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深夜二時の足音

作者: 弓庭柔悟
掲載日:2026/02/11

最初に気づいたのは、引っ越して一週間目だった。

その日、私は夜更かしをしていて、

ベッドに入ったのは午前一時半を過ぎていた。

静かなアパートだった。

車の音も、人の声も聞こえない。

だから、余計にはっきり聞こえた。

ドン……ドン……

重たい足音。

廊下を歩く音だった。

一歩ごとに、わずかに床が鳴る。

決して急がず、一定の間隔で近づいてくる。

時計を見る。

――午前二時。

「……誰?」

この時間に廊下を歩く人間なんて、そういない。

足音は、私の部屋の前で止まった。

そのまま、動かない。

数秒。

数十秒。

やがて、来た道を引き返す音がした。

ドン……ドン……。

私は、息を止めたまま、

足音が完全に消えるまで動けなかった。

翌日、管理人に聞いた。

「夜中に廊下、誰か通りますか?」

管理人は、首を振った。

「この階、あなた一人ですよ」

「……え?」

「他は、全部空き部屋です」

ぞっとした。

その夜も、午前二時。

ドン……ドン……

同じ音。

同じ速さ。

同じ場所で止まる。

私は、勇気を出してドアスコープを覗いた。

廊下には、誰もいない。

でも、

床にうっすらと濡れた足跡があった。

裸足の跡。

大人一人分。

それは、私のドアの前で止まり、

向きを変えて、引き返していた。

翌朝、管理人に再び連絡した。

「廊下に、足跡が……」

管理人は、しばらく黙ってから言った。

「……何号室ですか」

「302です」

電話の向こうで、

何かをめくる音がした。

「三年前」

管理人は、低い声で続けた。

「302号室の住人が、

 深夜二時に亡くなっています」

「自室に戻ろうとして、

 廊下で倒れたそうです」

私は、喉が詰まった。

「……じゃあ、その人が?」

「いえ」

管理人は、きっぱり否定した。

「その人は、302号室に住んでいました」

「今、302号室に住んでいるのは……」

言葉が、途切れる。

「……あなたです」

その夜。

足音は、聞こえなかった。

午前一時五十九分。

静かだ。

二時。

――ドン。

一歩だけ。

音は、

私の部屋の中から聞こえた。

心臓が、凍りつく。

ゆっくり、振り返る。

暗い部屋。

誰もいない。

でも、床には――

濡れた足跡が一つ。

それは、

ベッドの横から、

ドアへ向かって伸びていた。

時計を見る。

二時一分。

私は、気づいてしまった。

これまで聞いていた足音は、

廊下を歩いてきた音じゃない。

帰ろうとしていた音だ。

毎晩、

私の部屋まで辿り着けなかった足音。

今夜は――

ようやく、戻れた。

それ以来、

深夜二時に足音を聞くことはなくなった。

代わりに、

毎朝、玄関の内側に、

濡れた足跡が残っている。

一歩ずつ、

外へ向かう足跡が。

私は、

まだこの部屋を出られていない。





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