第47話 一つ星を抱く
同情や憐憫を求めてものではない。自分にとっての父親の存在を語るために必要と判断して、過去のことを口にしているのだと察しはついた。
それでも、ロルブルーミアが想像できる以上に酷薄劣悪な環境で生きていたのだ。
あの廃墟での夜は、悪意にまみれた暴力的な記憶で塗りつぶされている。しかし、それはたった一晩のことだったけれど。
リファイアードは恐らく、それが日常だった。繰り返される全てが痛みと暴力で作られるような日々だった。
「ゴミのように生かされて、ゴミのように死ぬはずだった。父上が現れるまでは」
静かな声で、リファイアードは言う。
光も差さない地下室で、汚物にまみれた檻の中、横たわっているしかできなかった。争う声や物音が聞こえても、体は動かせなかった。
何が起きているかもわからないでいると、甲冑を身に着けた男たちが部屋へ入ってくる。視線だけを動かすと、その中の一人と目が合った。
蜂蜜色、という名前すら知らなかったけれど。きらきらした瞳を持つその人は、どこからか持ってきた鍵で檻を開けると、ぼろきれのような体を抱き上げた。
汚物だらけで、頭も体も虫に食われたやせっぽちの魔族を。ためらわずに抱き上げて、光の中へ連れ出したのだ。
「あの瞬間、俺はこの世界に生まれた。俺の世界は父上になった」
告げられる言葉に、ロルブルーミアはぎゅっと手を握った。
リファイアードの言葉に触発されるように、記憶がよみがえって圧倒される。気持ちがあふれて、こぼれていくようだった。
暗闇に閉ざされた世界に光が差し込む。何もかもが暗く塗りつぶされた世界が、確かな輪郭を描いていく。その瞬間を知っていた。
全てが恐ろしくてたまらなくて、何もかもを拒絶していたロルブルーミアを抱きしめてくれた。あたたかくて力強い父親の腕が、ロルブルーミアを世界につなぎとめた。
あの時から、ロルブルーミアにとっての世界は父親のいる場所だった。大事にして、守ってくれる家族のいる場所だった。
そうだわ、と思う。同じ経験を何一つしていないのに、わかってしまう。
「――ええ、そうよ。わたくしの世界は、お父さまだわ」
うわごとのようにつぶやくと、リファイアードがこくりとうなずく。静かな目をして、奥底に真剣さを宿して。
ただしんとした空気は、激情に駆られるような一時の感情ではないからだ。これは奥底に根差した、もっと芯になる感情だからだ。
それを証明するように、リファイアードは静けさをまとって言う。
「そばにいることを厭わず受け入れて、俺に居場所をくれた。どんな時も、俺を見守っていてくれて、決して見捨てなかった」
軍隊の一員として迎え入れるだけでなく、稽古をつけて読み書きを教えた。功績を立てれば手放しで褒めて、危ないことをすれば叱られた。
初めてのものをたくさんくれた。名前をもらった。いつだって名前を呼んでくれた。何も知らない魔族の少年に、降るように何もかもを与えたのだ。
「いつだって、俺の光で道しるべだった。俺がここに生きているわけも、死なずに帰ってくる理由も、全部一つだ。俺が俺として生きていられるのは、父上という光があったからだ」
揺るぎなく告げられた言葉は、リファイアードにとっての絶対の事実だ。
何があってもこれだけは変わらない。自分にとって世界と同義語の、何にも揺らがない決意の言葉だ。
「――ええ、そうね。そうだわ。わたくしがわたくしでいられるのは、お父さまが――みんながいるからだわ」
ロルブルーミアは、リファイアードの言葉へ静かに同意を返した。
何もかもが暗闇に閉ざされて、世界が恐ろしくてならなかった。あらゆる全てを呪って、恨んでもおかしくはなかった。
しかし、そうはならなかった。
何もかもが覆われる暗闇には、光が差し込んだからだ。全てが塗りつぶされることなく、確かな光があったからだ。
魔王である父親が、兄と姉が、大切に大切にロルブルーミアを抱きしめて、あふれるくらいの愛をくれた。
世界中のどこにもいない母親の分まで、母親から受け取ったものを返すみたいに。大事に愛してくれたのだ。
そうでなければ、きっとここに自分はいない。あの時から、もうずっと心は決まってしまった。
真っ直ぐリファイアードを見つめて、ロルブルーミアは続ける。言いたいことは、伝えたいことは一つだけ。
きっと伝わる、届くはず、と思いながらロルブルーミアは言葉を重ねた。
「わたくしの世界は、たった一つだわ」
静かに告げると、リファイアードは少しだけ息を止めた。
それから、ゆっくり吐き出すのと同時に、困ったような何かを抱きしめるような表情で笑って、そっと言う。
「ええ、そうです。俺の世界も一つだけです。……なんて、言葉だけなら結婚式を控えた婚約者に向けてはふさわしいんですけどね」
婚約者を指して「あなたこそが世界だ」と告げるなら、熱烈な愛の告白だろう。
しかし、実際は違うのだ。自分たちが大事にしたいものは、あくまで家族だったしそれぞれが守りたい国という存在だった。
ロルブルーミアは肩をすくめて答えた。
「そうですわね。実際は、婚約者が一番ではない宣言ですもの。場合によっては火種になりそうですけれど――それは、双方が食い違っている場合でしょう?」
リファイアードとロルブルーミアの言葉は、最優先がお互いではないと告げるものだ。
あくまでも父親であり家族を世界と定めている。何よりも大事な、決して裏切れない存在。
一番に守るべきものは、最優先にすべきものは、伴侶となる目の前の相手ではないのだと、はっきり口にした。
ともすれば、それは争いの発端になるかもしれない。恋愛結婚で結ばれたなら、少なくとも婚約者であり伴侶を第一に考えるべきだというのは、決してそこまで突飛な話でもないはずだ。
ただ、政略結婚という立場では、あくまでも家の利益が一番になるのも当然だ。だから、何一つおかしなことではない。
もっとも普通ならばそれを隠しておくから、こんな風にわざわざ口にすることはしない。わかっていても黙っていることが暗黙の了解であり、礼儀でもあるのだ。
だから、はっきりとした宣言は無礼な行為だろう。礼儀もなっていないと憤られ、眉をひそめられ、激昂されてもおかしくはない。
しかし、ロルブルーミアは首を振った。失礼だと思うはずがないし、争いになるはずもないのだとわかっている。
「わたくしたちは、お互いの大事なものをちゃんと知っていますもの。それを知っていれば、大丈夫だわ。同じものを見ていなくても、同じものを知っているもの」
心から、心からロルブルーミアは言う。
父親や家族を最優先すると宣言するなんて、政略結婚の場では失礼極まりない。常識知らずの愚か者だとそしられても文句は言えないし、まっとうな指摘であることも正しい。
しかし、どうしたって譲れないものがあって、どうしたって心の一番上に来るものは変えられないのだ。
それはどちらか一方だけではなかった。二人そろって同じだった。二人はお互い以外の一番を持っていた。
だからきっと、大丈夫だとロルブルーミアは思っている。お互いに同じものを見ていなくても、分かち合うものは知っている。その事実を誰より強く理解している。それだけで充分だった。
「――そうですね」
リファイアードはロルブルーミアの言葉に、面白そうに笑った。白い歯をこぼして、やわらかく目を細めて。響く声は軽やかで、楽しくてたまらないといった響きをしている。
ロルブルーミアの胸も、つられて弾むようだ。何だかくすぐったくて、同じくらい心地がいい。やわらかなものを抱きしめるような気持ちで、ロルブルーミアも笑みを浮かべる。




