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書きかけの博士論文

 チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番は、一楽章だけでも弾き応えが充分大きくて、どっしりした迫力がある。一人で練習しているだけでも、重厚な和音を弾き鳴らす手応えを感じた。レッスンでオーケストラパートと合わせると、豊かに響いて更に気分が高揚した。

 レッスンでは左隣のグランドピアノに座る今本先生にオーケストラパートを弾いてもらって、私が弾くピアノパートと合わせる。二台ピアノ用に編纂された楽譜をコピーでもう一部用意しておいて、レッスンに持参して自分が座るピアノの譜面台に置く。今本先生にはコピー譜ではなく、元の楽譜を渡す。ピアノパートとオーケストラパートは譜面内で上下に配置され、並行して進むように記載されている。だから二冊に分けるのではなくて、合わせる二人ともが両方のパートが載る譜面を見て、一緒に演奏する。

 今本先生は初見しょけんがお得意で、楽譜を一度見ただけですぐに弾けてしまう。弦楽器や管楽器、声楽と合わせるアンサンブルの経験が豊富だからだと思う。パッと譜面を見ただけで難曲を弾きこなしてしまう、今本先生の驚異的な初見力には感嘆するしかなかった。

私はといえば初見は苦手で、パッと見て弾けるのはかなり簡単な譜面だけだった。音の数が少なく、童謡のようにテンポもゆっくりした曲に限られる。丁寧に練習を繰り返して指に覚え込ませ、勝手に指が動くまで仕込んで弾けるようになるタイプということもあって、楽譜を素早く一覧して演奏する初見の回路ができていない。練習しなくても弾けるレベルの曲でないと、初見で弾くことはできない。それは当然の話かもしれないけど「パッと楽譜を見て弾いたらサマになる」という力は明らかに存在していたし、その力には歴然とした差があった。

 それでも今本先生は平然とチャイコン一番のオーケストラパートを弾きこなして驕らず、特に言及もしない。次第に、その特殊な環境に慣れていってしまう。まるで当たり前のような空気に慣れる。でも本来、当たり前の訳がない。難曲を初見で弾ける人なんて、今本先生以外にいないんじゃないかと思う。はっきりと今はそう思う。しかも初見なのに余裕を全く失わず、右隣でピアノパートを弾く私の演奏を注意深く聴いているなんて。

 副科の声楽では毎週、一人の先生に八人の学生がついてグループレッスンを受けていた。バリトンの勝谷かつや恭平きょうへい先生がイタリア歌曲集を中心に、時々日本歌曲やドイツ歌曲リートを探してきて課題を出し、ひととおり歌えるように予習してからレッスンで歌う。日頃は学生全員で声を合わせて歌い、試験の直前は一人ずつ歌って指導を受けた。普段の伴奏は勝谷先生が担当するけれど、夏休み前の試験では、グループで組み合わせを作ってお互いに伴奏し合った。

 国橋音大の先生たちは楽譜を見てパッと弾くのが皆さんお得意で、私は驚いた。勝谷先生にとっては全く初めて見る譜面ではないだろうけれど、それでもピアノ専門ではないのに伴奏をサッと弾きこなせるのは本当にすごい。

 麻衣子先生に伴奏をやっているかと訊かれた時、やっていませんと答えた。でも改めて考えてみると、全くやっていないことはないなぁと思い返す。あの時、副科の声楽を思い出せずにそう答えてしまったのはなぜだろうと考える。音楽の道に迷いなく突き進む麻衣子先生と渡瀬先輩を目の前にして、堂々と言える内容じゃないと萎縮していたのかもしれない。

 チャイコン一番に加えて夏休みの宿題で出されていた、ショパンのエチュードを弾きこなすのもなかなか苦労していた。作品10ー1では右手の分散和音の連続がこれでもかと続く。分散和音で構成された右手の動きは、テンポを上げて速く弾くのに難儀した。どうしてもミスが混じってしまうし、間違えると和音が分かりやすく濁って、目立ってしまう。

