第79話 始まりの鐘が鳴る
教皇は、リファイアードとロルブルーミアをじっと見つめる。それから、朗々と声を響かせた。
大げさな身振りや口調でないにもかかわらず、聞く者を惹きつけるような話し方をしていた。
「本日は、オーレオンの新たなる一頁となるでしょう。長く続いた戦いの果て、こうして新しい門出を祝えることを感謝しましょう」
そう言うと、手に持っていた聖書を開く。重厚な革表紙は金色の装飾、天や小口の頁も金箔が加工されており、歴史の風合いにくわえて格調高さを感じさせた。
教皇は一瞬視線を落としたあと、すぐに前を向いて口を開く。
「――泥濘に差す光よ、始まりの曙光よ、大いなる光よ。夜明けの証はいざここに立つ。守りたまえ、導きたまえ。混沌の子らの声を聞き届け、どうか楽園へ導きたまえ。偉大なる光よ、願わくは声を聞き届けたまえ。大いなる夜明けよ、願わくは我らを照らしたまえ」
朗々と語られるのは、聖書の一節だった。
オーレオン王族との婚姻とは、神との結びつきを求めるものである。そのために、まずはこちらからの呼びかけが行われ、続いて神を讃えるものへと変わっていく。
「始めの人々は泥濘に生まれた。夜闇と混沌の子らに、光を伴って現れた。大いなる日輪、燦然たる月光、永遠の夜明け。泥濘の暗闇に差し込む曙光よ。夜を照らす極光よ。我らの糧、命の息吹、巡る季節を紡ぐもの。あまねく光を讃え、尊び、信ずることをこれより宣誓す」
教皇が目を閉じ、頭を下げる。呼応するように、リファイアードやロルブルーミアも首を垂れた。オーレオンからの参列者も同様だろう。張りつめたような、厳粛な沈黙が流れる。
微動だにせずじっとしていると、突如として鐘の音が一つ響く。
それを合図にして、ロルブルーミアはゆっくり頭を上げる。リファイアードも頭を起こしており、教皇もじっとロルブルーミアを見つめていた。強いまなざし。どこからか風が吹いて、ベールをふわりと揺らした。
数秒の間のあと、教皇はふっと視線を動かす。聖歌隊の最前列を離れて、ロレッタが歩いてきたのだ。
ロレッタは純白の封筒を教皇へ渡すと、静かに戻っていった。教皇は再び前に向き直り、教会の参列者に向かって、おだやかによく通る声で話す。
「――凛々しき花婿と美しき花嫁への寿ぎを、大いなる主より賜りましょう。聖書には、祝福の花を授ける一節があることは皆さまご存じの通りです。御心に沿った言葉が、本日選ばれてここに記されております」
純白の封筒は、神からの神託だ。
ロレッタが言っていた祝福の神託。子供の誕生や結婚など、人生の岐路や未来を占う時に授けられる、神の言葉だ。この日のために神の声を聴き、二人に授ける言葉が選ばれた。
詳細な方法は、聖職者にしか知らされていない。そこに教皇や聖女の意志は介在せず、ただ神の神意が聖書の形となって現れる、というものだ。
「御心の言葉を開式の言葉といたしましょう」
そう言って、教皇は封筒を開く。中には二枚の札が入っていた。その内の一枚を確認すると、よどみのない手つきで聖書をめくる。
封筒の中身は、神託を示す聖書の一節が記されている。教皇は、リファイアードへ真っ直ぐ視線を向けた。
「リファイアード王子には、赤き薔薇を――聖書の『ルシークルの章』より、御言葉をお伝えします」
そう言って、一つ深呼吸をすると詩を朗読するように声を発する。決して声を張り上げるわけではない。それでも、教会の端まで声はよく届いた。
「燃える炎を、胸に宿すことを忘れてはなりません。あなたの心が炎を忘れない限り、永遠にその花は咲き誇るでしょう。その炎は、あなたの命の糧、歩くための薪、決して絶やさぬ希望の灯。赤き薔薇を胸に宿す者は幸いです。重なる花弁を一枚ずつ慈しみ、身を守る棘を愛しなさい。さすれば、いずれ楽園の道が開けるでしょう」
堂々と告げる言葉を、リファイアードは受け取る。
聖書の一節として、ところどころで祝福の場面で花が出てくることはあった。その内の一つが、今ここでリファイアードに向けて読まれた赤い薔薇にまつわるものだ。
聖書の中で、神からの建国への祝福が薔薇の形で示される。ロルブルーミアも聖書を勉強した際、読んだ記憶があった。
粛々とした様子のリファイアードに目を細めたあと、教皇は大きく息を吐く。次はロルブルーミアへの神託だ。
教皇は、緊張した面持ちでもう一枚の札へ目を向けると動きを止めた。
書かれた文字をじっと読み取る姿は、そこだけ切り取られた絵画のようだった。まるで時間が停止したように、教皇は微動だにしなかった。その様子は、明らかにおかしかった。
