渡瀬先輩と会う夏休み
夏休み、一人暮らしのアパートで冷房を浴びながらピアノを練習していた。
二年後期の術科試験はベートーヴェンのピアノソナタ全楽章が課題曲だ。休み前のレッスンで今本先生は、初期の作品はどうだ? と仰っていた。古典派らしいベートーヴェン初期の作品をきっちり仕上げるのがいいんじゃないか、と。でも私は後期のソナタに興味があった。作品109、110、111。渡瀬先輩と同じ曲を弾いてみたい。弾けるようになってみたい。せっかくベートーヴェンのピアノソナタをじっくり練習できるんだから。109と110を少しずつ、さらい始めた。111は完全に渡瀬先輩のイメージだから、私があえて弾こうとは思わなかった。
ピアノの譜面台横に置いた携帯電話が鳴った。メールだ……え、渡瀬紘人って⁉︎
“水沢さんお疲れさま。コンチェルト、そろそろ一回合わせる?”
思いがけず渡瀬先輩から届いたメールが嬉しくて、すぐ返信した。
“はい、やります! ありがとうございます”
“また部屋とっとくね。5号館で2台ピアノの部屋”
“いいんですか?”
“うち大学近いから。行ったついでにとっとく”
渡瀬先輩からの返信も早くて、ドキドキした。
当日、鞄の中に渡瀬先輩へ贈るTシャツをしのばせていった。昼下がり、大学まで自転車を走らせる。緊張と嬉しさでいっぱいなのに、胸のあたりがふわりと軽い。暑くて汗が流れることすら、何だか清々しい感じがする。
五号館の部屋、ドア横の長椅子に座って渡瀬先輩を待つ。
二分ほど遅れて、廊下の向こうから急いで歩いてきた渡瀬先輩は、優しく柔らかい笑顔だった。
「ごめんね遅れて」
「いえいえ! 伴奏の合わせ、ありがとうございます……あの、これ、もし良かったら」
二台のグランドピアノが横に並ぶ部屋に入ってから、プレゼントのTシャツが入った伊勢丹の袋を鞄から取り出して、手渡した。
「え、なに? プレゼント?」
紙袋を手に取った渡瀬先輩が開封し始めた。
「はい。渡瀬先輩に似合うかなって思って……」
「へぇ、Tシャツ。いい色。ありがと」
渡瀬先輩の目が嬉しそうに一瞬光り、微笑んだ。困惑や驚いたりはせず、あっさり自然に受け取ってくれた。
「じゃ、始めよっか」
「はい」
完全に閉まっていたグランドピアノの蓋を渡瀬先輩が開け始め、コピーの譜面を置いて準備を進めるのを見て、私も隣のピアノでそれに続いた。
隣のピアノで互いに目を合わせると、冒頭の力強いオーケストラパートを渡瀬先輩が弾き始めた。それを導入に私はピアノパートを弾き、広音域の和音を重ね、渡瀬先輩と息を合わせ、タイミングを感じ取った。隣で合わせて弾いていると、渡瀬先輩のリズムを感じる。刻まれる拍の揺らがない安定感が心地よい。テンポの変化が場面の転換を導いているのが分かる。後半、互いにかけ合う速度が増す情感的なところを、渡瀬先輩と一緒に弾けることが嬉しい……
今回やる一楽章をひと通り弾き終えて、特に合いにくい難しいポイントを、一緒に楽譜を見ながらひとつひとつ確認していった。
合わせを終えると二人で部屋を出て廊下を歩き、五号館前の自転車置き場に向かった。
