修士の演奏会
国橋音大敷地内のコンサートホールでは、選ばれた優秀な学生や大学院生が出演する演奏会が定期的に開催される。千三百席の大ホールと五百席の小ホールがあり、適宜使い分けられている。入学式は大ホールで実施されていたし、著名な音楽家を招いた演奏会やセミナーも時々開催される。ホールでは毎週のように何かしら開催されているので、全部を聴きに行くのは近くに住んでいても難しい。基本、練習優先の生活を選び、コンサートホールにはあまり足を運んでいなかった。
五月の下旬、修士で一年次の大学院生が出演する演奏会が、国橋音大コンサートホールの小ホールで開催される。演奏会の曲目が校舎の階段の踊り場に掲示されていた。修士には、渡瀬先輩が今本先生とは別にもう1人師事している、吉井先生の門下生が何人かいるはず……ちらりと掲示を眺めて、曲目に目を惹きつけられた。
“モーリス・ラヴェル『夜のガスパール』1.オンディーヌ 2.絞首台 3.スカルボ −––——ー 浅野 朋美”
……無数のピアノ曲のなかでも最も技巧的に難しいと言われる、ラヴェルの『夜のガスパール』の三曲目、スカルボ……この超絶技巧の最難関曲を学内の演奏会で弾く浅野朋美先輩って、いったい何者なんだろう……聴きに行こう。これは行ったほうがいい。直感的にそう思った。
修士の演奏会が開催される当日がやってきた。六月がもう近い。
その日、午後の講義が終わって演奏会まで一時間ほど余ったので、学内にあるコンビニのファミリマートに行くことにした。国橋音大のファミリーマートは構内の屋外にある。店先には、丸いテーブルと椅子がいくつか並べられている。白い円卓には、雨除けにも日除けにもなる大きな傘がついている。テーブルが空いていればそこに座って、ファミリーマートで買ったものをすぐに食べられる。
暖かい陽気が気持ち良くてポカポカ晴れていた。もし席が空いていたらパンかおにぎりでも買って、ちょっと座って小腹を満たそうかな、と思った。
構内のファミリーマートへ歩いて向かうと、長身の男性が座っているのが見えてきた。
「ん……?」
渡瀬先輩が店先の椅子にどっかりと座って、煙草を吸っていた。
「お疲れさまです」
思い切って渡瀬先輩に声をかけてみた。
「あぁ、水沢さん……」
煙草を吸っている渡瀬先輩は、澄んだピアノを弾く気高い姿とは違って、気怠い雰囲気を感じた。
「先輩、煙草吸うんですね」
渡瀬先輩と同じテーブルの斜め向かいに座ってみた。
「うん……あ、煙草は平気?」
「はい」
私は煙草を吸ったことがない。家族も全く吸わない。でも地元の逗子を夜に歩くと、前方を歩いているサラリーマンたちの煙草の煙を、受動的に吸うことがよくあった。その煙の味は好きだった。甘くて好きな匂いがした。
「この後の演奏会、聴きに行きますか?」
「うん、行くよ。……なんか買ってくる?」
渡瀬先輩は煙草を卓上の灰皿につぶし、穏やかな顔を私に向けた。
ファミリーマートでランチパックのサンドイッチとアイスカフェラテを買ってきて、渡瀬先輩の斜め向かいにもう一度座った。
渡瀬先輩は次の煙草を吸っていた。
「今日の演奏会、吉井門下の院生も出るんですか?」
「うん、そうなんだよ。浅野さん、土井君、三田さんの3人が吉井門下だね」
浅野さん……これからラヴェルの『夜のガスパール』を演奏する、浅野朋美先輩のことだな。土井先輩はショパンのバラード4番だったかな……三田先輩は、メシアンの『幼子イエスに注ぐ20のまなざし』だったと思う。記憶のなかから、階段の踊り場に貼り付けてあった演奏曲目を探り出す。
「吉井門下でも、みんなでレッスンを聴き合ったりするんですか?」
「それはないよ。あれは今本先生の独自スタイルだね」
……そうなんだ。まぁそうだよね。
「2人の先生からレッスンを受けるとか、大変じゃないですか?」
「ん? なんで?」
「いや、同じ箇所なのに違うことを言われたりとか……」
「うーん、ピアノはそんな大変じゃないよ」
渡瀬先輩はひと息つくように、煙草の煙をゆっくりと吐き出した。甘い匂いがする。
私もランチパックサンドイッチを開けた。
「……論文は大変だけどね。まぁ、論文指導の先生は1人なんだけどさ」
「やっぱり博士だから、論文を書くんですか?」
「そうなんだよね。ピアノだけならいいんだけどね、論文はきついんだよねぇ……」
「どれくらい書くんですか?」
「……六百枚?」
「六百枚って、四百字詰めの原稿用紙ですか?」
「そうそう」
「……そんなに書かなきゃいけないんですね。すごく大変そう」
「ピアノだけ弾いていられたらいいんだけどねぇ……」
