第1話:ブラック企業脱出の果ては、異世界の求人広告でした
「……もう、無理だ」
蛍光灯が明滅する深夜のオフィス。積み上げられた資料の山に埋もれながら、俺、佐藤健一、三十五歳は、乾いた声で呟いた。手元のパソコン画面には、明日提出(という名の今日提出)の企画書が白紙のまま表示されている。目の下には隈が深く刻まれ、胃はキリキリと痛みを訴えて久しい。
いわゆるブラック企業。月平均残業時間150時間超え。休日出勤は当たり前。パワハラ上司からの罵声シャワー。それでも「ここで辞めたら負けだ」なんて意地だけでしがみついてきたけれど、体と心が悲鳴を上げているのは明らかだった。視界が霞み、指先が震える。ああ、これ、マジでやばいやつだ。
プツン、と。心の何かが切れる音がした。
俺は勢いよく立ち上がり、震える手で退職届を殴り書きした。そして、それを放心状態の上司のデスクに叩きつけ、鞄一つで会社を飛び出した。
「はは……やっちまった……」
深夜の街をふらふらと歩きながら、解放感と同時に猛烈な不安が押し寄せる。貯金は雀の涙。再就職先のアテもない。三十五歳、スキルなし(あるのは社畜根性くらいだ)、独身。詰んでる。完全に人生詰んでる。
自嘲気味に笑いながら、安アパートへの道を歩く。スマートフォンの画面を漫然と眺めていると、ふと奇妙なバナー広告が目に留まった。
『急募! 家庭教師募集! 住み込み可、高待遇保証! 未経験者歓迎!』
よくある怪しげな広告だ。だが、その下に書かれた勤務地を見て、俺は思わず眉をひそめた。
『勤務地:アストリア王国 グラハム伯爵領』
……アストリア王国? グラハム伯爵領? なんだそれ、どこの国の話だ? それとも、どこかのテーマパークか何かの冗談か?
だが、過労と自暴自棄で正常な判断能力を失っていた俺は、妙な引力に導かれるように、その広告をタップしてしまった。表示されたのは、古風な羊皮紙のようなデザインの応募フォーム。
「どうせ嘘だろうけど……面白半分、応募してみるか」
名前、年齢、簡単な職務経歴(『業務改善』が得意です、と適当に書いた)、そして『異世界での仕事に興味がありますか?』という謎の質問に『はい』とチェックを入れて、送信ボタンを押した。
その瞬間。
「――!?」
目の前が真っ白な光に包まれた。体が宙に浮くような、あるいは奈落に落ちていくような、奇妙な感覚。意識が遠のいていく。
ブラックアウト。
次に意識が戻った時、俺は硬い石畳の上に倒れていた。
「……いっ……」
体を起こすと、全身が軋むように痛む。見慣れたアスファルトではなく、苔むした石畳。周囲には、レンガ造りの古風な建物が立ち並び、空には見たこともない大きさの二つの月が浮かんでいた。道行く人々は、まるで映画のセットから抜け出してきたような、中世ヨーロッパ風の服装をしている。馬車が土埃を上げて走り去っていく。
「……は? え? ここ、どこ?」
状況が全く理解できない。夢か? それとも、過労でついに幻覚を見始めたのか?
「お待ちしておりました、サトウ・ケンイチ様」
不意に、背後から落ち着いた声がかけられた。振り返ると、そこには燕尾服をきっちりと着こなした、白髪の老紳士が立っていた。その佇まいは、執事、と呼ぶのがしっくりくる。
「あなたが、グラハム伯爵家が募集した家庭教師の方でございますね? 長旅、お疲れ様でございました。ささ、馬車へどうぞ」
「は、はあ……?」
グラハム伯爵? 家庭教師? やっぱりあの広告は本物だったのか!? いや、それよりも、ここは一体……?
