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雪上モンスター

作者: 有馬 千博

どんなに努力をしても、結局は才能なのか?


 見ている者たち全員をねじ伏せたい。

 自分の内側にある檻の中で、そう叫ぶ化け物が暴れるのをどうにか抑えさせるにはどうしたら良いのやら。


 そんなことを考えながら、栗原由紀菜は自分のスキー板のワックスがけをしていた。

 冷え切ったロッカールームで、とろっと溶けたワックスを板にかけていく。この時間は由紀菜にとって貴重な時間だ。


 滑っているときにはできないし、リフトやゴンドラで移動している時は、同期たちの話で思考する時間を妨げられてしまう。

 反省会をこの時間でしっかり反省して、改善点を考え込むことで、明日への滑りに活かせるのだ。


 大学生活で基礎スキーにかけられる時間は、二年生の今シーズンを終えると、本格的にのめりこめるのは、四年生の冬で最後だ。


 三年は就活でスキーどころではないかもしれない。雪山から離れる時間が長くなってしまうことに、今から心のどこかで焦っている気も否めない。

 溶けたワックスをアイロンでゆっくり伸ばしていく。独特の香りがロッカールームに広がる。


 バイトをして、貯めて買ったスキー板はシーズン中ずっと乗っているせいか、ところどころ傷ついてしまっていた。だが、由紀菜にとってはこれまで雪上で共に練習を重ねてきた相棒だ。


 基礎スキーとは、雪上の芸術家ではないか、と由紀菜は常々考えている。


 完璧なシュプールを描くためには、雪上トレーニングだけが重要ではない。

 筋トレや体力トレーニングだって重要だ。


 冬のトレーニングに向けた練習は体育会所属の陸上部やサッカー部のような陸上トレーニングが1年のほとんどを占めている。


 そこでの練習を疎かにすればシーズン中の大会の結果に直結してしまう。


 つまり、決して才能やセンスで滑るものではない。雪上での己との戦いである。由紀菜はそう考えている。


 しかし、中には。


「そうは言っても、結局はセンスじゃない」

 と宣う同期もいるわけで。


 由紀菜にとっての集中時間をやや削る形で、鼻歌を歌いながらワックスがけをしている。そして残念なことに、この同期は空気を読むタイプではないというのが、今の由紀菜にとって運が悪い出来事である。


 明日はいよいよシーズン最後の大会。


 その前夜にあたる今は部員それぞれストレッチや板のメンテに余念がない。中には、明日の気温や天候に応じてワックスの種類を変える人もいる。それは由紀菜も例外ではない。

 傷ついている相棒の板をいたわるように優しく撫でるようにアイロンをかけていく。

 夕方までみっちり滑ったし、この冷え切ったロッカールームに置いていたせいか、再び垂らしたワックスは冷え切った板の上にじゅっと音を立て落ちた。


「明日の試合、終わったら何食べようかな。やっぱりカレー? それともラーメン? あ、でもでもその前にお土産探さなくちゃかな」 


 由紀菜が丁寧にワックスをかけていると、隣で同じくワックスをかけている同期がたわいもない話を続けてきた。


 大会は個人戦がメインとなるため、お互いが仲間であり、ライバル。大会前日の宿内はどうしたってピリピリした雰囲気が漂う。


 ロッカールームも例外の場所ではないにも関わらず由紀菜にのんびりとした声でかけてきたのは、部の中でも常に決戦に出場し、上位を狙うことができる同期。ちらっと横顔見る限り、緊張している様子すらない。


 どんな天候でも、荒れたコースでも常にマイペース。


 この子が調子を崩すとしたら、観客が少ないだの、コースが狭いだのと言った妙なところである。

 大会で上位の成績を残すことができれば、来年の部費が増額される。


 逆に成績が悪ければ減額されるだけあり、部の目標は常に優勝。今シーズンの部としての成績は悪くない。明日からの大会でも優秀な成績を残すことができれば、増額は間違いない。