渡瀬先輩は煙草をふかしながら遠くを見つめた。土埃にうっすら覆われた白い円卓に渡瀬先輩の左手が置かれている。無造作なようでも、ピアノを弾く構えをしていた。
「先輩は、何を研究してるんですか?」
「研究? あぁ、僕がやってるのはベートーヴェンの演奏法。ほんとは書くより、弾いてたいんだけどね」
「ピアノが本当に好きなんですね」
「そうだねぇ……まぁ、ベートーヴェンは論文が書きやすそうだから選んだかな……」
「そういうのがあるんですか?」
「うん、書きやすいほうがいいよね……できればね、論文よりピアノに専念したいし」
「ですよね」
相槌を打つように同調したけれど、そうまでしてピアノに専念したいという渡瀬先輩の気持ちは、正直なところ分からなかった。でも先輩の話をもっと聞きたい、このまま話を続けてほしいと思った。
渡瀬先輩はピアノが好きすぎて、博士課程まで来てしまったようだ。話を聞いていると、すんなり納得がいくものがある。目の前にいる先輩のイメージと整合性を感じた。音楽を研究したいから博士課程に入ったというより、ピアノを弾き続けたくて辿り着いたのが博士課程だったという感じがする。
「……まぁベートーヴェン、好きだけど。ラヴェルとかフォーレとか弾きたくなるよね」
「フランスもの、いいですよね」
「洒落てて良いよね。……水沢さんはベートーヴェン好きなの? 悲愴、良かったよね」
「ベートーヴェン、好きですよ。先輩は好きな曲、何かあります?」
「後期のソナタが好きなんだよね。作品109、110、111を通しで、博士の修了演奏会で弾きたくてさ」
……後期のソナタ。どんな曲だろう。
「すみません、私その曲知らなくて。後で図書館でCDを借りて聴こうと思うんですけど、演奏は誰がお薦めとか、あります?」
「あ、知らない? ベートーヴェンのソナタはグルダがいいよ。全集、図書館にあるから聴いてみ?」
“グルダ ベートーヴェン 109 110 111”と簡単にメモをとった。
「そろそろ時間だし、行こっか」
渡瀬先輩は煙草を灰皿につぶして立ち上がった。私も食べ終わったランチパックとカフェラテを片付ける。
「先輩、煙草は結構吸うんですか?」
「あぁ、一日で一箱ね……普通だよ」
渡瀬先輩はファミリーマートわきに停めていた自転車を取りに行き、横で押して歩き始めた。そのままコンサートホールへ向かう。その隣についていった。
「先輩はこの辺りに住んでるんですか?」
「うん、この辺。水沢さんは?」
「あ、私も」
「自転車は?」
「私、自転車に乗れなくて」
「へぇ、珍しいね……うちは裏口から出て右? 左?」
「左ですね」
「あぁ、あっちの治安が良いほうね。僕は右で、治安の悪いほう」
「え、右のほうって治安が悪いんですか?」
「知らない? 色々あるって噂だよ、気をつけた方がいいよ」
渡瀬先輩のくだけて飾らない話し方のお陰だろうか? 私の緊張は随分と和らいでいた。渡瀬先輩は偉ぶったりしない、むしろ自分を低く見せようとするひとなんだと思った。何か突っ込むべきではないかと、こちらが戸惑ってしまうほどに。すごいですね、と褒められることが多いんだろう。だからなのか、謙遜が板についている感じがする。
構内のコンサートホールに向かって、自転車を押して歩く渡瀬先輩と並んで歩いて、喋った。
「浅野朋美先輩って、どういう人なんですか?」
「ん? なんで?」
「いや、夜のガスパールを弾くなんてすごいなって思って」
「あぁ……浅野さんはね、院に首席で入学したんだよ」
「え、すご……」
「浅野さん、ピアノうまいよ。いい音してる」
渡瀬先輩は浅野朋美先輩のピアノを、真面目で真剣な口調で褒めた。
いい音……そう、渡瀬先輩もいい音をしている。渡瀬先輩はいい音が欲しいんだ。
(……ピアニストだ)
渡瀬先輩はピアニストだ、と思った。いい音をひたすら追い求めてやまない存在というのは、私にとってピアニスト以外の何者でもなかった。
……渡瀬先輩はいつ、浅野先輩のピアノを聴いたんだろう? 吉井門下生ではお互いにレッスンを聴き合うことはないって、さっき言っていたけれど……本番直前にリハーサルで集まったりする機会はあるのかな? 小さな疑問が生まれた。
コンサートホールに着くと、渡瀬先輩から座る席を訊かれた。
「手が見えるところがいい? それとも響き重視で後ろに座る派?」
「手が見える場所によく座りますね」
「そっか……」
観客席の前方で、ステージ上のピアノの鍵盤が見えやすい位置に、渡瀬先輩と並んで座った。
渡瀬先輩の隣に座れて嬉しい。コンサートホールの席の配置は距離感がないからドキッとした。小ホールを見渡すと空き席が多かった。点在する観客のなかには今本先生の姿もあった。
