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ドビュッシー『装飾音のために』

 六月の中旬に入り、『ダンテを読んで』を少しずつ習得していた。ひと通り弾けるようになり、暗譜して、表現の精度を磨いていた。

 暗譜というのは楽譜を見ないで弾けるようになることで、ピアノを人前で演奏する際には暗譜が基本とされている。私は暗譜が得意で、弾けるようになったら殆ど同時に暗譜も終えている。

『ダンテを読んで』に技術的な難所はもちろんあるけれど、ショパンのエチュードやバラードを思えば、それほど難しいと思わなかった。劇的な曲調はすごく好きだし、私が今までに習得してきた偏りのある技巧の癖にも意外とフィットしていて、思っていたより弾きやすい曲だと思った。

 人の心をうつような素晴らしい演奏に仕上げるのなら越えるべき課題は多そうで、技術を難しく感じていてはダメだし、ただ弾きこなす域を超えて曲を掌握しなければならない。でもそんなレベルにいく以前の問題として、「曲を弾けるようになる」段階はクリアできたと思った。ショパンではこの段階を越えることさえ苦労してきた。

 とにかくショパンには苦しんできた。ショパンの曲は、どうしても乗り越えられない、私には弾きこなせない難所が容赦なく出てくる。フランツ・リストという作曲家は、後世に名を残した作曲家としてだけでなく、ピアニストとしても名声を馳せていた。その影響もあるのだろうか。リストの曲は、難曲であっても、弾きやすさに深い配慮がされているような気がした。

 そして前期の術科試験が七月にある。同時並行でその準備を進めていた。大学に入って初めてのピアノ実技試験にあたる術科試験の課題曲は練習曲エチュードで、ショパン・リスト・ラフマニノフ・スクリャービン・ドビュッシーの曲目から選ぶことができた。まず曲を選んでから練習を始めてもいいのだけど、五人の作曲家の練習曲をそれぞれ一曲ずつ選んで弾いてみることにした。練習曲というジャンルは好きだった。テンポが速い曲には感情移入しやすい。弾けるようになると楽しいし、曲想をつかむのはそれほど難しくない。

 その日の今本先生のレッスンでは、練習曲五曲を一気に通して弾いた。

 ショパンの練習曲の作品10ー5“黒鍵”、リストの3つの演奏会用練習曲から“ため息”、ラフマニノフの練習曲集『音の絵』作品39ー1ハ短調、スクリャービンの12の練習曲から作品8: 2. 嬰へ短調、そしてドビュッシーの12の練習曲から第8番“装飾音のために”。ショパンの黒鍵は軽やかで、二分程度の短い曲で、華やかだけど弾きやすい。リストの“ため息”は柔らかな曲調で分散和音アルペジオがぎっしりつまっているけど、手の動きが自然で技巧的にはそれほど難しくない。優しくて柔らかな曲調で、自然体で気負いなく弾ける感じがする。ラフマニノフはかなり濃密で動きも細かくて弾きにくいけれど、情熱的な曲調に共感して弾くのが楽しい。スクリャービンは以前から気になっていた、謎めきのある美麗な曲で、ホロヴィッツの艶かしい演奏をCDで聴いて憧れていた。そしてドビュッシーは初めて出会った曲で、分厚い和音が柔らかく、ダンパーペダルを多めに使って響きを混ぜると、とても豊かな色合いを感じて綺麗だった。異世界にいざなわれるような特別感が曲のなかに眠っているような気がして、この曲を弾くことで不思議な世界に入り込んでいくような感覚があった。

「うん、エチュードを五曲通して聴くと壮観だなぁ……この中から試験曲を選ばなきゃいけないんだよな」

「はい」

「リストかドビュッシーかな……渡瀬、どう思う?」

 レッスン室の後ろ側で私の演奏に耳を傾けていた渡瀬先輩に、今本先生が意見を求めた。

「うーん……ドビュッシー、いいかもしれないですね」

 少し悩みながら、渡瀬先輩はドビュッシーを薦めてくれた。

「リストもいいですけど……確かに、水沢さんの柔らかい音に“ため息”は合いますよね。でもドビュッシーは何か独特の雰囲気が出てるし、曲の難易度で言ったらドビュッシーが上だから、弾けるならそっちがいいかも」 