 そうすれば、来年予算で苦しむことも減るかもしれない。そうすれば合宿だってできなくなるかもしれない。


 いつだって試合は負けられないのだ。


「やっぱり、陸トレいらなくない? 由紀菜もそう思うよね、やっぱりセンスだって」

「そうかな」


 一周回って話が戻ったようだ。

 同期の理解できない論理に多少のいら立ちを覚えた。


 苛立ちを隠すように、由紀菜はいつもよりも早めにアイロンを終えて、電源を切った。

 メーカー名が印刷された滑走面はメンテされたおかげか、ピカピカだ。

 きれいにした相棒を丁寧に壁に立てかける。あとは明日の朝にワックスを剥がすだけで良い。


「どんだけ陸トレをしたって、結局は滑りが全て。筋トレは必要かもしれないけれど、正直ランニングとかいらなくない? ね、由紀菜」


 まだ話は続いていたらしい。由紀菜は軽くため息を吐いてから答える。


「待機中の体力とか、練習を重ねるための体力は必要でしょ」

「あったまかたーい。結局はモチベだけでしょ、試合で必要なのは」


 どうして神様というのは意地悪なのだろうか。


 由紀菜はぐっと拳を握った。

 どれだけ陸トレをしても、どれだけまじめに滑っても、結果は努力に比例して良くはならない。

 相手に苛立ちがバレないようにアイロンやワックスをマイバッグの中に片付けながら、振り返って、同期を見た。


 話こそ緩くて適当なくせに、板のメンテには由紀菜以上に丁寧で、時間も由紀菜よりも時間かけているところを見ると、道具に対しては愛着があるのかもしれない。

 試合の結果に頓着がなくて、練習も適当で、それでも入賞は常にしている。そんな同期を見ていると、自分の努力が無駄に思えてくる。

 自分の中に澱んだ気持ちが波打った気がした。


 正直羨ましい。


 自分にもこの子と同じくらいの才能があればと思ったことは一度や二度ではない。


 結果を突きつけられるたびに、自分の平凡さを突きつけられる。自分の中の化け物に頭を悩ませている暇もないし、相手を羨ましがったところで上達するわけではない。


 でも、頭の中で割り切ろうとしても、無理だ。

 どうにかもどかしさを拭いさせたくて、由紀菜はひたすら滑るしかない。


 できるまでやれば、きっとできるようになる。


 祖父が教えてくれた言葉だ。その言葉をお守りのように抱えて、突如自分の中に現れる化け物をできるだけ飼いならせるように、由紀菜は日々のトレーニングも滑りも手を抜かないでいる。


「明日の天気は晴れかぁ。日焼け止め大量消費デーだねぇ」

「先にあがるね」


 適当なところで会話を切り上げて、由紀菜はロッカールームを後にした。

 合宿所としてお邪魔している民宿の部屋のあちこちでは談笑が聞こえくる。他のチームメイトもきっとストレッチをしながら、くだらない話をしているのかもしれない。

 なんとなく、部屋に戻るのが嫌になった。


 結局は才能やセンス。

 化け物を飼いならすのもそれが同じように必要なのかもしれない。


 頭にこびりついてしまったものを否定できない自分に腹を立て、由紀菜は玄関にあったスリッパを足に乱暴に突っ込み、外に出た。今は頭をとにかく冷やしたい。

 肌に突き刺さるような冷たい空気に思わず首がすくんだ。


 しまった。

 ジャージで出てくるものではなかった。


 それでもこのイライラとモヤモヤを抱えたまま中に戻って、防寒対策した上で、もう一度外に出るのも億劫だ。


 ふと空を見ると雲に覆い隠されているからか、月も星も見えない。ただ雪が静かに舞い落ち続けている。一粒一粒の雪の大きさを見ると、この分だと明日は新雪の上を滑ることになりそうだった。


