音大の図書館
国橋音大の図書館は東洋一と言われているらしい。
音楽を学問として修める「音楽学」を専門とする音楽学者には、東京大学文学部の美学科卒業という学歴の先生が多い。国橋音大の教授や准教授にも、音楽学関係の先生には多く見られる学歴だった。その「東大の美学」に通う現役東大生や大学院生たちも時折、国橋音大の図書館を訪れているという。そのために来館証を作成して、同じ東京都でも立川市という遠方に位置する国橋音大まではるばる通ってくる。
東大に美学科があるという話自体が私には驚きだったし、そんなに音楽を学問として修めたい人がいて、そういう人が東大の文学部に入学して美学科を選ぶなんて、私にはいちいちカルチャーショックだった。そんな選択肢が存在するということにも、美学という科目を東大であえて選ぶ人がいることにも、それが音楽を学問として修める王道だということにも、ただただ驚いた。
その日の講義が終わってから、図書館へ向かった。渡瀬先輩が話していた、グルダが弾くベートーヴェンの後期のソナタを聴きたい。
ベートーヴェンのピアノソナタの楽譜……作品109と110と111を、ヘンレ版の演奏用ピース(作品一曲毎に印刷されている楽譜)で借りてから二階へ上がった。楽譜や書籍は一週間借りられる。二階は静かな視聴覚コーナーで、その場でヘッドフォンをつけて、借りたCDやレコードやDVDを視聴できる。視聴覚資料は図書館の外に持ち出して翌日まで借りることもできるし、館内で座って聴くこともできた。
フリードリヒ・グルダ、ベートーヴェン、ソナタ、Op.(オーパス)109と蔵書検索システムに打ち込んでCDを探した。Opはオーパスと読んで作品番号の単位だ。
Op. 109、110、111が収録されたCDを画面に見つけたので、発注票をプリントして、図書館司書の方々が待つ受付で手渡した。
国橋音大図書館の蔵書が保管されている書庫は図書館の奥深く、受付の内部に広がっていて、殆どの本やCDは自分で棚に取りに行くことができない。検索システムから発注票を出し、受付で待機している司書の方々に依頼して探してきてもらう。棚まで探しに行けないのはちょっぴり寂しい気もするけれど、あまりに膨大な資料だと聞くから、学生には探しきれないかもしれない。書庫の広がりを受付の奥まで見に行くことはできないけれど、東洋一と言うからにはきっとそうなんだろうと思う。希少な資料を大事に保管するためにも、オープンにしないほうがいいんだと思う。何にせよ、学生は書庫の大部分にアクセスできない。公開されている棚が全体のほんの一部だということは、見る人が見たらすぐに分かる。逆に言えば、蔵書検索システム(OPAC)に習熟しないことには、学生は膨大な資料にアクセスできずに宝の持ち腐れになってしまう。私は検索にあまり自信がなかった。講義で耳にした知識を活かしながら、少しずつ上達するしかない。図書館のなかのオーディオ環境は、武蔵川音大付属高校でも似たようなものだった。その場で試聴できることも、司書のかたに依頼して探してきてもらうシステムも同じ。視聴覚資料を図書館の外に持ち出すことはできなかったけれど。それより何より明らかに違ったのは、武蔵川の音高では席がガラガラに空いていたことだった。学生が図書館に興味を示さない風土があった。
国橋音大の図書館は混んでいる。蔵書検索システムに学生が列を作って並ぶし、オーディオ室も席が混み合っている。混雑に対応できるように、数多くの図書館司書が待機している。賑わっているほうが、閑散としているより断然雰囲気がよくて、楽しい感じがする。クラシック音楽への興味と向学心の差で、この違いが出るんだろうと思った。高校と大学の比較で不公平な話かというと、そうではない。当時の武蔵川音大附属高校では、高校生と大学2年までの学生とが、同じ学内施設を共用して学んでいたから、高校生だけが利用する図書館ではなかった。
フリードリヒ・グルダ演奏のベートーヴェンピアノソナタ全集のうち、後期のソナタ(作品109、110、 111)が収録されたCDを、図書館司書のかたが持ってきてくれた。空いているオーディオ席を見つけて座り、楽譜を広げてCDをセットした。ベートーヴェンの後期のソナタを聴くのも初めてなら、グルダの演奏を聴くのも初めてだった。
作品109の第一楽章は祈りを捧げているように清らかだった。第二楽章は力強くて速く、感情表現に抑制がきいていて惹き込まれる。第三楽章が始まると、その荘厳さに圧倒された。表現の振り幅が大きくて、静けさが沁み入る静謐な箇所から、押し出し良く明朗に導いてくれる箇所、豊かに鳴り響いて高らかに歌い上げる箇所まで、そのギャップに心を委ねたくなる。
作品110の第一楽章はやはり清らかだけど、作品109に比べると悲しみの色を濃く感じる。第二楽章もテンポは速いのだけど曲調が重々しい。そして第三楽章は場面変化が劇的でドラマティックで、“嘆きの歌”と淡々と進むような多声音楽の対比、力強く勝利を宣言するかのような終結部に驚かされた。嘆きの歌で伝わってくる悲しみは静かに淡々と同じリズムを刻んで、荒ぶることがない。逆に、勝利を感じて喜びが伝わってくる箇所は情熱的で、ピアノ全体が鳴る大音量が豊かに響く。
以前、ロマン・ロラン著作の伝記『ベートーヴェンの生涯』を読んで印象に残っていた、「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」というベートーヴェンの名言を思い出した。喜びの歌で有名で、年末になると耳にする交響曲第九番「合唱付き」はまさにこのイメージだけど、作品110もこの名言にぴったりだった。
作品111は第二楽章までの構成で、第一楽章は男らしさを感じる力強さに惹きつけられた。かっこいい。男っぽくていい。短いメロディーのモチーフが、短く切るスタッカートをまじえて、リズムもクールでかっこいい。続く第二楽章は、人間というよりは神が歌い上げているような気高さを強く感じた。天国に入り込んだような、苦しみが存在しない別世界にふと迷い込んだような。盛り上がっていくと何度でも高みに昇るような、無限に導かれていくような心地よさ。第一楽章にはベートーヴェンの人間くささが詰め込まれて、第二楽章には天国への憧れが詰め込まれたのではないかと思った。もし天国があるとしたら、作品111の第二楽章のようなところではないかと。グルダが弾くピアノの音色は、どこまでも透明だった。渡瀬先輩の音に似ている。近い音色だと思った。
(ベートーヴェンのピアノソナタを締めくくった後期の作品……孤高の域だなぁ……)
ベートーヴェンの後期のソナタは、清らかで劇的で高貴で、神がかったような美しさがあった。
後期のソナタを弾いている渡瀬先輩を想像するだけで、かっこよすぎて胸が高鳴った。後期のソナタの全てが、渡瀬先輩の清らかで澄んだ音色にぴったりだった。特に作品111の第一楽章は、渡瀬先輩にすごく似合うと思った。ちょっと斜め上から見るような格好良さが、渡瀬先輩の風貌を彷彿とさせた。後期のソナタと渡瀬先輩のイメージが私のなかで結びついた。曲に憧れているのか、渡瀬先輩に憧れているのか。それらが合わさって私のやる気を支えてくれそうな、心の土台になってくれそうな予感がした。