 渡瀬先輩は考えを巡らせるように、言葉を選びながら話してくれた。崎山先輩も賛同した。

「ドビュッシー、すごく難しい曲だと思う。この曲がそれだけ綺麗に弾けるなら、そのほうがいいと思います」

「みんなそう言ってるし、ドビュッシーにするか?」

 今本先生に訊かれて、頷いた。

「そんなに難しい曲とは思わなかったんですが……でも先輩たちがそう言うんならきっと私に向いてるんだと思うので……うん、ドビュッシーにします」

 自分に言い聞かせるように決めた。

 試験曲は、ドビュッシーの12の練習曲から第8番“装飾音のために”を選んだ。渡瀬先輩が薦めてくれたことが凄く嬉しかった。

 そんなに難しい曲だと思わなかったというのは、正直な感想で本音だった。確かに技巧的な箇所が散りばめられているし、分厚い音と細かい装飾が無数に組み合わさっていて複雑な曲なのだけど、手に馴染む感じもあって違和感がなかった。譜読みにも抵抗感はあまりなかった。ずっとベートーヴェンが得意だと思ってきたし、ショパンとリストに強く憧れてきたけど、意外とドビュッシーとの相性が悪くないのだろうか……

 帰宅すると、アパートのオートロック前に並ぶ郵便受けが目に入る。毎日のように大量の広告チラシが入ってくる。うんざりするけど、一応開けてチェックする。

「……ん?」

 一枚の葉書に目が留まった。岸久保麻衣子先生の写真に目が吸い寄せられる。住所と並ぶ差出人名には長谷川麻衣子と書いてある。

(ご結婚されたのか……)

 純白のウェディングドレスをまとって恭しく微笑む岸久保先生の隣に、恰幅のいい落ち着いた雰囲気の男性が寄り添って立つ写真。三十代半ばに見える綺麗な岸久保先生と、40代半ばに見える落ち着いた男性。

(岸久保先生、綺麗だなぁ。いいなぁ)

 住所は阿佐ヶあさがやだった。遠くはない。ここから電車で五十分くらいだろうか。

「結婚しました。水沢さんはお元気ですか? いつでも遊びに来てくださいね。長谷川麻衣子」

 岸久保先生の筆跡で、ひとこと走り書きされていた。

 ドビュッシーの“装飾音のために”をさらって取り組んでいると、もっと魅力的に仕上げたいという欲が出てきた。独特の浮遊感があるこの曲に、類いまれな色気を感じていた。官能的な曲だと思った。最大の山場、3つの音が重なった三和音が音階のように鍵盤を降りてきてメロディーを作る箇所は、絶頂に達する恍惚の感覚に近いのではないかと思った。まだ誰とも肉体関係を持ったことのない私は、憧れのような感情を性的な関係に対して抱いていた。ときどき書店で官能小説を買って、覚えるほど読み込んだ。頭でっかちに座学で、性的な知識を増やしていた。その妄想……空想のなかでイメージしていた感覚は、ドビュッシーの“装飾音のために”が醸し出す雰囲気に近いものだった。

 ドビュッシーは既婚者で子どもがいながら不倫旅行に出て、『喜びの島』を作曲して想いを託すなど、性的に奔放だったことが知られている。そんなドビュッシーの作品なのだから、作中のいたるところに芳醇な色気を感じてもおかしくないと思った。この曲を弾いていると、どんどん深みにはまって好きになっていくような気がする。

(そうだ、岸久保先生にこの曲を見てもらおうかな……あ、今はもう長谷川先生なのか)

 岸久保先生にメールで連絡して、今度の週末に新居のマンションに行き、ピアノのレッスンを受ける約束をした。まだ長谷川先生と呼ぶのはちょっと抵抗があった。これから何て呼べばいいのだろう。地元の逗子では一戸建てにお住まいだったけれど、阿佐ヶ谷の新居はマンションにされたんだなと思った。


