芸術祭
寒くなってきた十一月の初旬、国橋音大の芸術祭に出かけた。何かの出し物に参加する訳もなく、一人でただ行って、見るだけ。
当日、大学に着いてから芸術祭のパンフレットを入手した。配布している出店の周りに未来ちゃんと綾乃ちゃんが作業しているのが見える。やっぱり芸術祭の肌実行委員を頑張ってるんだなぁ、と思った。
芸術祭のスケジュールを確認する。コンチェルトがオーケストラと共演する演奏会はいつなのか、真っ先に探した。それを聴くのが一番の目的だった。オーディションに選抜された学生が独奏者として、くにはしオーケストラと共演するコンサート。
(四日のお昼三時からか……)
十一月四日は芸術祭の三日目。明後日で、最終日にあたる。
(今日は昼過ぎくらいまでで帰るか)
出店を眺めながら構内をゆっくり歩いていたら、屋外にステージを組んで合唱しているのが見えた。
「それじゃあ、聴いてください!!」
明るくてノリのいい司会が、伸びのいい女声で聞こえてくる。
どこもかしこも女性が前面に立っているなぁと一瞬思ったけど、音大の学生は圧倒的に男性より女性が多いんだから当たり前じゃないか、と思い直した。
合唱を路上ライブのようにパフォーマンスして盛り上がっている演出が近づいて、足を止めて観客の人混みに入った。私は小柄で背が高くないけど、仮設ステージのようなものが組んであるから、立ち見でもちゃんと見える。ちょうどその時、合唱団は大塚愛の『プラネタリウム』を歌っていた。
行きたいよ、君のところへ……
歌詞が沁みる。暖かいパフォーマンスに耳を傾けていると何だか切なくなってきた。足を止めていると肌寒くもある。そこで一曲だけ聴き終えると、人混みから抜け出してそのまま帰途についた。
最終日の三日目、お昼過ぎに講堂大ホールへ直接向かった。協奏曲の演奏会を聴くために。
ホールのエントランスに入ってすぐプログラムを手に取って、歩きながら曲目に目を通した。ブラームス作曲のヴァイオリン協奏曲第一楽章、ウェーバー作曲のクラリネット協奏曲第一番第三楽章、休憩を挟んでベートーヴェン作曲のピアノ協奏曲第四番第一楽章。ブラームスのこの曲は好きだし、ベートーヴェンのこの曲はよく分かる。ウェーバーのこの曲は知らない。ソリストは全員、学部の学生みたいだけど、知らない人ばかりだった。
観客席に入る。いつもならピアノを弾く手が見える位置に座りたくて前方を目指すけれど、今日は後方に座ってみようと思った。せっかくオーケストラを聴けるんだから、ホール全体の音響を感じてみたい。席に座って周りを見渡すと、席はまばらで空きも目立っていた。
定刻の三時になると、楽器を携えたオーケストラの団員たちがステージに現れて、聴衆の暖かい拍手が始まった。続いて、一段と大きな拍手に迎えられてソリストのヴァイオリン奏者が現れる。深紅の細身なドレスを着ていて綺麗。
ステージの真ん中でオーケストラの前に立ち、ヴァイオリン奏者は大きくお辞儀した。その流れで指揮者が現れる。指揮者がオーケストラ側を向いて指揮台に立つと、拍手が止まってホールが数秒、静まり返る。オーケストラが荘厳なブラームスを奏で始めるのを、観客のみんなが固唾を飲んで待つ瞬間。
オーケストラの響きにホールが包まれると、安心して音楽に身を委ねられる。ヴァイオリンの独奏が斬り込むように始まる瞬間をまた心待ちにする。どんなふうに弾き出すのだろうか、堂々と荘厳に格調高く魅せてくれるだろうか、それとも繊細で切なく心のひだに寄り添うように、ダイレクトな哀しみが伝わってくるだろうか。
初めて生演奏で聴けるブラームスのヴァイオリン協奏曲はニ長調で、曲の全体は明るい長調で作られているけれど、ヴァイオリンの独奏はニ短調、暗い短調から開始される。心に強く印象づけられる短調。この出だしが大好きで、心憎いことをしてくれるよなぁ、とブラームスを讃えたくなる。そんな曲を聴ける喜びを味わいながら、ヴァイオリン独奏部を楽しみに待つ。
ヴァイオリンの登場を予告するかのように、オーケストラが大胆にニ短調へ転調する。覚悟して待て、とでも言わんばかりに。聴いているだけの聴衆の一人なのに、身が引き締まる思いになる。一層の緊張感が伝わってくる。
主調のニ長調の主音であり、また転調先のニ短調の主音でもある「レ」。その一音を長く歌って始まるヴァイオリン独奏。ソリストは堂々たるブラームスの世界観を目指しながらも儚さが少しだけ残るような音色で、心を掴んできた。
神経質なヴァイオリンの音色に追い込まれるように冒頭のフレーズが急き立ててきて、それから間もなく夢見るように低音域から高音域まで自由自在にメロディーが歌い上げられる。その時には調性はいつの間にか主調のニ長調へと戻ってきていて、豊かなオーケストラがヴァイオリン独奏にそっと寄り添って進んでいく。ブラームスの荘厳なヴァイオリン協奏曲が作り出す緊迫感と夢心地の空間に浸っていた。
その後には、ウェーバーのクラリネット協奏曲が待っている。今回の演奏会では第三楽章だけが演奏される。