「暑いね」
渡瀬先輩が話し始めてくれて、二人で歩く緊張が和らいだ。
「今日はほんと、ありがとうございました」
「ううん、合わせといたほうがいいよね。水沢さんは自転車?」
「はい」
「喉乾いたからさ、コンビニ寄ってこうかと思うんだけど」
「私も喉乾いたんで、行っていいですか?」
「うん。あっちにミニストップとセブンがあるよね?」
大学構内のファミリーマートじゃなくて、裏口を出て左側。渡瀬先輩の住まいの反対側で、私が住んでる方向にしばらく自転車を走らせた。道が狭いので一列になり、私が前を行く。
ミニストップとセブンイレブンの並びが見えてきた。私がいつも行く、近所のコンビニ。ミニストップには野菜やお肉や果物もあるから、スーパーが面倒で行きたくない時にはよく寄る。不意に渡瀬先輩とコンビニに行くことになって、いつもの何てことない日常に好きなひとが入り込んできたみたいで、心が躍った。
コンビニが間近に迫って渡瀬先輩の自転車と横に並び、どっち行きます? と訊くと、ミニストップ行こう、と即答された。自転車を停めて二人でミニストップに入り、飲料コーナーを見た後、渡瀬先輩がお菓子コーナーのチョコレートの陳列に向かい、私はついていった。渡瀬先輩は個包装の明治ミルクチョコレートスティックパックを迷わず手に取り、朝はいつもこんなん食べてるから、と呟いた。
「えっ朝がチョコ? だけですか?」
「うん」
「え、お昼まで持たなくないですか?」
「ううん大丈夫。朝って時間ないし」
私も大したものは食べてないけど、朝がチョコだけってインパクトあるな。
二人でレジに並び、渡瀬先輩はお茶とチョコに加え、煙草も買った。私はお水を買った。そのまま自然とミニストップ前の喫煙コーナーに向かって、渡瀬先輩は立ったまま煙草を吸い始めた。私はその隣に立って、受動喫煙は久しぶりだな、と思った。この甘やかな匂い、身体に良くなくても嫌いじゃない……むしろ好き。
「夏休みは何か新しい曲、さらってるの?」
煙草を吸いながら、渡瀬先輩が話しかけてくれた。
「あ、この前先輩も弾いてた、ベートーヴェンの109と110を譜読みしてます。後期の試験が、ベートーヴェンのソナタなんですよ」
「109と110ね。いいよね」
「あの、先輩の研究って、ベートーヴェンなんですよね?」
「うん。まぁでも、どっちかっていうとシェンカーだけどね」
「シェンカー?」
初めて聞く名前だった。
「シェンカー。ハインリヒ・シェンカーね。音楽学者で、楽曲分析で知られてるひと。僕はベートーヴェンを例に、シェンカーの演奏論につなげて書いてててさ」
「へぇ……すごいですよね」
「ん? 何が?」
「いや、なんか先輩って覚悟が決まってるっていうか。音楽の道に迷いがなさそうっていうか」
「うん。そうだね」
渡瀬先輩の目は少し遠くを見ている感じがした。
煙草を灰皿につぶし、さっと自転車に乗った渡瀬先輩を見て、私も急いで自転車に跨った。
「このあとエクセル行かない?」
「エクセル?」
「コーヒー飲みたくない?」
……カフェだ! エクセルシオール!
