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渡瀬先輩を連れて

 もうそろそろ夏休みに入る。

 今本先生からは、新しい曲の課題をもらっていた。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番、これは長大な曲だから、第一楽章だけでいいと言われた。ピアノ協奏曲はオーケストラとあわせる機会がなくても、二台ピアノに編曲された楽譜がある。レッスンでは今本先生が隣のピアノでオーケストラパートを弾いてくれると言う。

 そしてショパンのエチュード作品10ー1と、作品10ー12“革命”。この二つの練習曲をさらうことで、右手と左手のテクニックをバランスよく鍛えましょうと言われていた。

 実家に帰省すると練習できなくなるし、この夏休みはアパートで過ごそうと思った。備え付けのエアコンがダイキン製で、涼しくて気に入っていた。実家に帰ると私の部屋のエアコンはもう十五年選手で、稼働させるとポタポタ水が滴ってくるし、絶対ここにいたほうが良い生活ができると思った。

練習に明け暮れる夏休みが過ぎていった。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番、通称チャイコンの難しさに圧倒された。何とか弾きこなせるようになることを夏休みの目標に決めた。毎日練習に集中していると頭がぼんやりしてきて、酩酊みたくジーンとしてきて、それはそれで気持ちよかった。

 八月に入った頃、ふと思い立って近所の小さな自転車店まで歩いた。店の前で中古の自転車を無造作に並べていて、店主のおじさんが一人で店番をしているような小さなお店があるのを、見かけて知っていた。並べられているなかで一番安い、六千円の中古自転車を買った。いつか渡瀬先輩と並んで自転車を走らせてみたいと思った。

 ちょっとした空き地で乗ってみることから始めた。何度かトライしているうちに五メートルくらいは乗れるようになった。そこからは時々国橋音大まで自転車を押して運んでいき、夏休みで人がまばらな構内で乗って走らせて練習して、徐々に乗れる距離をのばしていった。外の道を走るのはまだちょっと怖いけど、全く乗れない状態はこの夏休みで脱することができた。長期休みのたびに練習して、自転車に乗れるようになろうと思った。ミクシィはよく分からなくて放置した。

 夏休みが明けるとすぐ、成績表を学生課まで取りに行った。学籍番号を伝えて名乗り、受け取った一枚のぺらんとした成績表にさっと目を通した。自然と学科が目に入る。AA、AA、AA……。学科はAAばっかりだ。術科試験の項目は……あぁ一番上か……Bだ……結構、厳しいなぁ……

 学科試験を受けた講義は揃ってAAばかり。ピアノの術科試験はB。副科の声楽はA。レポートを提出した必修科目の西洋音楽史概説と選択科目のキーボードハーモニーは、ともにAだった。副科のほうが成績がいいってのも何だかなぁ……まぁ、ピアノは難しいもんなぁ、と心の中で呟く。

「なんだ、AAばっかりじゃないか」

 レッスンで今本先生に成績表を見せると、軽く驚きながら褒めてくれた。

「でも術科試験がBだったので……」

「Aはなぁ、八十点以上だからなぁ、取れたらトップクラスだよ」

 ……そうなんだ。それなら確かに、ちょっと納得がいく。点数の話にピンと来るものがあった。武蔵川高校の時は、ピアノの試験は数字で点数がつけられた。確かに八十点はなかなか出せる数字じゃなかった、というか一度も出たことがない。七十点も、いつでも超えられる点数ではなかった。手を痛めておそるおそる弾いた時は確か六十点台だったような記憶が、朧げながら残っている。八十点を越えるのは確かに学年で一位の子でも、奇跡的にたまに出せる程度のイメージだった。国橋音大の術科試験ではおそらく、七十点台でB、六十点台ならC、五十点台ならD、それ以下だったらF(落第)がつくのだろう。七十点越えがBだとしたら、全然悪い点じゃないと思った。