 朝一番で山頂から雲海でも見て、何のしがらみもないまま一番下まで滑走したらどんなに気持ちが良いだろうか。

 でも明日は試合だ。そんな時間は無いから諦めるしかないか。


 手をこすり合わせながら、宿の入り口脇にヤンキー座りで、ぼんやりと宿の前の道を見る。

 道にはまだ轍があった。このままの雪の降り方ではもしかしたらあまり積もらないかも。

 少しは楽に滑ることができるだろうか。

 そう考えたところで由紀菜にとって新雪だろうと、整備されたコースだろうとやることは変わらないことに気づいた。

 ただ勝てば良いのだ。最高の成績を叩き出せば良いだけだ。


 大きく息を吐いて、そう頭を切り替えた。

 少しはイライラが減り、部屋に戻る余裕も出てきたところでゆっくりと立ち上がると、ふわりと漂ってきた煙草の香りが鼻腔をくすぐった。


「あー、やってられん」


 続いて聞こえてきた言葉に驚き、慌てて煙の先を見ると紫煙を燻らせている虎太郎先輩が由紀菜と先ほどの同じようにヤンキー座りでいた。

 違うのは煙草を吸っているくらいだろうか。いったいいつからいたんだろ。モヤモヤしすぎてて、周りを見る余裕すらなかった。


「お、お疲れ様です」


 やや上ずった声で虎太郎先輩に声をかける。

 モヤモヤしたまま乱暴に扉を開けて出てきたのを見られたかと思うと気まずい。


「おぅ。由紀菜か。お前もやってられんくなったか?」


 けけけっと独特な笑いと関西弁で話しかけて来る虎太郎先輩は、部でも珍しい関西出身者。ニカッと白い歯を見せて笑う虎太郎先輩を見て、少しだけ目を反らし気味に頷く。


「珍しいな。いつも真面目な由紀菜がそないなことを思うなんて」


 首を傾げた虎太郎先輩は、ポケット灰皿を取り出し、押し付けて火を消す。

 ヘビースモーカーではないが、たまに煙草の香りを漂わせていることがある。もしかしたらストレス発散のための喫煙なのかもしれない。


 プリン頭の金髪にやや釣り目。ウェアも派手な色を好む。


 見た目こそチャラ男だが、こう見えても副部長であり、優秀な選手でもある。ついでに学業でも成績優秀らしい。同じ学部ではないので、それが本当かは定かではないが。

 入部当初見た目と中身のギャップに驚いたのが既に懐かしい。

 今は三年生なのに、唯一今シーズン参加しているが、就活は大丈夫なのだろうかと後輩心に思ってしまう。


「いつも真面目で疲れんか?」

「……いえ」


 由紀菜は真面目の代名詞と昔から揶揄されてきている。だが真面目にしていて何が悪い。きっちりやること、ルールから逸脱しないこと。その延長に結果が生まれるはずである。

 眉根をきゅっと寄せながら、何気なく足元を見る。スリッパで出てきてはいるが、スキーソックスをはいているおかげか、まだ寒さはしのげそうだ。


「俺はそろそろしんどくなった」


 独り言なのか、聞かされているのかわからない。落ち込んでいるわけでも、疲れているわけでもない虎太郎先輩の声は、白い息と共に消えた。

 曖昧に首をかしげて、虎太郎先輩を見た。スキーウェアにスニーカー。防寒対策ばっちりで、外で煙草を吸っているいったいどのくらいの時間ここにいたのだろうか。

 虎太郎先輩は煙草の箱を弄びながら、ただじっと前を見ていた。

 その目には雪が降り積もる様子しか見ていないはずなのに、何故か既に試合会場にでもいるかのような目つきに見えた。1年の時に虎太郎先輩のサポートで付いた時に見た目と同じように思える。


 もしかしたら、この人は既に試合会場に、いや、もう試合の真っただ中なのかもしれない。


 普段飄々としているのに、練習の手は抜かない。誰よりも基礎スキーに対して真摯な人なのだ、この人は。だからこそ、辛い、という言葉が聞こえてきたのが意外だった。

 今日の練習は各々調整できるようにフリーだったはず。試合で緊張している後輩たちに声をかけたり、アドバイスをしている姿をスキー場でよく見た。もしかしたらあまり滑っていなくて、調整不足なのかもしれない。