「飲みたい! 行きます」
二人で自転車を走らせて、立川のエクセルシオールカフェに向かった。モノレール沿いに、広い道を自転車で二、三十分。立飛、高松のあたりは街開発の最中かもしれない。そんなふうに窺える街並みを通り抜けて、立川へ向かった。渡瀬先輩と横に並び、時々速度を落として少し喋る。たまにこちらをちらっと見て、ペースを合わせてくれてるのが分かって、嬉しかった。
「立川まで自転車、よく行くんですか?」
「うん、たまにだけど。モノレールの交通費浮くから」
「たしかに」
「いつもモノレール?」
「そうですね、自転車で来るのは初めてですね」
何てことないお喋りが楽しい。
立川の賑わいに入ると渡瀬先輩が先を行き、エクセルシオールカフェへ連れていってくれた。
エクセルシオールカフェに入ると煙草のにおいが漂ってきた。そっか、喫煙OKなんだ、と思った。冷房がよく効いて涼しい。渡瀬先輩と列に並んで注文して、小さな相向かいの席に二人で座った。渡瀬先輩と私のどちらも、ホットコーヒーを頼んだ。コーヒーを味わうには、ホットでブラックが一番だと思う。私はエクセルシオールのコーヒーが初めてだから、味の特徴を知りたくてそうした。外は暑いのに渡瀬先輩がホットを選んだ理由は分からないけど、どことなくこの空間に慣れている感じがあった。
ほの暗い照明に、お洒落な洋楽がBGMで小さく流れる。ほどよく静かだけど、お喋りに抵抗は感じない、寛げる店内でいいなと思った。
「よく来るんですか?」
「うん、時々ね」
「ここのコーヒー、美味しいですね。好きかも」
濃いめのどっしりした味わいで、酸味のバランスもちょうど良くて本当に美味しい。ドトールのコーヒーも好きだけど、エクセルシオールのはもっと好きかも。
「いいよね。エクセルのコーヒー」
「先輩はここで、論文書いたりとかするんですか?」
「うーん、ボーっとしてることのほうが多いかな……昨日見た夢のこととか考えてる」
「夢?」
「そうそう、寝てる時に見る夢。夢日記とか、つけてみたくなるんだよね。後から見返したら絶対面白いだろって」
「確かに、夢って面白いですよね」
「だよねぇ。最近ほんと、寝て夢見てんのが一番楽しくてやばいんだよね。ずっと寝てたい。廃人になりそうだけど」
「あはは」
少し会話が途切れた。渡瀬先輩が煙草を吸うのをそれとなく眺めた。目の前にいる好きなひとの姿を、自分の目に焼き付けておきたい。
「あの、前からちょっと訊いてみたかったんですけど」
「ん?」
「先輩は、院に進んだ時、進路はどうやって決めたんですか?」
「なんで? 気になる?」
「あ、いえ、進路を決める時、先輩はどんなふうに考えたのかなって……」
「進路ね。僕の場合、高校の時に大学を決めるほうが大きかったかな」
「高校の時……」
「宮下さんと仲いいって言ってたから、聞いてるかもしれないけど、うちは普通の家庭で、宮下さんとこみたいに裕福じゃないからね。僕は公立の高校で理系だったけど、医学部も志望できる成績がとれてたから正直ちょっと迷った」
「医学部と?」
「まぁ僕の親はもともとピアノに期待してくれてたからね、そんな迷わなかったけど。そう、僕の名前、紘人の字だってさ……」
「あ、それって」
「分かるよね。中村紘子から取ってる。中村紘子は嫌いだからやめてほしいんだけど」
渡瀬先輩は本当に嫌そうに、やめてほしいんだけど、と言い捨てた。渡瀬先輩の下の名前はひょっとして、中村紘子の紘の字が由来なのかな? と思ったことはあるけど、その名前を自分で嫌っている様子に少し驚いた。綺麗な名前なのに。
「紘人って名前、素敵だと思いますけど……」
「うん、ありがと」
それはよく言われるし分かってるよ、と言われた感じがした。
ピアニスト中村紘子の演奏は、CDでベートーヴェンの『悲愴』二楽章しか聴いたことがなかったけど、ちょっと大雑把な印象を受けたのを思い出した。渡瀬先輩の緻密で丁寧なタッチ、演奏スタイルを考えると、中村紘子が嫌いなのも分かる気がした。
