深夜二時の足音
最初に気づいたのは、引っ越して一週間目だった。
その日、私は夜更かしをしていて、
ベッドに入ったのは午前一時半を過ぎていた。
静かなアパートだった。
車の音も、人の声も聞こえない。
だから、余計にはっきり聞こえた。
ドン……ドン……
重たい足音。
廊下を歩く音だった。
一歩ごとに、わずかに床が鳴る。
決して急がず、一定の間隔で近づいてくる。
時計を見る。
――午前二時。
「……誰?」
この時間に廊下を歩く人間なんて、そういない。
足音は、私の部屋の前で止まった。
そのまま、動かない。
数秒。
数十秒。
やがて、来た道を引き返す音がした。
ドン……ドン……。
私は、息を止めたまま、
足音が完全に消えるまで動けなかった。
翌日、管理人に聞いた。
「夜中に廊下、誰か通りますか?」
管理人は、首を振った。
「この階、あなた一人ですよ」
「……え?」
「他は、全部空き部屋です」
ぞっとした。
その夜も、午前二時。
ドン……ドン……
同じ音。
同じ速さ。
同じ場所で止まる。
私は、勇気を出してドアスコープを覗いた。
廊下には、誰もいない。
でも、
床にうっすらと濡れた足跡があった。
裸足の跡。
大人一人分。
それは、私のドアの前で止まり、
向きを変えて、引き返していた。
翌朝、管理人に再び連絡した。
「廊下に、足跡が……」
管理人は、しばらく黙ってから言った。
「……何号室ですか」
「302です」
電話の向こうで、
何かをめくる音がした。
「三年前」
管理人は、低い声で続けた。
「302号室の住人が、
深夜二時に亡くなっています」
「自室に戻ろうとして、
廊下で倒れたそうです」
私は、喉が詰まった。
「……じゃあ、その人が?」
「いえ」
管理人は、きっぱり否定した。
「その人は、302号室に住んでいました」
「今、302号室に住んでいるのは……」
言葉が、途切れる。
「……あなたです」
その夜。
足音は、聞こえなかった。
午前一時五十九分。
静かだ。
二時。
――ドン。
一歩だけ。
音は、
私の部屋の中から聞こえた。
心臓が、凍りつく。
ゆっくり、振り返る。
暗い部屋。
誰もいない。
でも、床には――
濡れた足跡が一つ。
それは、
ベッドの横から、
ドアへ向かって伸びていた。
時計を見る。
二時一分。
私は、気づいてしまった。
これまで聞いていた足音は、
廊下を歩いてきた音じゃない。
帰ろうとしていた音だ。
毎晩、
私の部屋まで辿り着けなかった足音。
今夜は――
ようやく、戻れた。
それ以来、
深夜二時に足音を聞くことはなくなった。
代わりに、
毎朝、玄関の内側に、
濡れた足跡が残っている。
一歩ずつ、
外へ向かう足跡が。
私は、
まだこの部屋を出られていない。