 学科のテストも返却されずに点数が不明なのは不思議な気もしたけど、大学はそういうものかもしれないと受け止めていた。

「このずらっと並んでるAAのほうが特殊なんだよ、こんなの見たことないよ」

 今本先生は笑っていた。渡瀬先輩が、僕にも見せてくださいと言って手を伸ばす。私の成績表を手に取って、うわぁほんとだ、すごいですねと言ってしげしげと眺めてから、私に返してくれた。

 確かに、学科の勉強は高校でも得意だった。特に勉強しなくても中間・期末テストでは一位か二位だった。演奏法の授業ではレポートで評価されたけど、ベートーヴェンのピアノソナタ『熱情』について書いた時は評価欄に「S」と書き込まれていて、クラスメートの前で先生が読み上げてくれたのが思い出に残っていた。でもそれは武蔵川音大附属高校の学科レベルが低いからだと思っていた。そして国橋音大も同じく、学科のレベルは低いはずだった。大学一覧のような分厚い冊子を書店で見かけてちらりと立ち読みした時、国橋音大は確か、偏差値が30程度だったような記憶がある。学科の試験で選抜していないのだから、当たり前といえば当たり前なんだけど。藝大げいだいは入試でセンター試験があるから違うんだろうな、と思った。

 渡瀬先輩と崎山先輩とも、暫くぶりだった。

「水沢は、夏休みは実家に帰ったのか?」

「いえ、帰りませんでした」

「そうか……崎山は? 実家に顔を見せられたか?」

「はい」

「崎山は実家、どこなんだ?」

「石川県の金沢です」

「おぉ、いいところだなぁ」

「いえいえ」

 金沢かぁ、行ったことないなぁと思いながら黙って聞いていた。

「渡瀬は? 実家、帰ったか?」

「ちょっと顔を出しましたけど、落ち着かなくてすぐこっちに戻ってきちゃいましたね」

「そうか……実家はどこなんだっけ?」

「千葉の浦安ですね」

「あぁそうか……藝大に家から通ってたんだもんな」

「そうですね……それはそうと先生、武満徹を弾かなきゃいけないことになりまして」

「武満徹? 頼まれて弾くのか?」

「十一月に国橋音大で、児珠こだま那智なち先生を招いた演奏会が企画されてまして。現代音楽がテーマで、僕は武満徹を弾くように頼まれたんですよね」

 武満徹と聞いて、現代音楽独特の難解なイメージを思い浮かべた。不協和音が連続する不可思議な雰囲気は、少しメシアンに似ているかも? と思ったことがある。

「あぁ、児珠先生を招聘する演奏会で弾くのか……それはいい話じゃないか」

「僕、現代音楽はちょっと苦手なんですよ……今本先生はどうですか?」

「あぁ、私も現代ものはまぁまぁ苦手だなぁ」

「えぇっ」

「吉井先生は得意じゃないのか?」

「うーん、あまりそういう感じではいらっしゃらなくて」

「そうか」

 今本先生と渡瀬先輩が和やかに、現代音楽は苦手なんだと軽く吐露し合っている。傍で聞いているぶんには興味を惹かれて面白いけれど、大丈夫なんだろうかと少し心配してしまった。

 続くレッスンで、渡瀬先輩が弾く武満徹『雨の素描そびょう』を聴いた。難解な不協和音が中心だけど、穏やかさと優しさが垣間見えるような、不思議な美しさと静けさを湛えた曲だと思った。音量もスピードも強まる箇所では、恐ろしさが漂っているような緊迫感も伝わってきた。今本先生は、この『雨の樹素描』について、作家の大江健三郎の代表作である小説『「雨のレイン・ツリー」を聴く女たち』にインスパイアを受けて作曲されたという逸話をまじえてレッスンされた。