 作品10ー12の“革命”のほうが幾分か楽だった。左手が休みなく動き続けるけれど、音階中心なので手に優しい。動きが自然なように感じられた。

 今本先生はこの作品10ー1と10ー12“革命”、そして25ー12“大洋”の三曲を、毎日必ず弾くことにしていると話してくれた。ピアノ技術の水準を落とさないためだと言う。逆に言えばその三曲の演奏レベルを保つことができれば、技術の維持についてはあまり心配いらないらしい。私は25ー12“大洋”を高校の定期試験で弾いたことがあったから、“大洋”は今回の宿題から免除されていた。

 今本先生は当たり前のようにさらっと「毎日弾き続ける」なんて言うけれど、これらのショパンエチュードの演奏レベルを維持していくのは簡単なことじゃないと思った。私には無理だろう、と直感していた。今本先生には言えなかったけれど、私は既にその時“大洋”を弾けなくなっていたのだから。同じ曲をずっと変わらないレベルで弾きこなし続けることは難しい。よほど弾き込んで、時々復習でさらっておかないと、指はどんどん曲を忘れていく。弾けなかった頃にみるみる戻ってしまう。忘れないための練習が必要で、過去に勉強した曲を練習し続けないと、自分の弾ける曲が増えていくことはない。一度は弾けるようになった曲でも忘れてしまう。弾けるようになった曲を維持して、さらに増やしていくのは本当に難しい。いつも課題で出された新しい曲ばかり練習して、それだけでもうキャパオーバー、いっぱいいっぱいになってしまう。

 その日のレッスンが終わって部屋を出て、廊下で隣を歩く渡瀬先輩に何気なくこぼした。

「ショパン、10ー1って難しいですねぇ……分散和音アルペジオ、苦手なんですよね」

「アルペジオと音階は向き不向きがあるよね……僕は10ー1は割と合ってるんだけど、水沢さんは音階向きの手をしてるんだろうね」

「先輩、10ー1が得意なんですか?」

「うん、あれは結構自信あるよ」

「聴いてみたいなぁ」

「あ、聴きたい? じゃあ今度、部屋取る?」

「部屋? どこか取れるんですか?」

「五号館のレッスン室の空きがね、院生だと取れるから」

 国橋音大の五号館はまだ行ったことがなかった。大学院生の講義が多いんだろうか。五号館には普段行く学食とは別にもう一つ食堂がついていて、みんなが五食ごしょくと呼んでいるのは小耳に挟んだことがあった。渡瀬先輩のピアノを聴けるのは嬉しいし、断る理由はなかった。

 その翌々日の夕方四時から、渡瀬先輩が五号館のレッスン室を予約してくれていた。遅刻したくなくて二十分も速く着いてしまった。

一階で待ち合わせの部屋を確認してから、地下の食堂の五食に足を伸ばしてみた。もうこの時間になると食事は出されないみたいだけど、椅子に座って休んでいるグループがちらほら見えて、ゆったりした雰囲気が漂っていた。

 壁に沢山の張り紙が無造作にはってあるのはいつも行く食堂と変わらない。張り紙をざっと眺めた。音楽系サークルの宣伝の張り紙が多いなか、異色の一枚が目に留まった。

“コンチェルトをオーケストラと共演! オーディションは5ー101にて”

 自然と目を惹きつけられて読んでいた。よく読むと、書かれているオーディションの日程はもう終わっていて、古い張り紙だった。十一月に開催される芸術祭で、協奏曲をオーケストラと共演する演奏会があり、オーディションで選抜があるようだった。

(オーディションを受けたらコンチェルトをオーケストラと共演できるチャンスがあったんだ……)

 全然知らなかった。

“16時に5ー224でよろしく”

 メールを確認してから部屋を探して、待ち合わせの二分分くらい前に部屋へ辿り着いた。廊下の長椅子に腰掛けて渡瀬先輩を待った。

 七分ほど遅れて渡瀬先輩が廊下の向こうから小走りで来て、声をかけてくれた。

「水沢さん、ごめんね、遅れて」

「あ、先輩……お疲れさまです」

「お疲れ。ほんとごめんね、さっきまで論文指導で先生につかまっててさ」

「あ、いえいえ……」

 渡瀬先輩がレッスン室の鍵を開けてくれて、中に入るとグランドピアノが二台並んでいた。

「部屋が借りられるんですねぇ」

「二台ピアノの合わせとかにも使えて便利なんだよね」

「あっちの練習室、二台ピアノの部屋は混んでますもんね」

 喋りながら私はパイプ椅子を一つ広げて、ピアノの後ろ側に座った。楽譜の入った重い鞄を床に置く。渡瀬先輩は左側のグランドピアノで上部の蓋を開けて準備すると、その前に座った。