真正面から相対した時、ロルブルーミアを見つめる姿。たびたび違和感は覚えていたものの、今この瞬間にそれは決定的になったと言っていい。
何かがおかしい。遠くから見れば、恐らくほとんどわからない。しかし、至近距離で顔を合わせている二人なら、違和感を抱くには充分すぎた。
国同士の結婚式という場だから緊張しているだとか、そんなものではないのだ。
教皇はこれまでいくつもの国際的な大舞台に出席しているし、第一王子の結婚式でも立派に教皇としての務めを果たしている。
今になって、突然緊張によっておろそかになるなんてことはあり得ないだろう。
だから、これは何か別の理由があるはずなのだ。ただ、失敗の許されない場でどんな対応をするべきなのか、ロルブルーミアにはわからなかった。
隣のリファイアードも、いぶかしむ気配は漂わせているものの、すぐ動けないでいるのは結婚式を台無しにするわけには行かないと思っているからだろう。
下手に動けば、二か国間の同盟すらも危うくなってしまう。
参列者の中に、心から味方になってくれる人はほとんどいない。敵ばかりの場所で、迂闊に動こうものなら何が起きるかわからないのだ。
父親の望みを叶えられないなんてことは、願いを無視してしまうことは、決してできない。
だからこそ、すぐに動けずにいた。身じろぎもせず、声も発しないまま、固まっている教皇にどんな働きかけをすればいいのか。二人ともとっさに判断ができなかった。
恐らく、そのままでいれば周囲も不審に思い始めただろう。教皇が何も言わず立ち尽くしているなど、緊急事態が起きたのだと思われてもおかしくはない。
果たしてそれに気づいたからなのか。それとも、今この場がどんな状況なのか我に返ったのか。
それまで動きを止めていた教皇が、ゆっくり息を吐いた。札に留めていた視線を、目の前の二人へ向けた。
不思議な表情だった。いつもの柔和な笑顔に似ている。おだやかで、やわらかで、何もかもを慈しむような。そんな笑顔にも見えるのに、同じくらいに叫び出す前のような表情にも似ていた。
荒れ狂う心を抑えつけて、何もかもをそぎ落として無になって、それでも消えないものが内側からにじんでいくような。
やさしい笑顔に似たものを浮かべた教皇は、静かに口を開く。
「ロルブルーミア皇女には――『リシュトの章』より、純白の鈴蘭を」
唇を引き上げて言うのは、神託の花だ。
『リシュトの章』は建国後の聖女にまつわる章だったはずだわ、とロルブルーミアは思う。国民の安寧を願う祈りが聞き届けられた時、鈴蘭が答えとして贈られている。
教皇はためらうように、二度三度指先を行き来させてから、聖書の頁を開く。鈴蘭の祝福を描いた場面だろう。
「――真白き花弁が開く時、鐘の音が鳴るでしょう。鈴なりの花弁は祝福を鳴らし、甘い芳香は永遠の幸福を約束するでしょう。穢れなき無垢の鈴蘭を、どうぞその手に受け取りなさい。祝福を授けましょう。幸いを授けましょう。真白き鈴蘭を目にするたび、芳香をかぐたび、あなたは神からの愛を知るのです。純真なる祝福は、今あなたに与えられた」
おだやかさより、もっと力強い声をしていた。確かな意志が宿っているのだと、聞いているだけでわかる。
しかし同時に、がらんどうの響きがあった。強く真っ直ぐそこにあるようで、妙な空虚さを抱えた声。
どこかちぐはぐな様子は、浮かべられる表情に似ている。笑いながら泣き出しそうな、無表情のようでにじんだ心を抱えるような。精巧な機械の歯車が狂い出したような、そんな様子に似ていた。
しかし、どんな対応をしたらいいのか。
様子がおかしいと声を上げれば、結婚式は破綻する。そうなってしまえば、ロルブルーミアの戴冠を行うことはできなくなり、オーレオンへの正式な輿入れが叶わない。二か国間の同盟も怪しくなってしまうかもしれない。
それだけは避けなくてはいけないのだ。
それゆえ身動きが取れずにいると、教皇が笑みを浮かべたまま口を開く。
それまでと変わらないような、落ち着いて式を進めていくような様子に、二人はひとまず事態を見守ることにする。
教皇が普段通りの様子に戻ってくれたなら、それが一番いいのだから。
「大いなる主からの言葉を賜りました。赤き薔薇と純白の鈴蘭への御心を、開式の言葉といたしましょう」
その言葉と同時に、再び鐘の音が鳴った。今度は二度、教会全体が包まれていくような、大きく空に向かって響くような音だった。