「先輩の実家では、防音ってどうしてました?」
「防音ね。うちは普通の分譲マンションなんだけど、グランドピアノに消音加工したんだよね」
「消音加工?」
「うん、ピアノに後付けで消音装置入れて、ヘッドフォンつけて弾けるようにする感じ。まぁ良かったよ」
「そういうのがあるんですね」
なんだか質問ばかりしてしまう。でも渡瀬先輩に嫌がるふうはないし、私も楽しい。このまま色々訊いてみたくなる。
「先輩はなんで、医学部じゃなくて音楽にしたんですか?」
「なんでだろうね。たぶん、どの道に行っても大変なのは変わらないから、好きなことじゃないとやってけないって思ったんだろうな」
目を少し伏せた渡瀬先輩は灰皿に煙草をつぶして、続けた。
「……まぁ、その時点で進路はもう決めてたからさ。大学院に進んだのは、そんな深い意味ないよ」
「周りの藝大の学生さんたちは、どんな進路を選んでました?」
「周り? 同級生は結構、普通に就職してたよ。航空会社の客室乗務員とか?」
「客室乗務員って、スチュワーデスさん? ですか?」
「うん、キャビンアテンダント? フライトアテンダントかな、そういうのとかね。結構いい会社に入ってたよ。そんな人数多くないけど、もとから」
「藝大は人数少ないですもんね……音楽は全然関係ない、一般企業の就職なんですね」
「そうだね。美術系はともかく、音楽系で就職に活かすのはなかなか難しいよね。そこで方向転換してるひとが多かったかな」
「やっぱりそういう感じなんですね……あ、いや、この前今本先生の演奏会で遠藤さんとお会いしまして。それで進路について、ちょっとお話聞いたんですけど、大学院に行くか就職活動の二択だって仰ってたので」
「あぁそうなんだね、遠藤さんがそう言ってたんだ。でも国橋の院はおそらく、学部より定員をかなり絞ってるから、そこは気をつけといたほうがいいかも」
それは確かに、そうだと思った。学部はピアノ科だけでも百人ほど同級生がいるけど、院生となると同じ学年に一桁しかいない。
渡瀬先輩はコーヒーのマグカップを手元に置いて、続けた。
「院試……大学院を受ける入試みたいなのがあるから、その曲目を確認しとくといいよ」
そのあとは自転車にもう一度乗って、玉川上水を目指してモノレール沿いに走った。もう陽は落ちてきていて、夕焼けが綺麗だった。
「帰ったら練習?」
横を走る渡瀬先輩から訊かれた。
「そうですね。渡瀬先輩も練習ですか?」
「僕はちょっと論文書き進めようかな」
「あの論文、すごい素敵でした」
「続き、また読んでみる?」
「……はい!」
「もう一回くらい合わせといたほうがいいと思うから、そんとき見せるよ」
「はい! 楽しみにしてます」
二年後期の術科試験では、ベートーヴェンピアノソナタの作品109か110を弾こうと思い、あらかた弾き通せるようになった。どちらにも気高い美しさを感じるけど、ある意味、109には俗世から解脱したような、悟りに近い清らかさを感じるのに対し、110はもっと人間くさくて、重々しい悲哀と力強い歓喜との対比が感じ取れる気がした。
まぁまぁ弾けるようになったし、今本先生に一度見てもらおうかな。そうだ、学生の間は確か、今本先生のホームレッスンが無料だったはず。まだ二学期のレッスンが始まるまで日にちあるし、この夏休みに行ってみようかな……
前回の合わせから一週間後。もう一度渡瀬先輩に五号館の部屋を取ってもらい、待ち合わせた。
チャイコン一番を合わせると、楽譜に書き込んだポイントを互いに注意して弾けるようになった感がある。タイミングが合った感覚が徐々に強まり、そんなタイミングが増えてきた。渡瀬先輩のテンポに倣って合わせるんじゃなくて、合わせるべきポイントを意識しながら、自分のテンポを出せるように……あくまで渡瀬先輩のオーケストラパートは伴奏で、私がソリストにあたるんだから。