「先輩はピアノの練習、好きなんですか?」

 ふと思いついて訊ねてみた。

「そうだね……練習は好きだよ。一人で色々試して曲を仕上げるのとか、上手くなっていくのが結構楽しい」

「そうなんですね……」

「水沢さんは?」

「私は……練習、あんまり好きじゃないかも」

「でもよく練習してるよね」

「そうですか? うーん、聴いてもらえる時が嬉しいからそのために頑張ってる感じですね」

「聴いてもらう時が嬉しいって、本番でそんなに緊張しない感じ? ……あ、いや、暗譜の不安とかあまりなさそうだから」

「暗譜は結構、得意なんですよね」

「それはいいね。僕は覚えるまでは時間が結構かかるんだけど、最後に不安は残ってないかもな」

「覚えるのは得意なんですけど、弾ける状態をなかなか保てないんですよねぇ」

「弾くチャンスがあったらもう一回さらい直す感じだよね。初めて弾くよりは全然やりやすいし」

「やっぱりさらい直すしかないですよね……あと初見も苦手で、曲を増やすのも遅くて。初見っていうか譜読みが遅いんですよね」

「初見と暗譜だと、得意なタイプが分かれるのかもね。初見が得意な人はレパートリーを増やしていくのも得意だし、暗譜が得意な人は本番が怖くなさそうなイメージあるなぁ」

 こういうとりとめのない話をしているのも、楽しいなぁと思った。

 渡瀬先輩がショパン練習曲10ー1の開始部分をさらっと弾いた。華やかで力強く堂々と広がる曲調。渡瀬先輩は10ー1を途中で止めて、続けて10ー2の開始部分だけを少し弾いた。

 10ー2は地味な曲調だけど、薬指と小指を駆使する技巧は難関を極める。音の粒を揃えるだけで難しい。渡瀬先輩の10ー2は、開始部を聴いただけでも簡潔で正確だった。

「上には上がいるからさ、練習を楽しんでるのが一番、気持ち的にラクなんだよ」

 独り言みたいに渡瀬先輩が呟いた。

「弾いてみる?」

 後ろで座っている私のほうに渡瀬先輩が振り向く。

「……ですね、せっかくですし」

 右側のピアノの蓋を大きく開けて座り、10ー1を弾いてみる。渡瀬先輩とは打鍵の力強さが全然違う。10ー1らしい堂々たる格調が、私には出せていない。

「手を開いたり縮めたりする動きだよねぇ……どれだけ正確に、速くできるか」

 渡瀬先輩が鍵盤の上で、手を大きく広げては小さく縮める動きを素早く繰り返して見せた。ついつい打鍵の力強さや音の美しさに注目してしまうけど、今すぐ取り組める練習ポイントはこっちだよと、それとなく諭されたような気がした。

 レッスン室を出て、渡瀬先輩と並んで廊下を歩いた。あまり構えないで思いついたことを喋ればいいや、と思った。こうやって渡瀬先輩と一緒にいられる時間が好きだから。

「先輩の論文って、どんなことを書いてるんですか?」

「気になる?」

「はい」

「このあと、ちょっと見てみる?」

「え、見れるんですか?」

「まだ序論を書き始めたぐらいだけどね。図書館行く?」

「行きます! ……見てみたいです」

 渡瀬先輩は五号館わきに停めてあった自転車を取りに行ってから、その自転車を横に押して歩いた。五号館と図書館は近接しているから、外を少し歩くとすぐに到着した。

 渡瀬先輩と一緒に図書館に入れることが嬉しい。背筋をちょっと伸ばして歩ける気がする。

「ちょっと待ってて」

 図書館の一階で小さな机についてから、渡瀬先輩は席を外して私を待たせた。

「お待たせ。これがね、論文の書き出し」

 渡瀬先輩が黒いバインダーを持ってきて開き、私に見せてくれた。

 眺めるように目を通してみる。論文と聞いて想像していたより、文面が堅くない。行間が生き生きと息づいているみたいで、スーッとひきこまれた。演奏という行為を言葉で説明しているような箇所を見つけて、惹きつけられて読み始めた。