 阿佐ヶ谷の駅から徒歩十分だと、メールで知らされていた。小雨のなか、傘をさして岸久保先生のマンションまで歩いた。

 レッスンを受ける名目で街に出るのは、ちょっと楽しい。出不精でついつい家に引きこもりがちな私だけど、レッスンや演奏会に行くために重い腰をあげて電車に乗り、東京に出るのが常だった。渋谷までソルフェージュを習いに行ったり、武蔵川高校を受験する前は吉祥寺までレッスンに通ったり。サントリーホールのある溜池山王、紀尾井ホールのある四ツ谷、王子ホールで銀座へ、東京文化会館で上野へ。帰りには必ずお腹が空いて、コンビニやベーカリーに寄って買い食いをするのが定番の楽しみだった。小学生の頃から一人で電車に乗ってピアノのレッスンに行き、暗い夜道を帰ってきて途中のコンビニに寄った。子どもの頃から、レッスンはつまらなくても電車の旅が楽しかった。

 阿佐ヶ谷は住宅街だった。岸久保先生からの道案内メールを読みながら歩いて、目的地のマンションを探す。

「……ここだ」

 普通に綺麗なマンションだった。オートロックのエントランスは端正で清潔だけど、華美ではなかった。

「水沢さん? どうぞ」

 岸久保先生の声がオートロックから聞こえてきて、ちゃんと辿り着けたことに安心した。

 岸久保先生の新居は、隅々まで綺麗に整えられていてお洒落だった。洗面所を借りて手を洗うと、洗面台にはさり気なくお花が飾ってあった。すずらんのお花に見える。壁には、薔薇の花束が描かれた絵画が掛けられていた。

「私、家のことやるのは好きなのよ。料理は全然ダメなんだけどね」

 紅茶を薦めてくれて、美味しそうなシフォンケーキまで用意して下さっていた。

「こんなに素敵な……ありがとうございます。あ、ご結婚おめでとうございます……あの、すみません、私何も持ってきてなくて」

「いいのよそんなの、気にしないで」

「すみません……そういえば先生のこと、何て呼べばいいですか?」

「麻衣子先生でいいわよ。水沢さんは大学生活はどう? 楽しめてる?」

「そうですね……ピアノの先生に出される課題はちょっと厳しめですけど、まぁ何とか、楽しくやれてます……」

「厳しめ? それはどういう?」

「沢山の曲を勉強しないといけないので……」

「あぁそうなのね。先生は、どこか海外で勉強されたかたなのかしら?」

「ウィーン国立音大で教えてらっしゃったみたいです」

「そうなの……何ておっしゃる先生?」

「今本光映先生です」

「今本先生ね」

「ご存知ですか?」

「ううん。存じ上げないけど、ちゃんと覚えておくわ。水沢さんは今、何をさらってるの?」

「ドビュッシーのエチュードと、リストのダンテです。今日は試験曲のドビュッシーを見ていただこうと思って」

「いいわよ、今日はドビュッシーなのね。リストもいつでも見るから、その時は言ってちょうだいね」

 そういえば、麻衣子先生がリサイタルで弾くリストはいつも素晴らしかった。『タランテラ』の禍々しい迫力に惹きつけられた記憶、『スペイン狂詩曲』の世界観にどっぷり浸かって聴いた記憶がよみがえってきた。麻衣子先生はリストがお得意なんだ……師事されていたラザール・ベルマン先生も著名なリスト弾きだから、直感的に連想して気づいた。

 ダイニングテーブルに座って、ダージリンティーとシフォンケーキをいただいてお話していたら、テーブル横の壁に控えめな抽象画が飾ってあるのに気づいた。鉛筆でさらっと描いたような、簡潔な抽象画だった。

