第4話 「現代での準備」
目を開けた瞬間、栗林晴翔は息を呑んだ。
天井は白い。
蛍光灯の光。
聞こえるのは、外を走る車の音。
――戻ってきた。
――現代だ。
布団の上でしばらく動けなかった。
つい数時間前まで、昭和十九年の陸軍省にいた。
藤田副官が「閣下」と呼び、阿南大臣が辞令を読み上げた。
あれは夢ではない。
硫黄の匂い、紙の質感、軍人たちの視線――すべてが現実だった。
晴翔はゆっくりと身体を起こし、机の上の資料に目を向けた。
硫黄島の地形図、地下壕の構造図、米軍の作戦分析。
それらは、もう“研究対象”ではない。
――これが、俺の武器だ。
晴翔はすぐに大学へ向かった。
図書館が開く時間に合わせて自転車を走らせる。
朝の冷たい空気が、まだ混乱する頭を少しずつ覚醒させていく。
図書館に入ると、晴翔は迷わず戦史資料の棚へ向かった。
手に取ったのは、何度も読んだはずの本。
『硫黄島の戦い 戦史叢書』
『硫黄島要塞の実態』
『米軍上陸作戦の全貌』
ページをめくる手が震える。
――史実では、栗林中将は着任後すぐに島へ向かった。
――だが俺は、現代で準備ができる。
――知識で、未来を変えられる。
晴翔はノートを開き、書き殴るようにメモを取った。
【硫黄島の弱点】
・水がない(最大の問題)
・地下壕の換気不良(熱中症・窒息)
・火炎放射戦車への脆弱性
・通信線が単一で、すぐ断線
・工兵隊の不足
・食糧備蓄の不足
・海軍との連携不足
・水際撃滅思想の残存
「……全部、改善できる」
史実では、時間も資材も足りなかった。
だが晴翔は、着任前から準備できる。
現代で調べ、昭和で実行する。
その“往復”こそが最大の武器だ。
次に晴翔は、工兵関連の資料を読み漁った。
『旧陸軍工兵教範』
『地下壕構築の実例』
『火炎放射器対策の歴史』
ページをめくるたび、頭の中で硫黄島の地形が立体的に浮かび上がる。
――換気孔は二重化。
――壕同士を連結し、空気の流れを確保。
――火炎放射器は通気孔から侵入する。
――ならば、通気孔の角度を変え、砂で自然消火させる構造にする。
晴翔はノートに図を描き始めた。
大学生の手つきではない。
まるで、長年の経験を持つ工兵将校のように迷いがない。
「……これなら、持久戦ができる」
次に、米軍の資料へ移る。
『米海兵隊上陸作戦教範』
『艦砲射撃の効果分析』
晴翔はページをめくりながら呟いた。
「米軍は必ず南から来る……。
上陸後、摺鉢山を制圧し、飛行場を奪う……。
史実通りなら、上陸は二月十九日……」
その瞬間、背筋が冷たくなった。
――時間がない。
――昭和十九年六月の辞令。
――上陸まで、八ヶ月。
八ヶ月。
史実の栗林中将が与えられた時間と同じ。
だが晴翔には、現代の知識がある。
「……やれる。やるしかない」
そのとき、スマホが震えた。
画面には、友人の佐伯からのメッセージ。
《今日、ゼミ来る?》
晴翔はしばらく画面を見つめた。
だが、今の自分には答えられない。
――俺はもう、ただの大学生じゃない。今だけは司令官だ。
晴翔は図書館の窓から外を見た。
青空が広がり、学生たちが笑いながら歩いている。
その平和な光景が、胸に刺さった。
――守らなきゃいけない。
――あの島で、未来を。
夕方まで資料を読み続け、ノートはびっしりと埋まった。
帰宅した晴翔は、机に突っ伏すようにして眠りに落ちた。
意識が沈む。
視界が揺れる。
硫黄の匂いが近づく。
――次に目を開けたとき、そこはもう昭和十九年だった。
藤田副官が、晴翔の前に立っていた。
「閣下。硫黄島視察の準備が整っております」
晴翔はゆっくりと立ち上がった。
「……行こう。あの島を変えるために」