“個々の音の連続は、いわば響きの総体における輪郭である”

“筆者にとってよい演奏、または豊かな響きには、それぞれの音を繋ぎ止め、その全体を一つの総体たらしめる求心力が働いているように思えるのである”

“それは個々の音が響きの根源へ収斂されていく力と、一つの根源から複数の音が放射されていく力の拮抗であり、そのようないわば張力が、響きに豊かさや深みをもたらすと筆者は考える”

 ……これは演奏論だ。そして結構、主観的な感じもする。こんな論文があるんだ。全然、堅苦しくない……音楽を言葉で表現してみようと試みているような。哲学的と言えばいいのだろうか? 文学的? いや、やっぱり音楽的だ。文章が生きていて、躍動して語りかけてくるみたいだ。

 演奏の魅力は拮抗する張力かぁ……初めて聞く考え方だけど、そうかもしれない……それが言葉になるのか、もうとにかく文章が美しい…………

「すごいですね……」

 色々考えても凡庸な感想しか出てこない自分が歯痒い。渡瀬先輩の論文を少しでも覚えておきたくて、吸い込まれるように読み耽った。

 この時にはっきりと自覚したと思う。私は渡瀬先輩のことが好きになっている。この人に恋人がいようがいまいが、そんなことは関係ない。この人のことをもっと知りたい。今、この美しい文章を書く人のそばにいられて、話せるだけで幸せなんだ、と。


 十月になると、秋らしく爽やかに晴れて空気がピリッと冷たく気持ちいい日が増えてきた。

 国橋音大の中庭は広くて、芝生と木々が植えてあり、ベンチもいくつか置いてある。晴れた日には学生たちが、ランチを食べたりお喋りしたりと寛いでいる。中庭には友達と連れ立って遊びに出る学生が多いイメージがあるから、友達がいなくて単独行動中心の私は敬遠していた。

 でもその日は晴れた屋外の明るさと空気の程よい乾きと冷たさに惹かれて、たまには中庭に行ってみようかな、と思った。学内のコンビニでパンとおにぎりとカフェラテを買って、中庭へ向かった。

 三々午後に寛いでいる学生たちを少し遠くから眺めてみる。パッと見に知り合いはいなさそうだった。空いているベンチに腰をおろして、食べ始めた。芝生のあちらこちらで、金管楽器を吹いている学生たちがいる。ユーフォニアムやチューバのような大きな金管楽器を屋外でプォーと伸びやかに鳴らしていて、和やかな陽気に包まれてのんびりしていた。

 しばらくそこで食べて過ごしていると、すぐ近くの一号館から女の子二人組がお喋りしながら出てきて、中庭の芝生の大きな石を長椅子のようにして腰掛けるのが見えた。時々講義で見かけて覚えているから、同学年の子たちなのは見てすぐに分かった。でも話しかけるほどの仲じゃない。目が合わないように、気づかないふりをした。

 確か名前は……未来みくちゃんと綾乃あやのちゃんだったかな。二人とも明るい派手な茶髪で、未来ちゃんはボブヘアーで綾乃ちゃんはロングヘアー。洋服にお金がかかっているのは見てすぐ分かるし、裕福なお嬢さまを思わせるおっとりとした喋り方の二人だった。

 未来ちゃんと綾乃ちゃんも私に話しかけようとはせず、気づいているかいないか分からないくらいの絶妙な距離感を保ってくれた。

 二人が話している内容がところどころ聞こえてくる。ユーフォニアムやチューバの音が響くと聞こえにくくなるし、風が吹いたり他の人のお喋りが重なってもちょっと聞こえにくい。ちらほらと単語レベルで会話が耳に入るのが気になって、つい耳をそば立ててしまった。

芸祭げいさい……みんなさ……だよねだよねぇ……大変だけどさぁ……もうちょっとだし?)

 11月にある芸術祭の話をしているんだな、と思った。

(やっぱみんないいひと……次っていつだったっけ?……実行委員……)

 実行委員? 未来ちゃんと綾乃ちゃんは、芸術祭の実行委員をしているのかな……

 国橋音大にはきっと色んな居場所がいたるところにあって、そこには私の知らない世界が広がっているんだろうな、と思った。

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