第82話 終焉の剣
※この話には暴力的・残酷な描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
エトレシュヴールは言う。
ミュデットが生まれた時、こんなにも大事なものがこの世界にあることを知った。宝物だった。大切だった。ミュデットが幸せに生きられるよう、この国でできることをしていこうと誓った。
ミュデットは心やさしく、聡明な娘に育った。誰相手にも分け隔てなく接し、父親と共に教会へもよく出かけた。
幼なじみの青年といつしか思いを交わし合うようになり、二人は将来を共にすることを誓った。
親友の息子との結婚だ。何一つ心配することはなかった。幸せになる未来が、二人には広がっているはずだった。それなのに。
「ミュデットがいるはずだった。この場所で、手を取り合って未来の誓いを捧げるのは、ミュデットのはずだった」
茫洋としたまなざしで、エトレシュヴールは言葉をこぼす。
魔族との争いは絶えず続いていた。そんな中でも、結婚式の準備は着々と進んでいた。
嬉しそうにドレスを仕立て、縫い付けた鈴蘭を両親へよく見せてくれたのだ。このドレスを着て、幸せそうに笑う娘の姿を見ることが夫婦にとっての何よりの喜びだった。
大事な宝物が未来に羽ばたいていく。大切に手のひらで包んでいた一人娘が、愛する人と結ばれる。
その姿をずっとずっと心待ちにしていたのに、ついぞその日は訪れなかった。
侵攻してきた魔族によって町は破壊され、ミュデットは帰らぬ人となった。
発見された遺体は見るも無残な姿で、生前の面影はほとんどなかった。蹂躙され、なぶられ、痛めつけられたのだと、否応なく思い知らされる。
どれほどの恐怖だったか。苦しみだったか。痛みだったか。やさしく聡明な、愛らしい一人娘は、徹底的な暴力によって理不尽に奪われたのだ。
それを契機として婚約者の青年は自ら命を絶ち、妻も精神に不調を来たすようになった。結局、回復することもなく、後を追うように亡くなったのだ。
一人になったエトレシュヴールは、それでも信仰を捨てなかった。
神からの試練を乗り越えてこその聖職者であると、いっそう教会の活動に邁進するようになったのだ。そして、教皇という地位まで昇り詰めた。
「娘や妻のことを忘れたことはありませんでした。それでも、憎しみや怒りは長い時間をかけて氷解したはずでした。ただの勘違いだったとしても、きっと気づくことはなかったでしょう。――リオレイユールがこんな夢を見せなければ」
そう言って、エトレシュヴールが顔を動かした。国王を見つめて、それからロルブルーミアへ視線を向けた。
ぎくり、と体をこわばらせるとエトレシュヴールが笑った。
おだやかに、やさしく、春の日差しのようにあたたかく。これまで見てきたものと変わらぬ笑顔だった。
「あなたの幸せを願っていたのも本当なのですよ」
それだけ言うと、再び前を向いた。アドルムドラッツァールを見つめて、凛と声を張る。
「曙光よ差せ、極光よ在れ。ここは永久、光の園。清らかなるは万物に、澄み渡るは万象に、循環し、再生し、永遠を留めよ。光在れ、光降れ、とこしえに」
詠ずるエトレシュヴールは、前だけを見ていた。アドルムドラッツァールしか目に入らない様子に、ロルブルーミアは意を決する。
今なら注意がそがれているはずだ。立ち上がり、床を蹴って駆け出そうとする。
しかし、ドレスは普段着用しているものより、格段に裾が長く後ろにも広がっている。布の重さは想像以上で、駆け出そうとした足がもつれる。
ロルブルーミアが派手に転ぶのと同時に、エトレシュヴールが大剣を構えた。
「あの時、魔王軍の頂点にいたのはあなたでしたね。私の娘を殺した報いを受けよ」
ぞっとするほど冷たい声で言い放つのと同時に、アドルムドラッツァール目がけて大剣を振り下ろした。誰一人動くことはできない。声すらも発せない。
全ての音が消えたような。一瞬が永遠に引き延ばされたような。
何もかもが作り物めいた光景の中――緋色の剣は、真っ直ぐアドルムドラッツァールの胸を貫く。
ロルブルーミアの喉から、声にならない悲鳴が漏れる。這いつくばった姿勢をどうにか立て直して、よろめくようにアドルムドラッツァールへ駆け寄る。