「……この絵、いいですね」

「……以前ね、ギリシャで演奏したのよ。その時にね、誘って下さったかたからお礼で絵画をいただいたの」

「お礼……」

 お金ではなくて、絵画をいただいたという意味だろうか……

「……それじゃあ、そろそろ始めましょうか」

 グランドピアノが置いてあるレッスン室にお邪魔した。カワイグランドピアノの銘柄の一つ、シゲルカワイが一台置いてあった。

「この部屋を防音室にしたのよ」

 麻衣子先生は、私が実家で音の問題に苦しんでいたのを知っている。

「この部屋全体をね、床から浮かせる工事をしたのよ……ここはね、下が駐車場の2階なの。その条件で都内のマンションを探したらね、ここしか空きがなかったのよ」

「それでも防音、やっぱり必要ですよね」

「そうね、集合住宅だから……何かあってからでは遅いものね」

 ピアノの音は、グランドピアノの脚を通して階下に伝わる。空気を経由した壁からの音量より、振動で床を通して伝わる音量が大きい。だから麻衣子先生は階下が駐車場という条件に拘り、その物件を見つけた上に、さらに床を浮かせる防音工事までやっていた。ここは分譲マンションだと、拘りの防音工事を施したことからもよく分かる。買って住むなら、近隣とトラブルは起こしたくないのは当然だと思った。麻衣子先生は新居に万全の防音対策を施していた。

「よろしくお願いします」

 麻衣子先生に一礼して、ピアノの前に座る。暗譜したばかりのドビュッシー“装飾音のために”は、繊細に選ばれた音が数多く散りばめられて重なっている。独特の浮遊感を異世界のように完成させたいと思う。シゲルカワイのピアノを弾くのは初めてだった。少し重い鍵盤のタッチが心地よい。大学のレッスン室のヤマハより重厚で、澄んだ音がするかも。ちょっと新鮮で、不思議な感覚だな……

 ドビュッシーの練習曲“装飾音のために”を弾き終えると、隣に立って聴いていた麻衣子先生が喋り始めた。

「……はい。ドビュッシーはね、ふわっと弾くんじゃなくて、油絵のように色濃く、くっきりと弾きましょう」

 麻衣子先生は二時間ものレッスン時間をまるまる、ドビュッシーの1曲に充てた。弾けば五分程度で終わるエチュードも、レッスンで掘り下げると二時間かかる。

 細かく音をピックアップして楽譜に鉛筆で書き込みを入れ、曲の輪郭を浮き立たせるガイドラインを細かく引いていく。明確に解釈し、明瞭にくっきりと弾いて示さないと「何をやってるのか分からない」と麻衣子先生は言う。重要な音を細かく洗い出す。特に意識を向けるべきポイントをきっちり決めていく。その音を「よく聴く」ために。ドビュッシーだからといって、はじめからふわっと弾くつもりでふわっと捉えてしまっては「何をやってるのか分からない」。何を言いたいのか伝わってこない演奏になってしまう。

 非常に細かく入念に執拗に、その場で私が一定の出来を見せるまで弾かせる。このレッスンを一度受けたら、演奏は確実に見違える。

 麻衣子先生のレッスンが素敵だとつくづく思うのは、重要な音を選んで提示される曲の解釈が本当に美しく、私がより一層伸び伸びと弾けるように、スケールを大きく仕上げてくれることだった。細かく注意されているのに、どんどん自由に弾けるようになる。それはおそらく、提案される曲の解釈に心から賛同しているからなんだと思う。こう弾きたい、すごく素敵だな、と思わせてくれる。香り高くて広やかな世界観を目の前に予感させてくれるから、ピアノを弾く最も深い喜びに近づけるのではないかと自分に期待したくなる。それが麻衣子先生のレッスンだった。


 麻衣子先生のレッスンを受けながらその場で弾いた時は、自分の演奏に浸れるほどよく弾けたのに、自宅に帰ってから弾くと既に魔法は解けている。まるでお洋服を買った時に、家に帰ったら試着室の魔法が解けてしまうみたいに。あの魔法がかかった演奏をイメージしながら練習して、目指していくしかない。

 ときどき、大学構内の練習室を借りて練習していた。練習室は有料だけど、そこに置いてある様々なピアノを試し弾きできるのが良かった。アップライトピアノの部屋は一時間あたり百円、グランドピアノの部屋は二百円。部屋に空きがあってお金を支払えば、学生は自由に使える。時間単位で借りるから、追い込みをかけて集中できる。部屋にはピアノしかないから、気が散ることもない。試験は一発勝負で、初めて出会うピアノを弾かなくてはいけないから、色々なピアノを触っておいて、初対面のピアノに慣れておきたかった。

 ……真面目な理由で言えばそうだし、本音では大学になるべく長くいて、渡瀬先輩と偶然会えるのが楽しみだった。時々すれ違って、挨拶を交わせるだけでも嬉しかった。レッスンの度にピアノを聴いてもらえることも、たまらなく嬉しかった。