渡瀬先輩の服装は、前回の合わせ前にプレゼントしたTシャツじゃなかった。そんなにすぐには着てくれないよね、と自分に言い聞かせる。だいたい、本当に喜んでくれたかどうかなんて分かんないんだから。
四十五分ほどで合わせを終えると、渡瀬先輩は五号館前の喫煙コーナーに立ち寄った。私はそばで渡瀬先輩の横顔と細くのぼる煙を見て、甘い匂いを吸っていた。
「あの、先輩の論文見せてもらえるって言ってたの、楽しみにしてたんですけど」
「あぁ、そうだね。このあと図書館行こっか」
夏休みも変わらず開いている大学構内の図書館に着くと、渡瀬先輩がちょっと待っててね、と言って黒いバインダーを持ってきた。これに渡瀬先輩が執筆中の論文が入っていることを私はもう知っている。そしてもう一度、読ませてもらえる。それが無性に嬉しかった。ぱらぱらページをめくって目を通させてもらう。読み飛ばしていても、美しい文字列が自然と目に飛び込んできた。
“最も注目すべきことは、彼の音楽理論用語を借りると後景や前景のような、楽曲の垂直的な構造的連関に主眼を置いていることである”
“彼は、階層間のこのような関係性を論じる上で、同じ現象に対して二つの表現法を用いている”
“つまり、種まきと収穫という表現には階層間の密接な連関を読み取れると同時に、解体や剥離と言う表現には、お互いの階層が引き離されてそれぞれが独立に向かう衝動が感じられるのである”
“拘束と自由、この相反する要素の均衡こそが、緊張感をもった一つの形態へと作品全体を導く前提であると彼は感じていたのではないだろうか”
言葉の定義を突き詰めていくみたいな……これは哲学じゃないのか? いやでもやっぱり美学だ、音楽学っていうのは広い意味で美学に入るんだから……
「この“彼”ってのはシェンカーのことね。シェンカーは演奏を言葉で捉えようとしててね、ベートーヴェンのソナタを例示しながらやってるんだよ」
演奏を言葉で捉える。それが渡瀬先輩のやりたいことなのかな。それも従来の楽曲分析的な手法に頼らないで、哲学的なアプローチで書こうとしてるのかも……この場で丁寧に読み込める雰囲気じゃないけど、飛ばし読みしながらでも少しでも覚えておきたくて、食い入るように読んだ。
図書館を出て階段を降り、自転車を取りに向かいながら少し喋った。
「そういえば、今本先生のホームレッスンに行きたいと思ってるんですよ」
「ホームレッスン? 僕も行きたいな」
「え? ほんとですか?」
「うん。予定合わせて行こうよ」
「……はい!」
「またメールして」
八月の下旬。午後四時の少し前に新井薬師前駅の南口、小さな改札前で渡瀬先輩と待ち合わせした。
「今本先生のおうちに行くの、私初めてでして」
「僕は前に一度行ったんだよね」
駅前の狭い道を抜けて広い商店街に出てから、十五分ほど歩いていく。
「あれだよ。すごい家に住んでるよな」
低層のビルに似た、コンクリート造りの建物が今本先生の自宅だった。四階建てくらいだろうか? インターホンを押し、玄関から今本先生に出迎えられた。お邪魔すると玄関すぐにスタジオがあり、そこへ通された。スタジオはかなり広く、スタインウェイのグランドピアノが二台並んでいるのに、その面積はスタジオ全体の半分にも満たなかった。スタジオの広さは、グランドピアノ二台分の四倍くらいに見える。
「スタインウェイが二台あるんですね」
「そっちの小部屋にベーゼンドルファーもあるぞ」
今本先生が指したほうを見ると、確かに部屋の一角から小さめの部屋に繋がっている。渡瀬先輩は小部屋にベーゼンドルファーを見に行った。その小部屋は所狭しと机や本棚が並べられて、このスタジオより雑然とした感じだけど、グランドピアノも一台見える。あれがベーゼンドルファーなんだろう。今本先生の書斎だろうか。