 妙な心配にかられ、由紀菜は虎太郎先輩になんて声をかけたら良いか悩んだが、口から出た言葉は違った。


「あ、明日で今シーズンの試合は最後ですね」


 しまった。こんなことを言うつもりはなかったのに。口から出た言葉を取り消せずにいると、由紀菜を横目に見た虎太郎先輩はふうっと長く息を吐いた。


「それは、まぁ、そうなんやけどね。でも、試合はしんどいなって」

「それは……どういう意味ですか?」

「全部丸裸にされるやんか。これまで積み重ねてきた練習量も、内容も、時間も全部。ちょっとでも足りひんとあっという間に突き落とされるし。それがしんどいなって」


 ははっと軽く笑った虎太郎先輩の目だけが笑っていなかった。

 この人のこういうところが苦手だけど、実は現実から決して目を反らさないところが尊敬できる。

 そう思っているのは、もしかしたら由紀菜だけかもしれないが。


「ここで愚痴っていてもしゃあないな。よし、ココは願掛けのワックスがけでもしとこかな」

「あのっ」


 なんとなく、だ。


 なんとなく虎太郎先輩とまだ話していたくて、立ち上がろうとした虎太郎先輩に由紀菜は思わず声をかけた。虎太郎先輩のいつものつり目が少しだけ丸くなる。


「ん?」


 人懐っこそうな笑みで由紀菜を見る虎太郎先輩にパクパクと口を何度か閉じたり開けたりしてから言う。


「あの、大したことじゃないですけど、基礎スキーって、センスが全てだって思いますか?」


 何を突拍子もないことを。訊いた自分が恥ずかしい。さっと耳が熱くなるのを感じる。


「どないしたん、急に」

「い、いや、なんとなく急に思ったので」

「センス、ねぇ」


 首をかしげながら、虎太郎先輩は由紀菜を見てきた。まっすぐに見てくるつり目に気圧されそうになるが、由紀菜は目を反らさなかった。

 この練習の鬼とも言える人がどんな答えを出すのかが気になった。


「俺の考えやけど」


 そう一言前置いてから、虎太郎先輩はまっすぐ由紀菜を見たまま答える。


「才能とかセンスって言葉を使う奴は、たいてい思考停止している奴らやないかな。俺は、というか由紀菜もそうやないやろ」


 言われている言葉が上手く呑み込めなくて、由紀菜は肯定できなかった。


「俺や由紀菜は常に考えてるやろ。練習内容が合っているのか、とか。そういう頭使うてるやつはな、試合で化けるんや」

「化ける、んですか?」

「そや。化ける。雪上の化け物に」


 雪上の化け物? なんだろ、それ。


 この人、時々言葉のチョイスが独特なところあるんだよな。でも、虎太郎先輩が言わんとしていることは、感覚的に理解できる。それが言語化できないのが、もどかしい。


「俺たちは雪上の化け物になれるんは、その思考を止めへんことによる副産物や」

「えっと」

「このコースは自分ので、今支配しているのは自分や、他はひれ伏せっていう、アレ」


 ある。間違いなく。

 滑走開始の合図の前の一瞬の静けさ。

 頬に当たる冷たい空気と、刺さる視線。

 全てを黙らせる滑りをしたいと、自分の内に秘めた怪物が暴れだす何かを無理やり抑え込む、あの感じ。

 あれは自分だけではなかったのだ。


「あるやろ、あれを手なずけられたらどんなに最高やっていっつも思うねんけど、うまくいかへんのがもどかしいよな?」


 興奮しているのか、虎太郎先輩の声はいつもよりも上ずっている。本人がぐしゃっと煙草の箱を握りつぶしていることに気づいているのかはわからないが。


「あれをな、手なずけることができた時、最高なんや。そんでもって最高の結果が出る。だから、やめられへんのや、基礎スキーは」


 恍惚と言う虎太郎先輩は、何かに魅入られてしまっているように見えた。これがこの人の中にいる化け物なのかもしれない。

 ごくりと喉を鳴らして、由紀菜は思わずギュッと拳を握った。


「……最高、なんですか」

