第85話 宣告
もともと魔力が衰えていたのだ。くわえて、魔力のないオーレオンで聖なる力の呪いを受けている。
ここがリッシュグリーデンドであれば治療の選択肢はあるはずだ。魔力も潤沢で、最高峰の技術や知識もある。何らかの手立てを用意して、治療が試みられるはずだ。
しかし、ここはオーレオンだった。魔族を敵として、復讐を果たそうとする人間たちに囲まれている。
こんな場所で、できることは何もなかった。ロルブルーミアは、ただ父親の大きな手を握っていることしかできなかった。
「――ルミア……」
吐息で紡ぐような声が落ちる。ロルブルーミアはぴくりと反応して「何ですの、お父さま」とやさしくほほえみかけた。アドルムドラッツァールは大きく肩で息をした。
「泣く必要は、ない。お前は、お前の……好きなように生きろ」
絞り出すように、どうにか口に出された言葉。ロルブルーミアは「ええ、ええ」とうなずいて手のひらを握りしめる。握り返してくれることはなかった。
それでも、すがるように「お父さま」と呼びかける。そうしなければ、零れ落ちてしまうとわかっていた。
「ルミア……」
眼窩の赤い瞳が揺らぐ。かろうじてぼんやり光る瞳が、ロルブルーミアを見つめたようだ。
「お父さま」と呼んだ。呼びかければ、いつでも答えてくれるはずだった。どこにいても、何をしていても。
ロルブルーミアを心から大切に思って、手料理を振る舞ってくれた。大きな手のひらで頭を撫でて、怖いのなら一緒に眠ってくれた。
自分の持つものの全てで、大きな体の何もかもを込めて、大事にしてくれた。愛してくれた。世界で一番の宝物だと、いつだってロルブルーミアを抱きしめてくれた。
父親がいれば、家族がいれば、何も怖くなかった。
ロルブルーミアにとって、この世界を生きる意味は、生きられる理由は、たった一つだった。世界そのものだった。
大事で大切な、何を差し出してでも守るもの。世界が世界であることの意味。一番大事なものを聞かれたら、迷わず答えられる。何より大事な、大切な宝物。
ルミア、と名前を呼んだような気がした。しかし声になることはなかった。もうそんな力すらない。
それでもロルブルーミアは「お父さま」とうなずいた。聞こえているのだと、確かに受け取ったのだと答える。それを認めたからだろうか。
アドルムドラッツァールはただじっとロルブルーミアを見つめて、そして、赤い瞳から光が消えた。
ぼんやりと宿っていた明かりが失われる。眼窩に輝いていた赤い瞳は急速に黒く染まっていった。
あっという間に光が失せ、色が消える。赤のかけらすら残さず、瞳は漆黒の闇に閉ざされる。その意味をロルブルーミアは知っている。
「お父さま……! いや、いやよ、答えて……!」
悲鳴を漏らしてすがりついても、アドルムドラッツァールからの反応は一つもない。
それどころか、倒れていたアルファレケスたちにも変化が起きていた。立派な角がさらさらと崩れていったのだ。
アドルムドラッツァールの体にすがりつくロルブルーミアは気づいていない。しかし、その変化は魔王と深い関わりを持つ魔族たちから、魔力が失われていくことを意味している。魔王の絶命によって。
ロルブルーミアは顔面蒼白で、必死にアドルムドラッツァールへ呼びかける。
光が失われた瞳も、動くことのない体も、示す意味は理解していた。しかし、信じたくなかった。信じられなかった。だから、何度も「お父さま!」と呼び続ける。
そんな様子を、オーレオンの人間が剣を向けながらおぞましそうに見つめている。
彼らにとって、目の前の光景は父を失った娘のものではない。忌まわしい魔王にすがりつく、汚らわしい娘でしかなかった。
討伐する瞬間を、次の号令を待っているだけにすぎない。一声さえあれば、今すぐにでも剣を構えて襲いかかるだろう。
緊張感をはらんだ空気。些細なきっかけさえあれば、なだれを打つように全てが動き出す。剣を構えて、魔族を捕らえて抹殺する。
今にも爆発しそうな空気に、リファイアードは一歩踏み出した。思うように動かない体を叱咤して、国王の前に立つ。口を開いた。
「父上、どうかお考え直しください。婚礼中に同盟を破棄するなど言語道断です。他国に知られれば非常識とのそしりはまぬがれない。オーレオンの名に泥を塗るに等しい」
息も絶え絶えになりながら、どうにかそう言った。
リファイアードの言葉は、何一つ間違いのない正論だ。オーレオンの為したことは、とうてい受け入れられるものではない。約束一つ守れないと、国家としての体を為していないと非難されてしかるべき行為だ。
だから、リファイアードは正しい。どんな非の打ちどころもない発言だ。
そんなことは、この場にいる誰もがわかっていた。
「お前はやさしい子だ。婚約者への情で、目が曇るのも仕方ない」
