第80話 美しき祝祷
鐘の余韻が去ったところで、教皇は聖歌が始まると告げた。結婚式でよく歌われるのは、「きよらなるひかりよ」と呼ばれる聖歌二百七十四番だ。
ロルブルーミアも実際に聞いたことはないものの、知識として存在は知っていた。
「いつもでしたら『きよらなるひかりよ』を歌う場面ではありますが――今日は特別な日です。十六番を歌ってください。ええ、空へよく響くように――窓を開けてもらいましょう」
笑顔で指示すると、聖歌隊は戸惑いのような雰囲気を流した。予定にない変更だったのかもしれない。
しかし、すぐに手もとにあった譜面をめくった。まったく知らない歌というわけではなく、事前に練習は行っていたのだろう。
教皇の言葉通り、教会の窓が開けられたようだ。風が通り抜けて、それぞれの頬を撫でていく。
それが合図だったのか。聖歌隊から最初の戸惑いは消えて、整然とした空気が流れる。指揮者が前に出てきて、手を上げた。
聖歌隊はまるで一つの楽器のように、聖歌を奏で始める。
織り上げられるように重なった歌声が、美しい旋律を紡ぐ。
古い歌なのか、歌詞らしい歌詞はない。母音と子音を組み合わせながら、澄み切った歌声が教会いっぱいに広がっていく。
不思議な響きの聖歌だった。美しく繊細でありながら、その場にいる者を圧倒する力強さがある。
教会の荘厳さをよりいっそう際立たせながら、縦横無尽に辺りを駆け回るような躍動感すら感じさせる。
相反するものが同居して、共鳴し、教会全体が飽和していくようだった。
澄み切った美しさが塗り重ねられて、少しずつ厚みを増していく。空間が透明に埋め尽くされていく。
澄んだ歌声が響くたび、言葉にならない声たちが幾重にも重なり、旋律が奏でられるたび、教会の空気が塗り替わる。
まるで、美しい声に魅入られるようだった。結婚式の場であることすら忘れて、陶然と聞き入ってしまいそうになる。
しかし、ロルブルーミアがはっと我に返ったのは、隣に立つリファイアードの異変に気づいたからだ。
直立不動の態勢を保っていたはずの体が、ふらりと揺れる。一歩足を踏み出したのは、倒れそうな体を支えるためだ。
視線を向けると、苦しそうに眉を寄せてあえいでいる。魔力欠乏に陥っても、次の日には涼しい顔をしていたリファイアードだ。苦しみも痛みも、何もかもをこらえることにができる。今この場が、どんなに大事な場面かなんてよくわかっている。
そんなリファイアードが、苦しげな表情を浮かべている。それがどれほど重大なことなのか。理解しているロルブルーミアは、とっさに声を掛けようとした。
しかし、それより早く背後から大きな音が聞こえた。重いものが崩れ落ちるような、ひどく重量のある音だ。
反射的に振り返ったロルブルーミアは、瞬間目を見張る。
マントを羽織った筋骨隆々とした体が、教会の床に倒れていた。重量のあるものが崩れ落ちたような音は、アドルムドラッツァールが倒れた音だった。
さらに、共に参列していたリッシュグリーデンドからの参加者も、目の前で次々に倒れていく。
山羊の獣人であるアルファレケスも、不死族のフェノッテンリシューも、悪魔族のオルルタも。鬼人と狼の獣人族との混血マデノーワも、森林の妖精族シルアクレッタも、吸血鬼のトゥスラムクルも。
それ以外の随員も含めて、リッシュグリーデンドからやって来た一団は意識を失っているようだった。
一体何が起きたのか。突然のことに混乱して、ロルブルーミアは立ち尽くしているしかできない。
しかし、倒れたアドルムドラッツァールがぴくりと動いたのを視界にとらえて、ロルブルーミアが一歩動こうとした。すると、その瞬間教会の扉が荒々しく開いた。
つい先ほど、リファイアードと手を取り合って、通ってきた扉。これから始まる結婚式のため、二人で歩いていく未来のための最初の一歩を踏み出した。
その扉から入ってきたのは、甲冑に身を包んだ一団だった。
「結婚を中止しろ!」
「魔族を国に入れてはいけない!」
「魔族を追い出せ!」
凶暴な光を宿らせて、鞘から抜いた剣を掲げて、勢いよく突進してくる。それに怯んで、聖歌隊の歌が途切れた。
しかし、すぐに強い声が響いた。教皇が「続けなさい」と告げたのだ。それまでの柔和さやおだやかさは一切ない。固く強い声は、有無を言わさぬ絶対的な力があった。
普段とあまりに様子が違うからなのか。教皇の言葉をたがえることなどできないのか。
聖歌隊は再び聖歌六番を歌い始める。歌詞はない。母音と子音が組み合わされた、ゆったりとした律動に不思議な抑揚を持った旋律。いくつにも重なる声が、教会を埋め尽くす。