 渡瀬先輩の澄んだ音色はこの曲に合っているような気がして、苦手と言っていたのはよく分からない。でも渡瀬先輩が納得のいく出来ではないんだろうし、そこに行き着く見通しが立たないんだろう。堂々と清らかな世界観を展開し、聴く人を広やかに包み込んでくれるいつもの渡瀬先輩を思うと、少し及び腰の演奏かもしれないと思った。説得力のある演奏に必要な、確信のような何かが足りていないのかもしれない。著名な演奏家の児珠那智を招聘する演奏会で、名指しで演奏を依頼されたという貴重な機会を、納得いかない仕上がりで終わらせてしまったら、渡瀬先輩はつらいんじゃないかと思った。

 アパートに帰って荷物をおろしてひと息つくと、麻衣子先生から以前届いた結婚報告の葉書が目に入った。

「なんか疲れたな」

 ふと思い立って母に電話をかけた。少し寂しくなったのかもしれない。変わらない母の声を聞きたくなったんだと思う。

「もしもし?」

「あぁれいちゃん、久しぶりやね……ちゃんと食べてる?」

「食べてるよ。そういえばさ、岸久保先生ご結婚されたんだよ」

「あぁそのお話ねぇ、岸久保先生のお母様と一度お電話した時に伺ったのよね……そうそう、岸久保先生ね、カワノ楽器に年契約でお仕事が決まったらしいわよ。社員ではなくて」

 母の声色は変わっていない。噂話が好きで、噂ネタには事欠かないのも変わらない。

「え、年契約って?」

「なんでもね、年収が二百万円でのご契約なんですって」

 母は声を潜めた。電話なんだからひそひそ話したって意味ないじゃんと思いつつも、確かに大声で話す内容じゃないかもな、と納得した。麻衣子先生のお母様はペラペラと内情を話し過ぎだ。

「社員とかじゃなくて年に二百万円の給料……どういうお仕事されるんだろ?」

「指導講師の先生たちをさらに岸久保先生が指導されるみたいな感じかねぇ? 公開レッスンとか、なされるんじゃないかしら」

「なんかそれはちょっと想像が入ってるよね? ていうかほんと、麻衣子先生のお母さんから話よく聞いてるよね。あ、ご結婚されたからもう岸久保先生じゃなくて麻衣子先生になったんだよ」

「あぁそうね、あのお母様はお喋りがお好きなのよ。れいちゃんは元気にしてるかしらって、あんたのこともいつも気にかけてくださってるのよ」

「元気って言えば元気だよ。まぁちょっと最近は不安もあるけど」

「不安? それはどういう?」

「うーん、この先もピアノやってけるのかなって……ほんとにピアノが好きなのかもよく分からないし」

「ふーん。ピアノが本当に好きかどうか分からなくなったっていうのは、岸久保、あ、麻衣子先生もよく仰ってたらしいのよ」

「ふうん……」

 好きかどうか分からなくなる気持ちを、麻衣子先生も同じ心境になるんだから問題ないとでも言うみたいに、軽く扱われている気がしてイラッとした。麻衣子先生がどうであろうと私には関係ないし、私がどう生きるかを考えるには参考にならないはずなのに。だいたい、麻衣子先生のように海外で十年以上暮らして勉強する気概が自分にあるとは思えないし、比較することが何になるんだろう。まぁそれでも、ピアノというものは極めた人であれ好きかどうか分からなくなるような、厳しい楽器なんだということは分かる。

 母との電話を切った後には疲れが残った。私のことを心配しているというより、退屈凌ぎみたいな噂話じゃないか。まぁ私からかけた電話だし、私だって同じなんだけど……

カワノ楽器かぁ、と独りで呟いた。日本を代表する楽器店を二つ挙げるとしたらヤマナミとカワノだから、年俸二百万円というのは分からなくもない。たぶん拘束の少ない仕事だ。麻衣子先生は上背が高くて、日本人離れした華やかさがあるから、折に触れてカワノを宣伝する広告塔のような役回りもあるのかもしれない。そういえば麻衣子先生はブログも書かれている。この前ちらっと見たけど、プロフィールの名前は岸久保麻衣子のままにされていた。ご結婚をオープンはされないんだと思う。

 ピアノに向かいながら、渡瀬先輩の言葉と演奏を思い出した。武満徹が苦手で不安と言っていたのが冗談には聞こえなかったな、と思った。そしてふと思った。麻衣子先生だったら、渡瀬先輩の武満徹を格調高く仕上げてくださるんじゃないかな? 考え始めるとわくわくしてきた。麻衣子先生と渡瀬先輩、どちらから先に話を持っていけばいいのかな……もう少し様子を見たほうがいいのかな?