スタジオの白い壁は扉付き本棚なのか、一部の扉が少し開いている。ヘンレ版の楽譜、グレー色の背表紙がずらっと並んでいるのが目に入った。
「この壁って、本棚なんですか?」
「あぁそう、壁全面が造り付け本棚な。楽譜をしまえるところが他にないからなぁ」
渡瀬先輩が、いいですね、と言って壁の本棚にも近づき、そばで楽譜を眺める。
「だろ? こういう本棚がずっと欲しかったんだよな」
今本先生は閉まっていた本棚の扉をいくつか開け、見せてくれた。深いグレー色のヘンレ版以外にも、深緑色のブダペスト版、赤いウィーン原典版、アイボリー色のパデレフスキ版、薄緑色の全音版など、大量の楽譜が並べられている。
「ほんと、広いスタジオですよね」
「ピアノトリオの練習もな、わざわざスタジオ借りなくてもここに集まってできるから、すごく便利なんだ」
小部屋から戻ってきた渡瀬先輩が、確かにそれはいいですね、と呟く。
「共演者には条件として提示できるから、なかなかいいんだよな。合わせる度にいちいちスタジオ探して予約するのは、まぁ料金も発生するし、そこそこ面倒なもんだからな」
ワン! と甲高い鳴き声が聞こえて振り向くと、黒色で短毛の小型犬が数匹、元気に走ってきた。その後ろから小柄で痩せた女性が現れて、こっちおいで、と犬たちに声をかけていた。
「こんにちは」
渡瀬先輩がその女性に挨拶した。こんにちは、と頭を下げられ、犬を呼び寄せて早々と撤収されていった。
「うちの妻と犬だ。犬は基本、二階より上で暮らしてるんだが、これから散歩に行くんかもしれんな」
「それじゃ、水沢からだな」
「あ、はい、よろしくお願いします」
今日のレッスンには、ベートーヴェンピアノソナタのOp.109と110を持参した。譜めくりの回数を減らすため、自分用の譜面は縮小コピーをメンディングテープで貼り合わせ、作成してある。これも渡瀬先輩を見て倣ったことだ。そのコピー譜を譜面台に並べ、ヘンレ版の分厚い楽譜は今本先生に手渡す。
どちらもレッスンは初めての曲だから、独特の緊張感がある。一度見てもらって二度目からは緊張しなくなることは分かっているけど、毎回同じように緊張する。渡瀬先輩も聴いてくれている、この空間。
「最後まで弾けるようになったか? じゃあ、通して弾いてみるか。まずは109、全楽章でな」
今本先生はピアノから離れた位置の長机に渡瀬先輩と並んで座り、楽譜を広げた。そこからだと弾き手のちょうど真横から見えるから、長机に座れば、ピアノを弾く様子が分かりやすく把握できそうだ。
109の第一楽章から弾き始める。今本先生のスタインウェイは強弱が反映しやすく、なかなか弾きやすいと思った。
109の繊細で軽やかな出だしは、まだ速度の粒を揃えられない。Subitopiano(すぐに弱く)の表現も、まだこなれていない。第一楽章の終盤、いきなりシンプルに、和音だけでメロディーをつくる箇所が差し込まれる。ここがたまらなく好きだから、溺れず上品に、凝縮された気品を端的に示してみたい……そして優しくノックするように閉じられる楽章のさり気なさ、奥ゆかしい存在感を弾き表したい。
109の第二楽章は高速で力強く、堂々と弾き切らなければ逆に格好悪くなりそうな怖さがある。決めるところをきっちり決めないと目立ちそうなプレッシャー……弾き込み不足なりに、テンポは落として確実に、せめて強弱は示せるように。
第三楽章は長い変奏曲で、かなり弾き込んだ円熟の味を出せるまでいかないと、稚拙で迫力不足になりそうだ。穏やかに開始して徐々に高まっていき、主題を変奏することで更に高まり、こみあげてくる表現が重なり連なっていくような、そんな仕上がりを目指さなくてはならない曲。もちろん今の私にはそんな珠玉の演奏ができるはずもなく、萎縮してるからきっと、何やってるのか分からない感が出てしまう……
「うん、まずは弾き通せるようになりましたってところだな」