エトレシュヴールが剣を引き抜き、赤黒い血が派手に噴き上がる。
「お父さま、お父さま……!」
転がるようにして、アドルムドラッツァールのもとへ辿り着く。横たわる巨体にすがりついて、必死で名前を呼ぶ。
後ろでは、我に返ったかのように動きを取り戻した聖歌隊や王族たちが、エトレシュヴールを取り押さえてどこかへ連れていくらしい。
ロレッタの「教皇さま、どうして……!」と叫ぶような声がこだましているけれど、ロルブルーミアの耳には入らない。
「お父さまに手当てを……誰か……!」
おろおろしながらそう呼びかけるものの、反応するものはなかった。
参列者のために用意された座席の間で、リッシュグリーデンドからの参列者は折り重なるように倒れている。
医師であるフェノッテンリシューは、すぐにでも反応して的確な治療をほどこしてくれるはずなのに。横たわったまま、ぴくりとも動かない。
いつでも迅速に必要な手配をしてくれる侍従長のアルファレケスも、人形のように倒れたままだ。呼吸をしているのかさえ疑わしい。
一体どうしたら。どうにかして、ここにいる者たちを助けなければ。混乱しながらも思っていると、弱々しい声が響いた。
「ああ……ルミア……。お前だけでも、ここから逃げなさい……」
絞り出すような声は、アドルムドラッツァールのものだ。赤い瞳に宿る光は弱々しい。それでも、まだ光は留めていた。
ロルブルーミアははっとした面持ちで、アドルムドラッツァールへ視線を向ける。
今にも途切れそうな声で言うのは、教会全体に掛けられた呪いだ。
人間から見れば、呪いではなく祝福の類かもしれない。魔を退け排除する意図が、あらゆる全てに隠れていることが、今ではまざまざと感じられると言う。
上手く隠されていただけで、恐らく最初から仕込まれていた。聖歌六番がきっかけとなり、聖なる力が解放されて魔族への呪いとなった。
続く聖句により呪いは固定され、今や教会は魔族を封じ込める巨大な一装置と言っていい。
魔族であるリッシュグリーデンドに対して、この仕打ちである。
明らかな敵意だ。ロルブルーミアに対しても同様のものが仕掛けられると考えるのは、何もおかしな話ではない。だからこそ、逃げろと言う。
いいえ、いいえ、とロルブルーミアは首を振った。
ここにみなを置いていけるはずがないのだ。胸の傷をどうにかふさごうと、ロルブルーミアはドレスを手繰り寄せて、胸の上で強く押さえつける。見る間に純白の布は赤黒く染まっていった。
「ああ――きれいだな、ルミア」
おぼろげな声で、アドルムドラッツァールがつぶやいた。
必死の形相で布を押さえていたロルブルーミアは、はっとした表情を浮かべてから唇を引き上げる。
押さえつける手も、身にまとうドレスもアドルムドラッツァールの血で濡れている。それでも。
「――ええ。この日のためのドレスですのよ。お父さま、わたくしの姿をお姉さまたちに教えると約束なさっていたでしょう?」
いつだったか交わした会話だ。
オーレオンでは人の姿を取ることは難しく、本来の姿になるしかない。だからこそ、ロルブルーミアの今後を考えて人ならざる者の姿をした兄や姉は出席を見送った。ロルブルーミアの未来のため、国で待つことを選んだのだ。
そんな姉と兄に、父親であるアドルムドラッツァールはロルブルーミアのドレス姿を目に焼き付けて教えてやると約束したのだ。
結婚式で、したいことはたくさんあった。
誰より一番美しい姿を父親に披露する。きっと「きれいだな」と笑ってくれるから、その姿をしっかり記憶に刻んでもらうのだ。
それから、今日までの話をたくさんしたかった。オーレオンへ訪れてから、何があってどんなことを思ったのか。今日に至るまでのあらゆることを、父親に話したかった。
「結婚式はまだ終わっておりませんわ。リファイアードさまも紹介しておりません。話してみたいとおっしゃっていったでしょう?」
必死で言葉を募ると、アドルムドラッツァールがゆっくりと腕を持ち上げた。自分を見下ろす娘の頬をそっと撫でる。
手袋の下にある手を知っている。大きな手のひら。黒い鱗で覆われていても、確かな体温があった。
あたたかくて、包み込むような手のひら。何度もロルブルーミアを安心させてくれた。しかし、今手のひらから温もりが遠ざかろうとしている。