 ただ、渡瀬先輩と麻衣子先生のどちらから話をしてみるべきなんだろうかと悩む。話を持っていく段階でちゃんと話が固まっている必要があるのはどちらだろう? 話がひっくり返ってしまったら問題になるのは? そして、しっかり話を固めてから提案すべきなのは渡瀬先輩のほうだと思った。麻衣子先生は仮に渡瀬先輩が断っても怒ったりされないだろう。でも渡瀬先輩は、こちらから提案しておいて実現しませんでしたとなったら、不愉快に思うかもしれない。

 麻衣子先生にメールしてみた。私と同じ今本先生の門下生で、博士課程在学中の渡瀬紘人先輩が武満徹の演奏を依頼され、苦手なので困っていること。麻衣子先生を渡瀬先輩に紹介して、レッスンで渡瀬先輩に『雨の樹素描』を指導していただきたいこと。

「もちろん。いいですよ」

 麻衣子先生はすぐに返事をくださり、私の提案を快く受けてくださった。

 渡瀬先輩に麻衣子先生を紹介したいと提案するのは緊張した。なんて言われるだろうかと不安になった。でもダメもとで言ってみよう、と自分にハッパをかけた。

 レッスンが終わってから廊下を並んで歩きながら、切り出した。

「先輩、もし良かったらなんですけど……武満徹のレッスンのことで、ご紹介したい先生がいるんですけど」

「ん? どんな先生?」

「イタリアのフィレンツェで、ラザール・ベルマンに長らく師事されていた先生です」

「へぇ……レッスンを受けられるの?」

「はい、よかったら」

「受けてみたいな。あとでメールして」

 渡瀬先輩は夜のメールで既に麻衣子先生を紹介してもらうつもりなのが伝わってきた。紹介してもらえる件だけどさ、と切り出された。すぐに具体的な日程を調整した。

 私は麻衣子先生へ同時にメールして、三日後の金曜日、午後五時からと決めた。私が渡瀬先輩に麻衣子先生の自宅を案内し、レッスンも聴講させていただくことになった。当日は渡瀬先輩と一緒に電車に乗り、往復の時間を二人っきりで過ごすことになる。自分から思いついたこととはいえ、想像するとそわそわして落ち着かない気分になってしまう。渡瀬先輩は優しいけれど、私を見る目に熱がこもっているとは思えない。いつも暖かくて柔らかな目を向けてくれていた。私の気持ちを一方的に押し付けてはいけない。そんな気がした。

 その日は九月下旬で、夏の日差しは少しだけ和らいで、よく晴れていた。講義が終わってから午後三時半に、大学最寄りの玉川上水駅で渡瀬先輩と待ち合わせした。駅に向かって歩いていたら、後ろから渡瀬先輩が自転車でやってきて追い抜かしていき、駐輪に向かうのが見えた。

 改札口前でおちあって多摩都市モノレールで立川北たちかわきた駅へ向かい、そこからJR中央線に乗り換えて、二人で麻衣子先生の住む阿佐ヶ谷へと向かった。モノレール内も電車内も人はまばらで、長椅子に並んで座ることができた。モノレールはあっという間に立川北駅に着いてしまい、隣に座ったものの特に会話は弾まなかった。時々、渡瀬先輩の横顔を盗み見た。立川北駅からJR立川駅までコンコースを歩いて、中央線快速に乗って、車内でも並んで座れると、渡瀬先輩も少しリラックスしたように見えた。