拍手で1人目の出演者が迎えられて、演奏会が始まった。
声楽専攻でドイツ歌曲をシックに披露するテノールの先輩、金のフルートの甘く伸びやかな音色を豊かに響かせる管弦打楽器専攻の先輩もいて、多彩なプログラムだった。
私はピアノを聴くのが一番好きで楽しい。ピアノ専攻の先輩たちのなかでも、やっぱり渡瀬先輩と同門にあたる、吉井門下の先輩たちが気になる。
土井先輩が弾くショパンのバラード4番は情熱的で懐が深くて、曲の流れに身を委ねたくなるような力強さが心地よかった。三田先輩が弾くメシアンの『幼子イエスに注ぐ20のまなざし』は不協和音が多く、何だか哲学的な印象もある、前衛的で難解な曲だった。
そして演奏会のトリ……最後の出演を飾るのは浅野朋美先輩が弾くラヴェル作曲『夜のガスパール』。
浅野先輩が幕裏からステージに現れた。目が覚めるように美しいエメラルドグリーンのドレスをまとっていて、早足でピアノへ向かう。ピアノの前に着くと観客を見て、お辞儀する直前、浅野先輩は少しだけ微笑んだ。
(……かわいい)
息を呑んだ。浅野先輩は長身で痩せていて立ち姿に迫力があって、顔立ちは儚げで綺麗だった。女王のように華がある佇まいなのに、可憐な顔立ちの美人。でも浅野先輩の微笑みには小さな棘を感じたような気がした。笑うと少し、表情に毒が混じるような。
座ってから椅子の横に手を添えて、高さを調整する姿も雅で麗しい。滑らかで自然な仕草が気高く見える。
しんと静まり返ったホールで浅野先輩が『夜のガスパール』を弾き始めた。スタインウェイピアノから浅野先輩の音がひきだされる。
魔物のような音だった。そのまま、浅野先輩の弾くラヴェルに引き摺り込まれた。演奏を聴いていると、否応なく浅野先輩の世界に取り込まれていく。艶かしい音が無限に重なって連なり、そこに流れる時間をピアノが支配すると、その場にいるだけで支配されてしまう。今本先生の演奏みたいに突き刺さってくるのとは違う。渡瀬先輩の演奏みたいに包み込まれるのとも違う。強制的に、浅野先輩が展開する世界のなかに召喚されていくような。
『夜のガスパール』の一曲目、“オンディーヌ”の後半では、繰り返し規模が拡大するかのように、もう一度、もう一度と容赦なく、広い世界へと連れていかれる。
二曲目の“絞首台”では、諦観が横たわるような絶望を感じるのに、その世界に入り込んでみると、諦観が柔らかくまとわりついてくるみたいに心地よくて、何だか海で泳いでいるみたいな浮遊感に満たされる。
三曲目の“スカルボ”は、浅野先輩の妖艶な音色がまさにぴったりだった。その音が密集する迫力は凄まじく、技巧の難しさを感じさせない完成度で、孤高の域を感じた。鍵盤を縦横無尽に駆ける手の甲は、柔らかく指先まで繋がっていて、手先が生き物として命を宿して、独立しているかのような動きだった。鬼気迫るような美しさで、完成した世界がそこにあった。ちょっと怖くなる。冷たさを湛えた、恐ろしい世界へ飛び込む旅に誘われて、いつの間にか深みに潜り込んでいて、演奏が終わると元の世界に戻ってきていた。
浅野先輩が『夜のガスパール』を弾き終えて立ち上がり、深くお辞儀した。拍手をしながら、妖しい魅力に翻弄されて疲れたような感覚があった。細身で儚げな女性が圧倒的迫力でこの難曲を弾きこなすというだけでも、ギャップが凄すぎると思った。もちろん弾きこなしただけじゃなくて、浅野先輩が表現した世界観は確立されていて、聴き手を強烈に惹きつける力強い演奏だった。ピアノを弾く浅野先輩の全身から発されていた妖艶な魅力に一撃で魅了されていた。
我に返って、隣の渡瀬先輩をちらっと見た。幕裏に戻っていく浅野先輩を、集中して渡瀬先輩の目が追っているのが分かった。
……浅野先輩のピアノには、誰だって夢中になるよ。
コンサートホールから出て、大学の裏口まで渡瀬先輩と一緒に歩いた。外はもう暗くなっていた。夜風が少し冷たくて、涼しくて心地よかった。
「浅野先輩、ほんとに凄かったですね……」
当たり障りない話題をふってみた。
「凄いよね……負けないようにしないと」
「渡瀬先輩のピアノは、また違うじゃないですか」
「うん……でも頑張らないとね」
「ですね」
会話が途切れた。
自転車を横で押して隣で歩いてくれるのは渡瀬先輩の気遣いだ、と思った。隣を歩いてくれるだけで嬉しい。
裏口に着くと、渡瀬先輩は自転車に乗った。
「じゃあ、またレッスンで」
渡瀬先輩は私を見て、右手を上げて少し微笑んで、自転車を立ち漕ぎしながら右方向へ去っていった。