混乱する俺をよそに、老執事――セバスと名乗った――は恭しく俺を立派な紋章が描かれた馬車へと案内した。馬車に揺られながら窓の外を眺めると、どこまでも続く豊かな緑の平原、遠くに見える雄大な山々、そして、時折空を横切る巨大な鳥のような影……。明らかに、俺の知っている日本の風景ではなかった。
「あの……セバスさん。ここは、本当に……?」
「はい、アストリア王国にございます。ケンイチ様がこれからお仕えになるグラハム伯爵様は、この辺境の地を治めておられます」
アストリア王国。辺境。伯爵。
どうやら俺は、本当に異世界に来てしまったらしい。ブラック企業から逃げ出した果てが、異世界転職って……どんなラノベだよ。
馬車に揺られること数時間。俺は立派だが、どことなく古びた印象のある城館――グラハム伯爵邸に到着した。
通された応接室で待っていると、人の良さそうな中年夫婦が入ってきた。彼らがグラハム伯爵夫妻だった。
「遠路はるばるようこそ、サトウ・ケンイチ殿。私が当主のアルフレッド・グラハム。こちらが妻のイザベラです」
「お待ちしておりましたわ、ケンイチ先生」
温和な笑顔で迎えられたが、俺の心はまだ混乱していた。とりあえず、当たり障りのない挨拶を返す。
伯爵夫妻の話によると、俺の仕事は、彼らの三人の娘たちの家庭教師を務めることだという。
「実は……娘たちには少々、問題を抱えておりましてな」
アルフレッド伯爵が、困ったように眉を下げる。
「長女のエレノアは、魔法の才能はあるはずなのに、なぜか全く魔法が使えないのです」
「次女のブリジットは、剣術の才能はあるのですが、型にはまった訓練が嫌いで一向に上達せず……」
「三女のクロエは、好奇心旺盛なのは良いのですが、何事も長続きしなくて……」
イザベラ夫人が、心配そうに付け加える。
要するに、三姉妹揃って「落ちこぼれ」ということらしい。辺境とはいえ貴族の令嬢。将来のためにも、しっかりとした教育を受けさせたいが、これまでの家庭教師は皆、匙を投げてしまったのだとか。
「そこで、異世界からの知識を持つというケンイチ殿に、何か新しい視点での教育をお願いできないかと思いましてな。あの奇妙な求人を出したのは、藁にもすがる思いだったのです」
なるほど。事情は分かった。だが、俺はただの元・社畜だぞ? 教育経験なんてないし、ましてや魔法や剣術なんてさっぱりだ。
「期待に沿えるか分かりませんが……」
弱気な返事をしかけた、その時。
ピコン、と。頭の中に、妙な感覚が走った。まるで、新しいソフトウェアがインストールされたような。
『スキル【業務改善】が有効化されました』
は? スキル? カイゼン?
なんだこれ、ゲームか? いや、前世で俺が散々やらされてきた、あの「カイゼン」のことか? 問題点を見つけ出し、分析し、効率化を図る、あの忌々しい……いや、ある意味では得意だった、あの能力が?
『対象:エレノア・グラハム。問題点:魔力制御への潜在的恐怖、成功体験の欠如、自己肯定感の低さ。改善提案:段階的スモールステップによる成功体験の積み重ね、メンタルケアによる自信回復、彼女の特性(記憶力)を活かした学習アプローチの導入……』
『対象:ブリジット・グラハム。問題点:基礎訓練への抵抗感、モチベーションの欠如、実戦経験不足。改善提案:ゲーム要素を取り入れた訓練、競争意欲を刺激する目標設定、実践形式での指導……』
『対象:クロエ・グラハム。問題点:集中力の持続困難、興味の拡散。改善提案:ポモドーロ・テクニック応用による短時間集中学習、多様な教材による興味喚起、知識の体系化サポート……』
……なんだこれ。勝手に、問題点と改善策が頭の中に流れ込んでくるぞ。まるで、前世で不良在庫の山や、非効率な業務プロセスを分析していた時みたいに。
これが、俺の異世界での「スキル」?
……地味だな! もっとこう、ファイアーボールとか、聖剣召喚とかじゃないのかよ!
だが、同時に妙な感覚もあった。
目の前にある「問題」に対して、どうすれば「改善」できるか、その道筋が見える。それは、前世のブラック企業で、理不尽な要求に応えるために磨き続けた、俺の唯一の武器だった。
「……分かりました」
俺は、思わず口を開いていた。
「微力ながら、お嬢様方の教育、お引き受けいたします。私なりのやり方で、全力で『改善』に取り組ませていただきます」
伯爵夫妻が、ぱあっと顔を輝かせた。
「おお、本当ですか! ありがとうございます!」
「ケンイチ先生、どうぞよろしくお願いしますわ!」
こうして、俺の異世界での新しい仕事が始まった。
元・社畜、三十五歳。転職先は、辺境伯爵家の家庭教師。教え子は、落ちこぼれと噂の三姉妹。与えられた武器は、地味すぎる【業務改善】スキル。
正直、不安しかない。だが、あの地獄のようなブラック企業に比べれば、どんな環境だってマシに思える。それに……。
(このスキル、もしかしたら、魔法教育にも応用できる……のか?)
頭の中に浮かんだ改善案の数々を反芻しながら、俺はこれから出会うであろう三人の教え子たちに、ほんの少しだけ、期待を抱き始めていた。
まずは、現状把握と目標設定からだな。カイゼンの基本だ。
俺の異世界ライフ、果たして「ホワイト」なものになるだろうか?
(第1話 了)