 大学の練習室から出ると右手にファミリーマートが見える。以前に渡瀬先輩とお喋りしたテーブルでは、誰かしらが座って話していることが多い。最近はすごく暑い。大学構内のファミリーマートに飲み物を買いに行くのが楽しみになっていた。

 その日は講義が終わって、一時間ほど練習室で弾いて、翌日の練習室の空きをチェックするために管理棟でカレンダーをめくっていた。

「水沢さん。お疲れ」

 ふと声をかけられて、見ると渡瀬先輩だった。渡瀬先輩も練習室の空き日程カレンダーを見たかったようで、私の後ろに並んでいた。

「あ、先輩……お疲れさまです。暑いですね……」

「ほんと暑いよね……練習室、結構混んでるね」

 そのまま管理棟の出口まで並んで歩いた。

「私ファミマ行くんですけど、先輩も行きません?」

「あ、行く」

 渡瀬先輩と一緒に、ファミリーマートまで一分ほど歩いた。

 傘付きのテーブルと椅子で、女性が二人と男性が一人、座って喋っているのが見えた。

「あ……あの人たちって」

「吉井門下のみんなだね。この前演奏会で弾いてた人たち」

「浅野先輩に、土井先輩、三田先輩……」

「うん。入れてもらおう」

「は、はい」

 ファミリーマートに近づくと、浅野先輩がこちらに気づいて手を振った。はじけるような笑顔が可愛い。女優さんみたいだ。浅野先輩はダークブラウンに染められた髪がつやつやで、顔に華やぎがあって姿勢も綺麗で、遠くから見てもそのひとだと分かるオーラがあった。

「ここ、いい? 今本門下の水沢さんって子も」

「どうぞ〜」

 浅野先輩が笑顔で答えて、吉井門下のみんなで気さくに出迎えてくれた。渡瀬先輩が近くのテーブルから椅子を運んできてくれて、同じテーブルを囲んだ。

「水沢さん、渡瀬さんと同門どうもんなんだね」

 すぐに浅野先輩に話しかけられた。

「はい。今本先生の門下で、渡瀬先輩と同じ門下生です……あ、あの、水沢れいです。先日は夜のガスパールの演奏、すっごく素敵でした……」

「あはは、聴きに来てくれてありがとう」

 浅野先輩は屈託なく笑った。

「あ、浅野朋美です……ここにいるのはみんな吉井門下で、土井君はショパンのバラード4番を弾いたひとで、三田さんはメシアンを弾いたひと」

 土井先輩は眼鏡をかけていて、温厚で真面目そうでちょっと童顔の男性だった。三田先輩はちょっと気難しそうでクールな雰囲気の女性だった。

 渡瀬先輩は煙草を吸い始めて、私に声をかけてくれた。

「水沢さん、何か買ってきたら?」

「はい」

 ファミリーマートに急いで飲み物を買いに行った。渡瀬先輩のさりげない気遣いが嬉しかった。

「今本先生、厳しい? レッスン、どんな感じ?」

 ペットボトルのカルピスソーダを飲んで和む私に、浅野先輩はすすんで話しかけて、仲良く接してくれた。

「うーん、厳しいような厳しくないような……」

「お人柄は優しいんだけど、曲が多くて大変なんだよね」

 渡瀬先輩が説明をはさむ。

「そっかぁ、頑張ってるんだね……」

 浅野先輩は話すとちょっと天然な感じもした。いや、私に気を遣って合わせてくれているのかもしれない。

「水沢さん、ドビュッシーが上手いんだよ」

 渡瀬先輩が付け加えてくれる。

「今本先生は見識が深くて、お話が本当に面白い先生だよね」

 土井先輩がしみじみと言った。

「今本先生は院で講義もされるんだよ。古典派にお詳しい先生なんだよ」

「そうなんですね」

「院になると、修士論文を書くんだよ。講義と、論文指導も受けて準備してかないと、二年で修了しちゃうからねぇ」

「そうですよね……」

 土井先輩の話を聞きながら、今本先生は大学院生によく知られているんだなぁと思った。三田先輩は寡黙な雰囲気で、午後の紅茶レモンティーを飲みながら携帯電話を触っていた。