ふっと息を吐いて、国王は答えた。笑みを浮かべて、慈しむようにすら見える表情だった。
魔王や魔族が倒れて、血に濡れた花嫁は剣に囲まれているなんて。そんな状況は存在していないような態度だった。
しかし、この笑顔の意味をリファイアードは理解していた。背中がぞくりと粟立つ。
父上は、と思う。父上は決めてしまったのだ、と絶望的な気持ちで思い知らされる。
「すでに事は起きている。後戻りができないなら進むのみ。黄金の太陽を戴く国オーレオンの威光は衰えを知らぬ。光で全てを焼き尽くせばよい」
堂々と言い切るのと同時に、周囲から歓声が上がった。国王の言葉を讃え、その通りだと同意する。
熱狂の空気に、リファイアードは気圧される。誰もが同じ方向へ向かっている。この道が正しいのだと引きずられそうになる。
「不幸なことに魔族の王が乱心し、信心深き教皇が国を守るために脅威を討ち取っただけのこと」
強い声で、国王は言い切った。まるで、実際にあった出来事のように何の疑いもなく。これが確かに存在した事実なのだと告げるような態度だ。
魔王が教皇によって討たれたことは、間違いようのない事実だ。それなら、その意味を新たに付け加えればいいと国王は判断した。
起こったことを変えられないなら、丸ごと意味を塗り替えればいい。オーレオンの蛮行ではなく、オーレオンは悲劇の勇者だ。
同盟を結ぶはずが、相手の乱心によって破られた。あまつさえ、オーレオンの国民を害そうとした。それゆえ、やむを得ず剣を取り、教皇が魔王を討ったという筋書きだ。
これならば、オーレオンは同情の対象になる。平和を望んでいたにもかかわらず、相手の蛮行によってそれを破らねばならなかったのだ。たとえ、本心から他国がそれを信じなくても、表立って非難されることはない。
今のオーレオンであれば、多少の疑惑は握りつぶせる。事実が外にさえ漏れなければいい。実際にあったことではなく、望んだ筋書きを外部へ伝えればオーレオンは守られる。
「これは、オーレオンを守るためのものだ。事実が知られたなら、オーレオンという国自体が危うくなる危険をはらんでいる。この国が攻め落とされたなら、国民たちが脅威にさらされることになるだろう。オーレオンを守るためには、致し方ないことなのだ」
リファイアードを見つめて、国王は言った。
起きた出来事を歪曲して、事実に他の意味をつけること。実際にあった出来事そのままではなく、都合よく改変して伝えること。オーレオンは蛮行を働いた加害者ではなく、止むを得ず魔王を討つしかなかった悲劇の勇者へと仕立てること。
それらは全て、オーレオンという国の未来を守るためのものなのだと、国王は告げる。
それは確かに間違いではないだろう。オーレオンのことを思えば、必要な措置だと言えるかもしれない。
しかし、リファイアードは簡単にうなずけなかった。なぜなら理解しているからだ。そうするために何が必要なのか。何が邪魔なのか。痛いほどにわかっていた。
「リファイアード。お前は、国のため父のためよくやってくれている。誇り高い剣士だ。だからこそ、国を守るためにやるべきことはわかっているだろう」
そう言って、ゆっくり口を開く。ぴりりと空気が変わり、リファイアードの背筋が自然と伸びた。
今まで何度も受け取ってきた。国王直々の命令が下されるのだとわかった。
いつもなら、誇らしく思いながらその命令を受け取った。リファイアードにとって、国王陛下の命令を――望みを叶えることはこの上もない喜びであり、行動の理由だ。
このために自分自身が存在しているのだと、ずっと思ってきた。だから、どんな願いだって受け取って、どんな命令だって必ず果たしてきた。
しかし、今は、今だけは。これから告げられる言葉を、国王の命令を、聞きたくはなかった。なぜなら今ここで命じられることなど、たった一つしか思いつかない。
オーレオンを守るため、望んだ筋書きを完成させるために何が必要か、邪魔になるものは何かなんてよくわかっている。
国王は言った。凛とした声で、揺るぎのない強さで、はっきりと。
「リファイアード大尉に命じる。リッシュグリーデンド皇女を処刑せよ」
耳に言葉が届いた瞬間、リファイアードは絶望的な表情を浮かべる。しかし、国王の命令は絶対だった。
ふらふらとした足取りで、ほとんど操られるようにリファイアードはロルブルーミアの方へ足を進めた。
近づいた気配に、ロルブルーミアはそっと顔を上げた。
反応のないアドルムドラッツァールの体にすがりついていたものの、涙は出なかった。全てが酷い悪夢のようで現実と感じられないからなのか、全身を貫く虚無に涙すら飲み込まれてしまったのか。
虚ろな表情で、ロルブルーミアはリファイアードへ顔を向ける。
血まみれの教会で、敵意を込めた剣に包囲された中で、二人は向かい合う。