「なんや、まだその領域やないんか。寂しいなぁ。はよ、こっち側に入ったらええのに」


 ニヤッと口角をあげる虎太郎先輩に思わず見惚れた。

 何を言っているのか少しわからないけど、ほんの少しだけわかる。この人は化け物で、その宴に由紀菜を混ぜようとしてきているのかもしれない。

 ふふっと思わず笑いがこぼれた。由紀菜のその様子に虎太郎先輩は目を丸くしたと思ったら、ふっと口元を緩めた。


「笑えるとるやん、自分」

「え?」


 指摘されたのが、急に恥ずかしくなり由紀菜はさっと口元を手で覆い隠す。喉の奥で笑ってから、虎太郎先輩は両手で眉間に皺を寄せて、小難しい顔をして見せた。


「合宿からこっち、こないな感じの怖い顔してて、なんやつまらんのと違うかと思ってしまってたわ」

「それはっ」


 化け物を飼いならすことも練習が思うようにいかず、大会の成績も上げられないことに悩んでいたんです。と正直に言うのが難しく、言葉を飲み込んだ。


「でも、滑ってるときの由紀菜は、やっぱり化け物やんなって思っとったから、自分同類やって勘違いしたんかと」


 虎太郎先輩の言葉に耳を疑った。この先輩からそんな言葉が出て来るとは。


「化け物、ですか」


 次に虎太郎先輩が言葉を紡ぐ前に思わず訊いた。自分がそうなっているなんて、微塵も感じたことが無かった。毎回飼いならすのに必死なのに。


「せや。自分が滑っている時は、全員ねじ伏せさせたるって感じでガンガン滑ってるで」


 何が面白いのかわからないが、興味深そうな目で由紀菜を見て来る虎太郎先輩。由紀菜は目を丸くせざるを得なかった。

 知らなかった。いつも自分の滑りのことで精一杯だったがために、周りにどう見られているかなんて考えたこともなかった。


「気づかなかったです」

「まじで? そか。なら明日は大丈夫やんな」


 今の返事でどうしてその言葉に繋がるか、由紀菜は理解できなかった。

 腰を伸ばしながら立ち上がった虎太郎先輩は、由紀菜を見下ろした。口は笑っているのに、目は笑っていない。その目の奥は炎がたぎっているかのように見える。どこか狂気じみたその顔に由紀菜は少しだけ震えた。


「化け物になったら、強いで」


 それだけ言い残して、虎太郎先輩は宿の中に戻って行った。一人ぼっちになったその場で、由紀菜はただ虎太郎先輩の言葉を頭の中で反芻させた。何故だか、今頭の中から一言もこぼしたくない気がした。

 由紀菜がいないことを心配したルームメイトが、由紀菜を見つけたのはそれから十分後のことだった。


 翌日は、これまでにないくらいの快晴だった。

 由紀菜はただじっと試合会場となったゲレンデを見あげていた。

 昨晩降っていた雪も明け方には止み、新雪は圧雪され、コースとしてきれいに整えられていた。今日は男女ともに個人戦初戦。この初戦を勝ち抜くことができれば、明日は決戦が待っている。


 女子の登録選手数は百を軽く上回り、男子に比べると少ないが、決戦には上位十名しか行けない。名だたる大学に所属する学生たちが、しのぎを削り、己の技術を見せつける。

 そんな雪上の舞台を前に、由紀菜はいつもと違ったことを感じていた。

 いつもであれば、練習以上のことを発揮することは難しいし、練習でできたことをきっちりやるだけと考える。

 しかし、今日だけは何故か全員をねじ伏せてやると、やや凶暴な考えが頭の中を占めていた。


 もしかしなくても、昨晩虎太郎先輩とそんなことを話していたからかもしれない。


 スキー板を抱え直して、指定されたコースに繋がるリフト乗り場に向かう。前にも後ろにもゼッケンをつける女子選手ばかりだ。それもそのはず、男子選手は登録数がかなりいるため、他のコースで朝早くから試合が始まっていた。耳をすませば遠くの方から応援団の声が聞こえてきた。スキー初心者の一年生たちがきっと大声で応援しているに違いない。