「そうだ、ミクシィってやってる? 水沢さん」

 浅野先輩から訊かれた。

「ミクシィはまだ、やったことないですね……」

「ミクシィ楽しいよ。結構やってる人多いから、やってみたら?」

「そうですね、やってみようかな……でもミクシィって、誰かに招待してもらわないといけないんですよね?」

 家に帰ったらパソコンで始めようと思った。でも、ミクシィは招待制だと聞いたことがある。

「あー、じゃあ僕がやっとくよ。メアド聞いたことあるし」

 渡瀬先輩がそう言ってくれたことに少し驚いて、渡瀬先輩の顔を見た。渡瀬先輩は変わらない表情で煙草を吸っていた。

(まぁ、ミクシィは誰かが招待しなきゃいけないんだし、たいしたことじゃないか……)

 そう、大したことじゃない。舞い上がっちゃダメだ、と心の中で自分に言い聞かせる。

 アパートに帰り着いて、肩がけの重い楽譜バッグをどさっと床に置くと、パソコンを開いてメールをチェックした。渡瀬先輩からミクシィの招待メールが届いている。胸のなかにあかりがともるみたいに、暖かい気持ちになった。早速ミクシィに入ってみて、渡瀬先輩のページを見た。日記は書かれていない。やる気が感じられない、登録だけはやってみた感じがありありと出ている。そのままマイミク欄を見た。土井先輩を見つけたので、マイミク申請を送ってみる。

 ……浅野先輩らしきひとが、見当たらない。

 渡瀬先輩のマイミク欄、二十二人のアイコンを一人一人クリックして探す。匿名の人もいるし写真も載ってない人のほうが多いけど、プロフィールを見てピンとくる人がいない。浅野先輩は、渡瀬先輩とミクシィで繋がってない……? 小さな棘が胸に刺さったような気がした。浅野先輩の華やかな笑顔の裏に隠れていた、小さな棘が。

 浅野先輩が私をミクシィに誘ったのは、どういうつもりだったんだろう? ついさっきまで誘われて嬉しかったはずの、暖かい気持ちは消えてしまった。不可解でよく分からないものを見てしまった。少し胸がざわつく。たまたまだろうか? いや、普通に考えてそんなことはないと思う。渡瀬先輩もいる場所で、浅野先輩がミクシィに誘ってきたんだから、その二人がマイミクで繋がっていないのには納得がいかなかった。何だろう……この分からなさ。納得のいかなさが、どこか不安だった。


 私は結構、本番に強い。演奏をひとに聴かれるのを気に病むことはない。気にして悩むひとが多いのは知っている。音大生でも、本番の緊張が嫌じゃないという人は少ない。ピアノは一発勝負だから、本番の一回がうまくいかなかっただけで、それまでの努力は無になってしまうのが嫌だとよく言われる。でも何だって大体そんなものじゃないか、と私は思っていた。それよりもずっと苦しかったのは、ピアノの本番を終えた後に襲ってくる、言いようのない虚しさだった。弾き終えた後に充実感ではなく疲れが残る。いったい何のために弾いたのか、今いちよく分からない。日頃の練習もあまり好きではないから、本番を終えた後でも虚しくなるなら、なぜピアノをやっているのかよく分からなくなってしまう。このことはずっと気にかかってきた。本心では、ピアノを好きじゃないかもしれない。

 そしていつも考え直した。好きな曲を納得のいく出来に仕上げることが、今まではできなかったんだ。それは難しいことだったし、興味を持てない曲を弾いてきた数のほうが圧倒的に多かった。だから虚しかったのかもしれない、と。

 今回の試験では好きな曲を弾く機会に恵まれた。そして納得のいく仕上がりで弾けそうな予感もある。楽しみだったし、不安でもあった。今回の試験でドビュッシーを弾き終えても、やっぱり虚しいのだろうか? それとも、何か満たされるような気持ちを感じ取れるだろうか……高校受験の時から今に至るまで、数えきれないほどピアノの試験は受けてきた。高校でも実技試験が年に二回あるのは同じだったから。でも、好きで思い入れのある曲をちゃんと仕上げて、心身の調子も悪くなく迎えられそうな試験は今回が初めてかもしれない。

