第2話 「辞令」
硫黄の匂いが消え、耳鳴りが静まったとき、栗林晴翔はゆっくりと目を開けた。
そこは、見覚えのない部屋だった。
木製の机。墨の匂い。壁に掛けられた軍旗。
窓の外には、現代では見られない瓦屋根の建物が並んでいる。
そして机の上には、一枚の辞令書。
「第109師団長兼小笠原兵団長 栗林忠道 殿」
晴翔は息を呑んだ。
紙の質感が、あまりにも“本物”だった。
「……嘘だろ」
震える声が漏れた瞬間、扉がノックされた。
「閣下、失礼いたします」
入ってきたのは、軍服姿の男。
鋭い目つき、整った軍帽、無駄のない動き。
――藤田正善中尉。
史実で栗林中将の副官を務めた人物。
晴翔は思わず立ち上がった。
身体が勝手に“軍人としての姿勢”を取る。
「……藤田中尉?」
口に出した瞬間、藤田は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに敬礼した。
「はい、閣下。陸軍大臣閣下がお待ちです。辞令交付の儀へ」
晴翔は言葉を失ったまま頷いた。
藤田に導かれ、廊下へ出る。
磨き上げられた床。
すれ違う将校たちの敬礼。
紙と墨の匂いが混ざる、昭和十九年の空気。
――本当に、来てしまったのか。
胸の奥で、恐怖と興奮が入り混じる。
やがて、重厚な扉の前に立つ。
藤田が扉を開くと、そこには陸軍大臣・阿南惟幾が待っていた。
「栗林中将、よく来られた」
晴翔は反射的に口を開く。
「はっ……!」
声が自然に出た。
栗林忠道の身体が、軍人としての反応を覚えているかのようだった。
阿南大臣は辞令書を手に取り、厳かに読み上げる。
「本日付をもって、貴官を第109師団長兼小笠原兵団長に任ずる。
硫黄島を中心とする小笠原諸島の防衛にあたり、全責を負うものとする」
晴翔の心臓が大きく跳ねた。
――硫黄島。
――史実では、ここから地獄が始まる。
辞令書を受け取る手が震えた。
だが、栗林忠道の身体は一切の迷いを見せず、深く礼をした。
「……拝命いたします」
その瞬間、晴翔は悟った。
自分は、栗林忠道として硫黄島へ向かう。
そして、史実の結末を知っている唯一の人間だ。
辞令交付が終わると、藤田が静かに告げた。
「閣下、硫黄島への出発は三日後となります。
参謀たちが控えておりますので、作戦会議室へご案内いたします」
晴翔は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
――逃げられない。
――だが、変えられるかもしれない。
現代で何度も考えた“もしも”が、今、現実になろうとしている。
「……案内してくれ、藤田少佐」
晴翔は静かに言った。
その声は、もう大学生のものではなかった。
栗林忠道としての最初の一歩が、今、踏み出された。




