように見え隠れするのは、娘さんが目を瞑って動かない様子。
それが分かった時、指輪を落としてしまった。軽い音を出しながら転がっていく。
手が滑ったわけではない。震えが止まらなくなった。私はやってはいけないことをしてしまったんじゃないかと強く後悔する。自分の体を、腕で縛るようにして、落ち着かせる。
これはみんなができること?それとも自分だけ?たびたび自分のものでもない記憶、幸せな記憶が裂かれていく様子が見えてしまう。
懐かしいという感情は恐ろしくないのだろうか。たしかに綺麗で、かけがえのない思い出かもしれない。でも、絶対によぎるはずだ。
私はどうしてこうも自分のことは見えないのか。
知るのもだんだんと怖くなってくる。お母さんとお父さんは、私を見て何を思うんだろう。顔も何も、分からない。探してくれているんだとしても、思い出せなかったらどうしよう。私は彼らに会っても何も思わないかもしれない。でも、私を育ててくれた彼らの目には、拒絶反応に見えてしまうと思う。やっぱり、何も思わないことは無い。お母さんお父さんを忘れるなんて最低だもの。
いつか懐かしむ時が来るって彼は言った。懐かしむたびにあんなものを思い浮かべるくらいなら……。忘れたほうが幸せなんじゃないか。でも、忘れたいものほど忘れられないことはわかっている。四区をさまよった時の記憶なんて、全部ごっそり放り投げたい。――忘れたいと思う度に思い出しているのだから、なんて無意味な願い事なんだろう。馬鹿みたい。
隠されていることなんて、ほとんどが悲劇。転がった指輪をそっと拾いながらそう思った。ごめんなさい、とやさしく撫でながら、引き出しにそっと戻す。うれしいことや、かなしいことは、みんな誰かに早く話したいもの。この手紙も、この手紙も、内容は分からないけど字が笑っている。ジェスター、私にかわいそうだと言ってくれたけれど、あなたこそかわいそうだった。
彼の口からは聞かされなかったことを知ってしまった今。彼が帰ってきたらどうしよう。私が話せばきっとまた思い出す。悔しがる。心の奥にしまっておくのが一番いいかもしれない。
自分がどこを見ているのか分からないまま、階段をゆっくり下りてリビングに戻った。あの黒い箱がついたままだった。笑う人が数人映っている。暖炉の前のソファに腰かけて、呆然とそれを見る。
【先週オープンしたサンライズパークの観覧車前に来ました!あちらにはメリーゴーランドが設置され、多くの人で賑わっています!】
手を繋いで歩く人たち。メリーゴーランドと呼ばれた回り続ける乗り物。高いところからの光景。たぶんルネの街からの眺め。私もこうやって小さいころを過ごしたのだろうか。親指と人差し指の爪をすり合わせながら、もはやうるさくも感じる楽しそうな声をじっと聞いた。