この曲を聴くのは初めてだった。初耳の楽曲を演奏会で鑑賞すると、私はなかなか楽しめないことが多い。事前に何度か聴き込んでおけると、断然楽しさが違ってくるところは正直ある。
ソリストのクラリネット奏者は、ボリューム豊かな黄色のドレスを着て現れた。ブラームスの重厚さとは対照的に、明るくて快活な曲想を思わせるような華やかな衣装。
オーケストラに先立って、軽快でお洒落なクラリネットのフレーズから第三楽章が始まった。すぐにオーケストラがクラリネットのソロに寄り添う。ウェーバーのコンチェルトは踊っているみたいに軽やかで麗しくて、聴いていてウキウキしてくる。さっきまでのブラームスの重厚な緊迫感が打って変わって、ウェーバーの軽妙で洒脱な雰囲気にホールが満たされた。
クラリネットとオーケストラの軽妙な演奏を楽しく味わい、二十分の休憩を挟んだ後には、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番第一楽章が待っている。手元のプログラムを改めて開いた。ソリストの経歴に目がいく。やっぱりピアノ奏者が一番気になる。
“河上美紗。国橋音楽大学ピアノ科三年在学中。これまでに江崎美津子、国仲澄子、辻山聡美に師事。第25回ピティナ・コンペティションピアノ部門東日本地区本選にて優秀賞受賞”
小学生の頃に三回ほど、ピティナのコンクールに出たのを思い出した。当時、師事していた先生の指導方針だった。
私はコンクールがあまり好きじゃなかった。昔すぎてはっきりとは覚えていないけれど、おそらくその気持ちを先生に伝えたこともあったと思う。目標があったほうが励みになるでしょうとか何とか言われて、辞退させてもらえなかったような記憶がうっすらと残っている。
小学五年の時に初めてピティナに出たら地区予選落ちで、通過しない人のなかから選出される予選奨励賞も受けられなかった。その時点でコンクールに全く興味がなくなったと思う。頑張ろうとさえ思わなかった。
中一で三回目に出た時は確か、予選奨励賞を受賞できた。シューベルトの即興曲の作品90ー2を弾いた時……でもやっぱり、予選落ちということには変わりがなかった。
負けることで奮起したり、競争が励みになるようなタイプじゃないんだと思う。……いや、違うかもしれない。あの頃の私にはどうしたって負けが見えていて、嫌になっただけかもしれない。当時は訳も分からず、コンクール挑戦はひたすらつまらなかった。もし出たくないと言ったら怒られるだろうし、先生や親に何だかんだ言われて誘導されるだけだと思って、反抗できなかった。
ベートーヴェンの協奏曲四番をこれから弾く河上美紗先輩は、ピティナの地区本選で優秀賞をとっておられる。全国大会には進出されていないけれど、私にとっては手が届かない雲の上の賞だ。
そんなことをぼんやりと考えていたら、いつのまにか休憩が終わっていた。舞台袖からオーケストラの団員が現れて、みんなの拍手が始まる。ピアノを期待する拍手がいちだんと大きいような気がする。
手元のプログラムで初めて知った河上美紗先輩が、グランドピアノの前まで歩いてきて大きくお辞儀した。モスグリーンのシックなドレスが大人っぽい雰囲気で素敵。
ベートーヴェンのピアノコンチェルト四番は、冒頭からピアノの柔らかい響きで始まる。オーケストラはピアノと対話するように入ってくる。ピアノが問いかけて、オーケストラはそれに答える。ト長調の明るい曲調が爽やかにホールを包み込む。清らかで透きとおっていて、優しい響きだった。
後半に向けて、曲に占めるピアノの比重が大きくなってくる。主役の座を密集した沢山の音が示してくるみたいで、グランドピアノが豊かに鳴らされる。音のボリュームが大きくなってもベートーヴェンの音楽は暖かく優しくて、慈愛が沁みわたってくるようだった。
木陰で休んでいたら、木々のあいだを風が通り抜けていったのかな? 静かな湖畔で、雲の切れ目から光が差し込んできただろうか? 湖のほとりで木々の緑が目に沁みる光景を想像したくなる。ピアノとオーケストラから、新緑の色が聴こえてくるような気がした。
自宅に帰って、ベッドに座ってちょっと休んでからピアノの前に座った。置きっぱなしにしているチャイコンとバッハのパルティータの楽譜を眺めて、ひとつため息をつく。練習していてため息はよく出てしまう。あくびも。
いったん練習はとりやめにして、シマダヤの和風カレーうどんを作ることにする。気持ちがざわついた時は、こういう優しい味のものを食べてホッとしたい。小鍋にお湯を沸かしながらちょっとだけ長ネギを切って、今日の演奏会を思い出した。ブラームスでゾクっとしてウェーバーで楽しくなって、ベートーヴェンで優しく包まれて。オーケストラと共演したソリストはどんな気持ちになったんだろう。ちょっと羨ましくもある。私にもできるかな?
出来上がったカレーうどんを器に盛って、小さな一人用のガラステーブルに置いて、正座で食べる。熱々のカレーうどんが冷えていた身体に沁みて、あったかい。ピアノもいいけど、コンチェルトもいいけど、寒かったなぁ……