聖歌を背景にして、甲冑の一団が勢いよく駆けてくる。甲冑に刻まれた紋章は、彼らが貴族たちであることを伝えていた。
恐らく反対派の貴族たちなのだとロルブルーミアは察する。宝物庫襲撃事件で、黒幕とも言えるルカイド公爵には処分が下された。
しかし、反対派は人数が多いと言っていたではないか。一枚岩ではないと、それぞれの思惑で動いているのだと。つまりは今がそういうことなのだ。
ルカイド公爵の指示はない。だけれど、だからこそ、彼らはこの最後の場で動くことを決意した。この結婚式を成立させてはならない。ただ、その信念だけで。
「汚らわしき魔族の娘め!」
「リッシュグリーデンドへの恨みを忘れるものか!」
荒々しく言葉を吐き出しながら、剣を構えた貴族が向かってくる。
リファイアードが一歩踏み出して、ロルブルーミアの前に立ちはだかるも動きは緩慢だ。恐らく、上手く体が動かないのだ。
一体どうして。どうしたらいいの。混乱している合間に、聖歌は力強い響きを奏で盛り上がっていく。
すると、前に立つリファイアードの体がぐらりと揺れた。肩で息をしており、明らかに今までよりも苦しみが増していた。まるで、聖歌の盛り上がりに呼応するように。
そう思ったロルブルーミアの頭に、以前交わした会話がよみがえった。
(最近は、結界を張る聖歌というのを覚えました。歌うことで、聖なる力が発動する仕組みなんです)
修道院の中庭で、ロレッタが言っていた。そうだわ、とロルブルーミアは思う。聖なる力は魔除けとしても機能する。それならばこの状況は。
たった今歌われている聖歌六番。これが魔除けの力を持つものなら。歴史ある教会で聖職者たちがそんな歌を歌ったなら。恐らく、魔族に対して絶大な効力を発揮するのだ。
リファイアードとリッシュグリーデンドからの参列者にだけ効いて、ロルブルーミアを含めた他の人間にはどんな異変がないことからも、的外れな考えとは思えなかった。
それならこの歌を止めなくては。そうしたら、お父さまたちもきっと意識を取り戻すはずだわ――。
思ったロルブルーミアが視線を動かすと、参列席の最前列で倒れていたアドルムドラッツァールが、体を動かそうとしていた。
腕を支えにして、上体を起こす。そのまま立ち上がろうとするものの、降り注ぐ聖歌がよりいっそう強くなった。支えにしていた腕から力が抜け、ぐらりと倒れる。
「お父さま!」
悲痛な声でロルブルーミアが叫ぶ。同時に、剣を構えた貴族たちは祭壇の前まで辿り着いていた。
一部はロルブルーミアたちに剣を向けており、リファイアードは苦しげに顔を歪めながらも体全体でロルブルーミアをかばっている。
「国王陛下、どうかお考え直しください! リッシュグリーデンドの――魔族の娘をオーレオンへ入れるなど、災いを招くに等しい!」
別の貴族たちは、国王にひざまずいて必死に訴えかけていた。
リッシュグリーデンドと国交を結ぶなど、裏切りに他ならない。魔族と共存などできるわけがない。災厄を呼ぶだけの婚姻をどうか取り消してほしい。
必死の形相で訴える声に同調したのは第三王子シャンヴレットだ。
「父上。これほどまでに、愛国心にあふれた者たちの言葉です。どうぞお聞き届けください。魔族の結婚など、我がオーレオンにはふさわしくないのだと!」
熱を帯びた、真剣な声。貴族たちも同意の声を上げた。
わあわあと騒がしく、結婚式の荘厳さはどこにもない。厳粛な空気も清廉さも何もかもが踏み荒らされ、見る影もなくなった。
唯一聞こえる聖歌だけが結婚式らしさを残しているものの、よけいにちぐはぐな印象を与えるだけだ。
緊急事態であり、すぐにでも乱入者を捕まえるべき場面だ。しかし、教会の衛兵たちは、戸惑ったまま距離を取っている。
己の職務を理解しているはずだ。それでも動かないのは、貴族たちを止める意志がないからかもしれない。
結婚は白紙にするべきだと。リッシュグリーデンドの皇女を迎え入れるなど、そんなことがあってはならないと。
だからこそ、貴族たちへの消極的な賛成として、取り押さえることを選ばなかったのかもしれない。
この場にいるほとんど誰もが、結婚に反対している。こんな結婚など、あってはならないのだ。本来であれば結ばれるはずのない縁なのだ。
それなら今ここで、全てを正しい形にすべきなのだと誰もが理解しているような。この間違いを正さなくてはならないと、全員が思っているような。そんな空気が充満していた。




