第81話 翳り
周囲の思惑、貴族の直訴、シャンヴレットの言葉。何もかもが、リッシュグリーデンドとの結びつきを否定する。
この結婚は間違いだ。リファイアードとロルブルーミアの婚姻は、あってはならない。この結婚に反対することは、国を思うがゆえ。愛国心があるのならば、反対以外の選択肢などあり得ない。
声ではなく、言葉ではなく、心そのものをぶつけるように伝えられる。ひしひしと、肌で感じ取れるほどの強さだ。
国王は黙したままそれらの言葉を聞いたあと、一つ深呼吸をしてから口を開いた。
「お前たちは、自分の行いを理解しているのか!」
怒鳴り声ではなかった。最大の声量で放たれた言葉は、どんな怒気も苛立ちもなかった。それでも、周囲を圧倒させるだけの力強さがある。
国王は落ち着いた表情で続ける。
「ここがどんな場なのか、お前たちは理解していないようだ。その目には都合のいいものしか映らぬと見える」
そう言うと、聖歌隊へ視線を向ける。静かに冷たい声で「即刻その歌を止めよ」と言えば、それだけで充分だった。
聖歌隊はすくんだように体をこわばらせたかと思うと、少しずつ口をつぐんでいく。
それまで圧倒的に空間を満たすようだった歌声が小さくなり、やがて消える。しんとした静寂が教会に横たわった。
「――国賓として招いた客人をもてなすどころか、正反対の仕打ちとは何たる無礼か。この結婚が国家の益になるのだと、お前たちの頭では理解できぬようだ。そうでなければ、こんな馬鹿げたふるまいなどできるはずもない」
吐き捨てるのではなく、ただ事実を羅列するような響き。強い言葉ではないし暴力の気配もない。
それなのに、圧倒的な力と強さが満ちた声と態度は、相手を屈服するさせるような響きを持っていた。
国王は重々しく告げる。まるで死刑宣告でも下すような響きで。
「リッシュグリーデンドを愚弄し、あまつさえ皇帝に膝をつかせるなど言語道断。お前たちの命がいくつあっても足りぬ行いよ」
冷ややかなまなざしで、どんな感情もない声で告げる言葉に、周囲の人間が体をすくませた。
どんな荒々しさもそこにはなかった。それなのに、絶対的な力があるのだと否応なく理解させられる。
この場の頂点は国王であり、それ以外の存在はただ言うことを聞く以外の選択肢など存在しない。本能的に理解してしまうような、そんな言葉はまさしく死刑宣告と同等だっただろう。
貴族たちやシャンヴレットから、声は続かなかった。
意を決して蜂起し、国王に直接訴えたにもかかわらず、結果はこの通りだ。主張にうなずくどころか、断罪が待っている。
その事実に、貴族たちの勢いが明らかに衰えた。国王が味方でないと理解し、これ以上の行動にためらっているのかもしれない。
このままなら事態は沈静化するはずだ、とロルブルーミアは思う。
危ういところで、国王の一喝が効いたのだ。崩れ落ちそうな均衡は、ぎりぎりのところで持ち直すことができた。そう思っていたのに。
「――何もかもが、もう遅いのですよ」
静かでいながら凛とした、教皇の声が響く。
いつの間に移動していたのか。祭壇の前にいたはずの教皇は、薔薇窓を背景にして緋色の大剣を持っていた。
重さなどまるで感じさせず、教皇は足を踏み出した。小柄な老人ではとうてい扱えるとは思えない緋色の大剣を持って、真っ直ぐ歩く。
そのちぐはぐさは、今までの振る舞いとあわさって教皇の異様さを際立たせる。次の行動をどう取るべきか、と周囲の人間の間に一瞬隙が生まれる。それで充分だった。
「大いなる光よ、夜闇を照らしたまえ。真夜中の獣は明らめ、茨の揺り籠で眠れ」
朗々とした声が響くのと同時に、リファイアードが呻き声を上げて膝をついた。ロルブルーミアがとっさにしゃがみこむと、脂汗を浮かべながら顔を歪めている。
呼吸が荒く、明らかな負荷がかかっている。聖歌はもう聞こえないのに、どうして――と思うものの、答えはすぐに出る。
たった今の教皇の言葉だ。聖歌ではなくとも、魔族を害することができるのだ。他の誰でもない教皇であれば。聖なる力を誰より持った存在であるならば、きっとそんなこともたやすい。
恐らくリファイアードだけではなく、リッシュグリーデンドから参列した魔族たちも同様の症状が出ているはずだった。
ロルブルーミアが振り返ると、最前列に倒れていたアドルムドラッツァールがどうにか体を起こそうとしていた。祭壇を通り過ぎた教皇が、ためらうことなくその前に歩いていく。
アドルムドラッツァールは気力を振り絞り、どうにか体を起こしていた。
片膝をつき、白骨化した竜の頭部から、赤い瞳を光らせて教皇へ視線を向ける。迎え撃つような態勢で、口を開いた。