「由紀菜先輩、緊張してないですか? マッサージしましょうか?」


 サポートについてくれている後輩が少し青白い顔をしながら隣にいてくれる。サポートの方が緊張しているのも妙な話だ。


「大丈夫、ありがとう」


 本当は和ませられるような話ができたら良いけど、生憎と由紀菜はそこまで器用じゃない。後輩も由紀菜のことを少しはわかってくれているらしく、頷くとキョロキョロと落ち着きなく辺りを見た。


「これだけ多い中で勝たないといけないとか、難しいですね」

「……そうだね。でも、練習は嘘をつかないと……言えないか」

「言えないんですか?」


 不思議そうに由紀菜を見てきた後輩は驚いた様子だった。


「色々条件があるからね、順番とかその時の天気とか、コースの荒れ具合とか」

「そっか、そうですよね」


 納得顔で頷く後輩。由紀菜も一年の頃はこうやって先輩の話を素直に聞いていたかもしれない。

 でも、今は違う。


「でも、化け物には気を付けて」


 思ってもいなかったであろう由紀菜の言葉に、後輩は目を丸くしていた。


「え? はぁ……はい」


 わかっているのか、わかっていないのか曖昧な返事をする後輩に苦笑しながら、リフトに乗る。リフトの上ではたわいもない話をすることもなく、ただじっとコースをリフトから見下ろしていた。

 天候は悪くない。ワックスも今朝きれいにはがした。コースもまだ序盤だからか荒れてはいない。


 滑走前の状態としては、申し分ない。


 数分ほどリフトを乗ると、降り場が見えてきた。案の定待機中の選手たちで出口は埋め尽くされている。


 無理もない。

 別のコースに逃げられるような道もないし、何より今降りることができても、また上がってくるまでにどのくらいの時間がかかるかわからない。途中でリフトが止まるかもしれないし、そもそもリフトに乗るまでに混むかもしれない。そう考えると、選手たちはここで待機するほかないのだ。


「先輩の番、もうすぐですね」

「そうだね」

「が、頑張ってください」


 震える声でそう伝えてくれた後輩に礼を言い、由紀菜は待機列に並ぶ。一人、また一人と選手が滑走していく様子を見る。どこが滑りにくくなっていて、どこが滑りやすくなっていくのか。コースは一人滑るごとに変化していく。その変化を的確にとらえ、理想のシュプールを描けるかで点数は決まる。

 今日はどう滑るかをなぜか悩まずにいられた。目の前では刻一刻とコースが荒れていくのに、そんなのは無関係だと頭の中で誰かが叫んでいる。


 どうにか自分の中の怪物をなだめながらいると、由紀菜の番号がコールされた。

 手を挙げて、コールに応えて、スタート地点に向けて軽く滑り出す。

 ファイトですっとコース外から後輩の応援が聞こえる。軽く拳を突き上げて、応援に答えてから、一つ深呼吸をする。


 スルスルとゆっくりスタート位置まで移動し終えると、コースをじっくり観察した。

 思っていたよりも斜面がきつく、コースが荒れてしまっている。だが、不思議と不安はない。むしろ早く滑りたくて仕方がなかった。


 ぐっと体を反らして、ストックを体の後ろで何回か鳴らす。いつものルーティンだ。応援の声も、さっきまでうるさかった鼓動の音も、誰かの叫び声も、もう聞こえなくなった。


 いい感じに集中できている。

 それに今日はすこぶる調子が良いようだ。

 コースの荒れ具合が細部までわかる。

 早く、滑走合図をくれないだろうか。


 頭はきりっと冷えた空気で冷やされているのに、体の中が燃えるように熱い。

 ああ、今すぐにでも、この場にいる全員を黙らせる滑りをしたい。

 その時、自分の中にいた化け物が、由紀菜を喰った気がした。


 それは、自分が化け物になった瞬間でもあった。


 耳に滑走合図の音が届いた。


 由紀菜は自身の中にいる化け物と共に、スタートラインを切って滑り出した。


基礎スキーに少しでも興味を持ってもらえたら、幸いです。

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