今本先生が長机を立って、こちらまで歩いてくると、私が座っている隣のもう一台のスタインウェイに座った。出だしから今本先生がさらっと弾き始め、お手本を見せてくださる。まずは全体の曲想を掴まなきゃいけないと言わんばかりに。
録音で繰り返し聴いても、それを自分の手で再現はできない。それなのに自分のすぐ隣で、細かく区切りながら模範を見せられると、不思議なことに、それっぽい演奏をその場ではできるようになる。本当に不思議、レッスンの妙だ。ベートーヴェンらしさを強く打ち出せる、厳密な休符使いと明確な強弱表現は特に自分一人ではどうしても怖気付いてしまうところがある。それを「このように真似して弾いてみなさい」と導かれることで、堂々と思い切りよく弾ける感がある。それに素直に従えるのがありがたいことなんだと思う。こんなふうに弾きたいと思う美しい演奏を、私の隣で弾き示してもらえることが。家で一人の練習はきついけど、レッスンは楽しい気がする。今本先生のおうちスタジオという、非日常空間が楽しいっていうのもあるけど。
109の初回レッスンを終え、続けて110を弾いた。
110の第一楽章……この穏やかで静かな高まり、煌めくような高音とそこはかとない哀しみを、上品にまとめられたらどんなに素敵だろう。挑戦しがいがありそうな、柔らかい光が差し込むような気品の香りを、どうやったら表に引き出せるだろうか。今、私の手指が楽譜の音をなぞって弾いているこの演奏からは、立ち上がってこないのが自分でも分かる。弾き込めば多少こなれるのは間違いないけど、だれてくるようじゃダメだし……
110の二楽章の曲想は、109のそれと似てるような気がする。高速の短調。いつもの私はこういうテンポの速い短調で激しい曲調が好きだけど、この二曲、109と110に限っては、その感覚がないかもしれない。一番気持ちが入り込みにくいのがテンポの速い楽章って、私にしてはちょっと珍しいな。
三楽章のこの荘厳な広がり、威厳のある格調はどうやったら出せるんだろう。渡瀬先輩は初回のレッスンでも、格調の片鱗を窺わせていた。沈鬱な出だしが夢幻的な広がりを見せ、ゆっくりと始まる嘆きの歌。少しずつ高まるフーガでテーマが構築され、歓喜の終結部に繋がっていく110の第三楽章。この楽譜の奥に本来宿っているはずの緊迫感……私に弾き表せるんだろうか?
「うん。弾き方のことでな。これからの暗譜にも関わるから先にやっておくけど、三楽章のここはタイで弾きましょう」
譜読みのミスを正すような雰囲気で、今本先生が譜面を指差し、説明する。スラーで繋がった二つの同じ音は、連打せず、実質一音のように伸ばして弾く。楽譜を読むルールの一つであるタイ。
「タイで?」
「右手のA(音名ラのドイツ語読み)の連続、二音がスラーで繋げてあるよな? ここ、連打で弾いてなかったか?」
「はい」
ここは確か、フリードリヒ・グルダの録音でも連打だったはず……スタッカートはついてないけど、ポルタート(ひとつひとつの音を柔らかく区切って演奏する)みたいな解釈でいいのかと思ってた。
「まぁ、ここは解釈が分かれるところではあります。スコダ……私の先生の考え方ですね。タイで繋げることで、想いの圧をかけていると考えます」
今本先生が淡々と説明する。
「渡瀬はどう考えるか?」
「このA、僕はアントニアのAだと思ってるんですよね。アントニア・ブレンターノの」
「あぁ、不滅の恋人な」
「ここでベートーヴェンは、アントニアを心で呼んでるんじゃないかと」
「そうかもしれないな」
「だから想いの圧をかけるってのは、納得がいく気がしますね」
不滅の恋人……ロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』を読んだ時、“不滅の恋人への手紙”っていうのが出てきた。それがアントニアさんで、110に隠されたメッセージみたく入ってるってことか……渡瀬先輩はそう考えてるんだ。