『ダンテを読んで』は今本先生からいったんお休みの指示を受けて、試験が近づくとドビュッシーに集中できた。

「ここまで弾けたらいったん休みにして、別の曲をさらっていくといいと思いますよ」と今本先生は言った。今本先生は試験官のなかにはいないと、予め知らせてくれていた。

 前期の術科試験当日は、あっという間にやってきた。学籍番号の順番で名前を呼ばれて、試験が実施される部屋に入る。試験官の先生が4人長机に座っていた。女性も男性もいた。今本先生はいない。ヤマハのグランドピアノの前で先生たちに向かってお辞儀し、ドビュッシーの練習曲エチュード“装飾音のために” を慎重に弾き始めた。

 本番は無心に弾けたらどんなにいいだろうか、と思ったこともある。でも無の境地にいくのは、今回もやっぱり難しそうだ。自分の手元を見ながら、音の跳躍を確実にこなす。ポイントになる音をピックアップして、音色を予測するように、思考が後手にまわらず、演奏に先んじてイメージできるように……一つ音を外した。気にすることはない、止まらないでそのまま進むだけ。

 一番好きなところが来た。三和音さんわおんがメロディーを作るところ……あ、終わっちゃった。好きなところはあっという間に過ぎ去る。指は勝手に動くから、つい演奏を指に任せっきりにして他のことを考えそうになる。ダメだダメだ、集中して次の音を予測……聴かなければ、頭の中で次の音を聴かなければ……

 終わった……弾き終えた。

 ピアノの椅子から立って、試験官の先生たちに向かってお辞儀する。

 部屋を出て、廊下から階段に向かって歩いた。少し息が上がっている。階段を降りて、とりあえず地下の食堂へ向かった。いつも一人でご飯を食べている、隅っこの席に座ろうと思った。

 山菜そばでも食べよう。醤油味のあっさりしたものが食べたい。気持ちがそわそわしている。弾き終わったのにまだ落ち着かない。まぁそんなものだと思う。一人になりたい。こういう時は誰とも話したくない。

 食堂はお昼どきでなくてもやっていて、午前も昼下がりも空いていて、そんな時はゆったりした雰囲気がある。混雑を避けた時間帯の食堂が好きだった。ここの山菜そばに入っている山菜は見るからにレトルトで食感はペラペラで、蕎麦は伸びていて歯応えが良くないし、いかにも安っぽい出来なんだけど、それが結構好きだった。この暑い季節なのに、冷たいお蕎麦は一つもない。冷やし中華みたいな洒落たメニューも勿論ない。でも温かいお蕎麦で充分だった。栄養バランスが考慮された、選べるAとBのランチメニューよりも、安くて温かいお蕎麦が食べたい気分だった。子どもの頃からチキンラーメンやどん兵衛、赤いきつねと緑のたぬきといったインスタント麺が大好物だったから、似たような感じに癒やされるのかもしれない。

 山菜がのった柔らかいお蕎麦と、醤油味の熱いおつゆをフーフーしながら食べて、さっきまで弾いていたドビュッシーを思い出していた。

 試験はあっという間だった。いつもの本番と同じように、弾いている時間は瞬く間に過ぎ去ってしまった。曲の練習に取り組むと、時間の感覚を見誤りそうになる。五分で終わる曲だということが、さらっているうちに実感できなくなる。頭ではもちろん分かっている。でも体感としてそうとは思えなくなる。一秒で過ぎ去ってしまうフレーズをどれだけ弾いてきたことだろう。練習にかけた時間を思うと気が遠くなる。それがものの五分で、消えるように過ぎ去ってしまう。あんなに好きだった、官能的な三和音のメロディーも、本番では一瞬で消える。

(……やっぱり、虚しいんだなぁ)

 こうなるような気はしていた。好きな曲を弾いたからといって、ピアノを弾くという行動の意味に変わりはない。

(まぁ、そんなもんだよね……)

 山菜そばのおつゆをだいたい飲み干して、器を返却コーナーへ持っていき、そのまま学食を出てアパートへ帰った。

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