「夜から生まれた世界よ、この身に力を宿せ。全てを呑み込み、燃やし尽くす業火となれ。炎よ、夜よ、闇よ、焔よ、今ここに集え」
深く低い声が、教会に響く。
いつものような、張りのある声ではなかった。それでも、呼吸を乱すことなく言葉を紡ぐのと同時に、アドルムドラッツァールは黒い手袋をした指先を教皇へ向ける。
「世界よ、世界を燃やし尽くせ。フェルヌ・ノスク・グラニルマ」
最後の言葉が放たれるのと同時に、アドルムドラッツァールの指先から黒い炎が噴き出し一直線に教皇へ向かった。
夜を固めたような漆黒で、ゆらゆらと周囲を舐めるように襲い掛かる。
しかし、教皇は無表情で緋色の大剣を掲げると正面から黒炎を叩き斬る。炎は一瞬で掻き消えて、教皇の歩みを止めることは叶わない。
そんなことはわかりきっていた。本来なら、アドルムドラッツァールの放つ黒炎はこんな威力ではない。ひとたび魔力を込めれば、この教会全てを破壊し尽くすこともできるはずだ。
それなのに、こんな指先程度の炎しか出せない。明らかな魔力の衰えに、オーレオンという場所、さらには魔族を害するあらゆる全て。
こんな状況では、あの黒炎だけが精一杯だったのだ。
それも恐らく、かなりの無理をした結果だ。
周りの魔族たちは倒れたまま動かない。恐らくどこかで人間の血が入っているおかげで、多少は影響が薄れているリファイアードでさえ、昏倒しそうになっている。
そんな状態で、上体を起こしてあまつさえ攻撃を作り出したのは、ひとえにアドルムドラッツァールの力が強大であるがゆえだ。
しかし、それも限界を迎えていた。
もともと、アドルムドラッツァールの力は衰えていたのだ。追い打ちをかけるような、聖歌や聖句の存在、何よりもこの聖なる力が満ちた教会という場所。
あらゆる全てが敵になる場で、魔力を振り絞って出力させれば一体どうなるかなど、わかりきったことだった。
「――お父さま!」
悲鳴に似た声でロルブルーミアは叫ぶ。
アドルムドラッツァールの巨体が再び床に沈んでいた。もはや、体を支えることができないのだ。仰向けのまま、ただ床に倒れ伏す。
教皇は無表情のまま、アドルムドラッツァールの前に立つ。一体何をするつもりなのか。頭が理解を拒んでいた。わかりたくなかった。教皇は倒れるアドルムドラッツァールをじっと見つめた。その時、声が響いた。
「エトレシュヴール!」
切羽詰まったような声だった。悲痛な、明らかな焦燥をにじませた響き。
声の主は国王であり、今まで見たこともない表情を浮かべていた。笑顔でもなければ、どんな威厳もない。いっそすがりつくような表情で、教皇へ言う。
「エトレ、何をするつもりだ。止めるんだ」
「手遅れだと言ったでしょう、リオレイユール」
少し振り返った教皇が、笑みを浮かべて答えた。
リオレイユール。オーレオン国王の名前であることは、誰もが知っている。
しかし、名前を呼ぶなど恐れ多い行為だとして、口に出すことはない。教皇も国王陛下としか呼びかけていなかったはずだ。
だからこれは、国王への言葉ではなかった。ただここに生きている、一人の人間に対して、教皇は言ったのだ。
恐らく教皇自身も、今はもう最高指導者ではない。ただの人間だった。
ロルブルーミアは慎重に息を吐き出し、倒れたアドルムドラッツァールへ視線を向けた。
しゃがみこんで荒い息を吐くリファイアードも心配だった。しかし、今はまず父親のところへ駆けつけたかった。緊急性の高さからそう判断したのだ。
ただ、ここで迂闊に動いて教皇――エトレシュヴールへ刺激を与えることは避けたい。大剣を持っているのだ。一体どんな動きをするわからない。
だからこそ、慎重に様子をうかがっていると、エトレシュヴールは、どこか遠いまなざしを浮かべて言葉を続けた。
現在ではなく、過去を見つめる瞳で、現実を何一つ目に映していないような表情で。
「本当なら、ここでミュデットが結婚式を挙げるはずだった。鈴蘭の花が好きでした。仕立ての上手な子でした。自分で仕立てたドレスに、鈴蘭を縫いつけてレアンドと未来を共にする誓いを捧げるのだと。エルカリオ教会で、鈴蘭のドレスを身に着けて結婚式を挙げるのが夢だと、ずっと言っていました」
そこで言葉を切ると、国王に向かって言った。
オーレオン国王ではない、ただ一人の人間に向かって。国王となる前から知っている、呼びかけてきた名前を口にして。エトレシュヴールは尋ねた。
「なぜですか、リオレイユール。どうしてあの時見るはずだった景色を私に見せたのですか」