「それからここのペダル。踏みかえてないか? ここは濁って構いません、ここまでベタ踏みで」
さっきのAの直前だ。雰囲気作りが難しいところ……違う和音がペダルで混ざり合う濁りには抵抗感があって、和声進行に合わせて私はダンパーペダル(右ペダル)を踏みかえていた。このペダリングも、フリードリヒ・グルダの録音を聴いて真似たやり方を取ったものだった。
「ベートーヴェンの指示を守りましょう、原典版は自筆譜に忠実に書いてありますから。ベートーヴェン本人が残した、貴重なペダリング指示になります」
今本先生がお手本を弾いてみせると、和音が重なる濁りが独特の異空間を演出するような響きに聴こえた。
「このダンパーペダルの濁りが、幻想的な表現を作っていきます」
楽譜をきっちり読み込み、明確に解釈して惹き表すことが演奏を仕上げていくんだと、今本先生のピアノが語っているようだった。
おそらくここも、ピアニストによって解釈が異なるはずだ。ベートーヴェンのペダル指示とはいえ、濁らせる演奏はちょっと珍しいかもしれない。今本先生は師匠にあたるパウル・バドゥラ=スコダの解釈を引き継ぎ、継承されているのだろう。
入手しやすい全音版などの注釈版を避け、高価なヘンレ版を買っているのは原典版だからだ。ウィーン原典版でもいいけど、ヘンレのほうが楽譜が整然としていて見やすい感じがするので私は好きだった。
もっとも、国橋音大構内にはひと通りの楽譜を取り揃えたYAMANAMIの売店が入っているから、買うこと自体の敷居はそんなに高くない。お金さえあれば講義帰りに買える。パラパラっと立ち読みして、比較検討もできる。普通は大きな楽器店でないと売っていない楽譜が、すぐそこの売店に寄るだけで買える。周りのピアノ科のみんなも、だいたいヘンレ版を買っているようだ。注釈版ではなく原典版を選ぶのが音大生の常識だとも言わんばかりの空気感がある。高価でも、楽器店でなかなか売っていなくても、原典版の楽譜をあえて選んで買うのは、作曲家自身が楽譜に書き込んだ貴重な指示を見逃さないためだ。注釈版では編纂者の書き込みも作曲家の指示と同等に扱われているから、無自覚で編纂者の影響を受けてしまう。影響を受けるにせよ、区別して読み取るべきという指針のような雰囲気があった。広く国橋音大の空気としても、今本先生の指導方針としても。
それはちゃんと分かってるし、原典版を当然のように買って譜読みしてるけど、指摘されないと見逃してしまう細かい記載がやっぱりある。自分一人で読譜していると気付かずスルーしてしまいがちな、作曲家が自筆譜に書き込み、原典版が忠実に模写して引き継いだ指示を見落とさず、演奏に反映していかなきゃいけない。先生に教わった解釈を演奏で再現するよう努めるのは当たり前だと受け止めていたし、音大生はきっと、ほとんどの学生がそうやって弾いていただろう。
110を一楽章からざっと振り返り、大まかな曲想を掴めてきたところで私のレッスンは終わり、渡瀬先輩のレッスンとなった。
ベートーヴェンのソナタ作品111のレッスンを受ける渡瀬先輩を、長机の前に座って楽譜を読みつつ、ちらっと眺める。渡瀬先輩はもう少しでウィーンに行ってしまうんだな、と思った。当たり前のように互いのレッスンを聴き合い、渡瀬先輩の透きとおった綺麗な音に包まれ、レッスン前後に軽くお喋りできることは、オーディションを終えたら一年もの間、なくなってしまう。
ホームレッスンを終えた帰り道、新井薬師前駅に向かいながら、ほんといいとこに住んでるよな、と渡瀬先輩は呟いた。お金持ちなんですかねぇ、と答えつつ、国橋の大学院教授ってそんなに待遇いいんだろうか、それとも奥さまがお金持ちの家系なのかなぁ、などと私は考えていた。駅に着くと、僕は新宿で買い物あるから、と言って渡瀬先輩は反対側のホームへ行き、そこでわかれた。