「今日見ていただく先生、お名前は何て仰るんだっけ」

「岸久保麻衣子先生です……ご結婚されたけど、公的には旧姓のままでいくみたいです」

「じゃあ岸久保先生ね。ベルマンに師事されてたって凄いよねぇ……リストを弾くベルマンってさ、迫力がもうほんとにすっごくてさぁ」

「聴かれたことがあるんですか?」

「一回だけね。ベルマンが来日した時に」

「いいですね……」

「巨匠に師事できるの、いいよねぇ」

「麻衣子先生はイタリアのフィレンツェに、十年くらい? 留学されてたって聞いてるので」

「いいねぇフィレンツェ……行きたい」

「イタリア、いいですよね」

「だねぇ。ヨーロッパがいいんだよね……ウィーンもいいよね」

「そういえば、今本先生はウィーン国立音大で教えてらしたんですよね?」

「うん、そう、すごいよね。元々はね、今本先生はスコダに師事されてたんだよ」

「え、スコダ?」

「うん、ウィーン三羽烏さんばがらすのスコダ。パウル・バドゥラ=スコダね」

 ウィーン三羽烏といえば、渡瀬先輩に以前教わったフリードリヒ・グルダもその一人だった。グルダをググった時に書いてあったのを思い出した。

「ウィーン三羽烏……えっと……」

「あ、スコダとグルダと、イェルク・デームスね」

「そのうちの一人に、今本先生は師事されていた……」

「そうなんだよ。今本先生は高校を中退して、そのままウィーンに行かれたんだって」

「へぇ……それはまた、何だかすごいですね」

「うん、今本先生は若くして挑戦されたんだよね……覚悟があるよね」

「ですね」

「ウィーン、僕も行きたいなぁ……楽しそうだよね」

「楽しい……」

 話がパッと呑み込めなくて、渡瀬先輩の言葉を繰り返してしまった。

「クラシックやるんなら、やっぱり日本よりウィーンのほうが楽しいと思うよ」

「……やっぱりそういうものなんですかね?」

「日本はねぇ、クラシック音楽がそこまで求められてないよね。その割に音大が多すぎだし」

「音大……多すぎなんですか?」

「毎年毎年こんなに沢山卒業させて送り込んでさぁ、そんなに需要ないのに……どうすんのって感じだよ」

 渡瀬先輩は忌々しげに言い捨てた。

「でも、博士課程出たら音大に就職できるかもしれないですし、音大は多いほうがいいんじゃ」

「そんなことないよ」

 遮るように否定された。

「日本の音大、明らかに多すぎ」

 続けて渡瀬先輩は言い切った。

「……そうですか」

「そのうち淘汰されるよ」

 何て言ったらいいのか分からなかった。渡瀬先輩の言うことも分かる。分かるけど、安易に同調していいのかどうか分からない。

 会話が途切れてほどなくして、電車が阿佐ヶ谷駅に到着した。阿佐ヶ谷の街を二人で歩いて、麻衣子先生の住むマンションを目指した。かっこいい渡瀬先輩と並んで歩けるのがくすぐったいような嬉しさでドキドキした。隣の渡瀬先輩を見ると涼しい表情で歩いている。

「暑いですね……」

「暑いねぇ」

(渡瀬先輩、モテるんだろうな)

物腰は優雅だけどフランクに人と接する、渡瀬先輩がモテないわけないと思う。

「あ、着きました……ここです」

 一緒にマンションの中へ入った。オートロックで麻衣子先生が住む二階の部屋番号を押して、どうぞ、とオートロック越しに麻衣子先生から声をかけられて中へ入った。いつもと変わらない笑顔で出迎えてくださった麻衣子先生は、少し疲れている渡瀬先輩と私に、紅茶とアイスクリームを出してくださった。

「このミルクティー、美味しいです」

 紅茶をひと口すすった渡瀬先輩が何気なく切り出した。

「お紅茶に入れるミルクをね、レンジであっためてからお出ししてみたの。美味しかったなら良かったわ。そういえば渡瀬さんは、博士課程に在学されているの?」

「はい。国橋音大の院で、博士課程にいます」

「博士ではどんなことを勉強されるのかしら?」

「ピアノの勉強は修士とそんなに変わらないんですが、論文指導がかなり厳しくなりましたね……」

「そうなのね。ちなみになんだけど、私は院を出てはいないの。桐朋を学部で中退してね、縁があったイタリアにそのまま行ったのよ」

「行ける時に行ったほうがいいですよね」

「そうね。だから修士の事情のことはよく分からないんだけど、勉強できる時にしっかり勉強しておくといいわよね」

「タイミングって大きいですよね」

 私も合いの手を挟んでみた。

「そうねぇ……今できることをできるだけ、やっていくしかないのよね」

 今できることを、できるだけやるしかない……麻衣子先生の言葉が耳に残った。

「水沢さんは、伴奏とかやってる?」

 麻衣子先生から話をふられた。

「伴奏は今のところ、やれてないですね。自分の練習だけで精一杯で」

「大変なんだと思うけど、縁があったら伴奏もやっておくといいわよ。幅を広げられるといいわね」

「……はい」

 幅を広げたほうがいいと麻衣子先生に言われて何も反論の余地はないものの、身体が拒否するような感覚があった。これ以上頑張るのは苦しい。音楽はしんどい。

「ずっとソロでやっていくのは大変ですよね」

 渡瀬先輩が柔らかく言葉を挟んだ。

「焦る必要はないと思うのよ。まだこれから出会いも沢山あるでしょうし」

「言葉で表現できるのも、大事ですよね……うまく言えないんですけど」

 渡瀬先輩がやんわりと、でもくっきりと伝わってくる明快な口調で話し始めた。

「僕は音楽を言葉で表せるようになりたいと思うところもあって。もちろん音楽だからこその伝える力はすごいんですけど、そこに留まらずに、言葉でも音楽を伝えられるようになりたいというか……」

「自分ならではのポジションを探すってすごく大事ね」

 麻衣子先生が柔らかく受け止めた。

「独自性、なんですかね?」

 思いついた言葉を私は口にした。

「それが一番大事なんだと思うわ。独自性を求めることから逃げてはいけないのよね。それがないとこの先やっていけなくなるような、そういうものかもしれないわね」

「自分ならではの、できることを伸ばしていかなきゃいけないってことですよね……」

「そうね、そう思うのよね……そろそろレッスン、始めましょうか」

 武満徹作曲『雨の樹素描』のレッスンが始められた。

 私はシゲルカワイグランドピアノの側に椅子を置かせてもらって、そこに座った。図書館で借りて用意しておいた楽譜を手元に置いて聴講した。

 渡瀬先輩はまず始めから終わりまで、一曲を通して弾いた。調性がない、侘び寂びのある独特の雰囲気が聴こえてくる。

「うん。全体としてはいいと思うわ。でもちゃんと音を聴けてないのよね」

 麻衣子先生が鉛筆で渡瀬先輩の楽譜に書き込んでいく。複数の音にしるしをつけて、曲の輪郭を際立てていくようだった。

「この音を聴いて! ……ここまでね」

「タイで繋がる、ここまで聴いて響きを重ねて」

 レッスンを聴きながら手元の楽譜に目を落とすと、不可解に思えた音の羅列に筋道が立ってきたように見えた。渡瀬先輩の演奏に生命が吹き込まれるように芯が通り、艶やかに立ち上がったのが聴こえた。

 帰途につきながら、私は疲れと高揚感が混じったような不思議な感慨で胸がざわついていた。帰りのJR中央線快速は少し混んでいた。吊り革を持ちながら渡瀬先輩と並んで立った。電車に乗り込んでしばらくしてから、右側に立っている渡瀬先輩に話しかけてみた。

「レッスン、どうでしたか?」

「そうだねぇ、すごかったよね。聴いて! ここを聴いて! って繰り返すのがすごいよなぁ、細かいよねぇ」

 少し茶化すように、渡瀬先輩は冗談めかして言った。

「先輩の演奏、すごく素敵になってましたよ」

「うん……だよね」

 渡瀬先輩は少し黙った後、独り言みたいに呟いた。

「……なんか初心に返るみたいなレッスンだったな」

「初心?」

「小学とか中学くらいの時はさ、ほんとに細かく教え込まれたもんだったなって。練習するのも無心だったな」 

 渡瀬先輩は前を見たままで喋った。もう夜になっていて車窓から外は見えない。

「そうだったんですね」

「小学の時なんだけどさ、地元でやってたピアノコンクールで一位が取れたんだよね。子どもの時のほうが、今よりちゃんとさらってたかもしれないな」

「……すごいですね」

「大人になるにつれて遊びを覚えるっていうか……子どもの時のほうが真面目だったかもしれないなって」

「いやいやいや……渡瀬先輩、そんなに遊んでるように見えませんけど」

「そんなことないよ」

 渡瀬先輩はやんわり否定した。

「ミクシィ見ましたけど、全然やってなくて放置されてるし……」

「あぁあれ、なんか面倒だもんね」

「あ、そうそう……そういえば、渡瀬先輩のマイミク欄を見たんですけど、浅野先輩が見当たらなかったんですよ」

「ん? あぁ、浅野さんとは付き合ってるから」

「えっ?」

 驚いて訊き返してしまった。

「付き合ってるんですか? 浅野先輩と?」

「うん、だからミクシィでは繋がってない」

「へぇぇ……そうなんですね……」

 何て言ったらいいのか分からない。しばらく二人して無言になった。

 ……何か言わなきゃ。っていうかいつからそうなったんだろ? 進展、速くないか?

「……あの、浅野先輩と付き合ってるって、いつからなんですか?」

「いつだったかなぁ。結構いつの間にか、成り行きで付き合ってて」

「……何かきっかけとか、あったんですか?」

「きっかけって?」

「え、いや、どちらかから告白したとか……」

「いや、特にそういうのはなかったかな……家が近かったから?」

 そうやって話した後も、すぐには乗り換えの立川駅に到着せず、一緒に並んで電車内に立っていたと思う。でもそこで話した内容はこれ以上思い出せない。呆然としていたのかもしれない。

 立川駅で多摩都市モノレールに乗り換えて、玉川上水駅に到着して降りると、じゃあ僕はこっちだから、と渡瀬先輩は言って軽く手を振ってくれて、駐輪場へと向かっていくのが見えた。

 もう暗くなった夜道をアパートに向かって歩いて帰りながら、ぼんやりと今日のことを思い出していた。さっさとは歩けなかった。足が重くてゆっくり歩く。疲れたなぁ、と思った。浅野先輩と渡瀬先輩が付き合っている可能性……ちゃんと考えてみたことはなかった。「まだ分からないから」と自分に言い聞かせて、保留にしていた気がする。いや、やっぱり否定していたのかな……信じたくなかったから。いつの間にか成り行きで付き合うって、どういうことなんだろう。家が近いって、たぶん浅野先輩も国音くにおんの近くに住んでいるんだろうな……すぐに男女の関係になったってことだろうか……

 ぼうっと考えながら邪推した。自宅アパート近くの、セブンイレブンの横を通り過ぎた。買い物も面倒でスルーする。

 ……そういえばレッスンの前には随分真面目な話をしてたなぁ……ウィーンに行きたいとか言葉で音楽を表現してみたいとか、面白そうだった。とりとめもなくつらつらと考えながら歩いていたら、アパートに帰り着いた。その夜は一晩ずっと寝付けなかった。

 渡瀬先輩が浅野先輩と付き合っていると知ってからも、今本先生のレッスンで普通に顔を合わせるし、会ったらいつも通りレッスンを聴き合う。だいたい、好きという気持ちを伝えたこともないのに悲しむ必要もない気がする。独り相撲したって仕方ない、と思った。

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