10回目 1:03 日付を跨いだ僕
10月16日23時5分投稿分
ちゃぽん。
かつて、こんなに柔らかく甘美な湯があっただろうか。これまで、ここを風呂としか認識していなかった。今日に限っては、ここは天使の浄化場だ。
こんなにまろやかな湯だとは……湯船に可愛さが溶け出している。気色悪くて結構だ。
0時を越えた。とうとう、日付を跨いだのだ。
今まで『今日』だったものが、『昨日』に変わる。『明日』だったものは、『今日』に変わった。
とても重要な事実がある。今日から、一応、リラリーは僕の婚約者だ。
一昨日、兄から僕へと跡取りが変更した。昨日から、僕が正式な跡取りということになっている。
というわけで、一昨日の時点で兄とリラリーの婚約は解消され、婚約者のすげ替えが行われた。即ち、僕に変更されたのだ。
僕は、夕焼け小焼けの部室で思っていた。彼女に告白するのは昨日だと、決めていた。一昨日でも、今日でもダメ。絶対に、昨日だと。
それは、どうしてか。
一昨日の時点では、リラリーは兄の婚約者だから告白など出来まい。そして、昨日の昼間、僕たちが王立学園に行っている間に、両家の間で婚約者の変更に同意が成された。よって、リラリーは、今日から一応僕の婚約者となる。
だから、昨日だけだったんだ。僕たちが、ただのクラスメートとして向き合えるのは。
三年間、片思いをし続けてきた男が。教科書だけは絶対に忘れずに毎日登校し続けてきた男が。どうしようもなく大好きな初恋の女の子に『君が好きだよ』と素直に伝えて、本心を教えて貰えるのは、昨日だけだった。
本心を教えて貰ったら、こんなことになっちゃったわけだけど……。
リラリーは、まだ知らない。兄と婚約が解消され、その弟と一応結婚することになったということを知らない。昨日、彼女が帰宅後に知らされる予定だったからだ。
まあ、帰れていないわけだけど……。
そもそもに、リリット家の由緒正しきご令嬢であるリラリーを、夜の森に連れ出すという異常事態に対して、『お預かりしますんで、宜しくね!』なんて手紙一枚送っただけで許されるわけもない。
リリット家は三人兄妹であるが、リラリーの兄は真面目で厳格な人柄だし、リラリーの妹も大変素行が良く、真面目で勤勉だ。
真ん中っ子のリラリーだけが、ちょぉぉおっと変なご令嬢に育ってしまっただけであって、子育てにゆるゆるのご家庭というわけではない。許されるわけもないのだ。
勿論、リラリーもリリット家に手紙を書いていたが、それを検閲した上で、僕もリリット家に手紙を書いた。
たった手紙二枚で、リラリーと夜の森で過ごすことが許されているのは、僕がルーンバルト家の嫡男であり、一応、彼女の婚約者だからだ。
……と、湯船に入りながら、こんなことを考えている僕だけど、何が言いたいか。
バスタオル姿くらい、見ても良いんじゃないかなってことだ。
だって、一ヶ月後には卒業だよ? 卒業と同時に、きっと結婚をするだろう。もしも結婚をしたら、逆にバスタオル姿は見られない。全部、見ることになる。見たい。とりあえず今は、バスタオル姿を見たい。
―― だって、リラリーが『見てもいいのに』って言ってた
言っていた。リラリーが、見ても良いと言っていた。免罪符を貼ってくれた。
ザバっ!!
僕は、湯船から出た。見よう。
結局、好きな子を前にしてしまえば、僕なんてこんなものだ。男の立てた誓いなんて、カリカリに焼いたクッキーよりも、脆い。
腰にバスタオルを巻いて、ドキドキとバスルームのドアを開けると、リラリーは暖炉の前のソファに座っていた。ソファの背が邪魔して、肩から下は見えない。
「あ、やっと出てきた。ねぇ、ちょっと考えたんだけど」
「な、なに?」
「一時間に一回キスをしないといけないわけだけど、夜中起きられるか不安でしょ?」
「そうだね、色んな不安があると思う」
「だから、交代で仮眠を取ることにして、時間が来たらストーカーさんを叩き起こしてキスをするということにしましょう。私が寝ているときは、勝手にキスをして大丈夫よ」
少し考える。解呪のためには、僕がドキドキする必要がある。よって、僕の意識がある状態でなければならない。寝てなどいられない。
一方で、リラリーは寝ていても大丈夫というわけだ。寝ているリラリーにキスをして、僕はドキドキできるだろうか。……おぉ、非常にドキドキできそうだ。
「あー……勝手にキスをして良いのは有り難いけど、僕は寝なくても大丈夫。リラリーは、朝までずっと寝ていていいよ」
「ふーん? ストーカーさんって、自己犠牲的な生き方が好み?」
「ははっ! それは違うよ。リラリーを大切にしたいだけだよ」
「だとしたら、少しは寝ないと明日に差し障る。森を出るまでは守ってもらわないと、即死案件だもの」
リラリーは、そう言ってスッと立ち上がった。
―― わぁああああ!!
急に立ち上がるものだから、見てしまった。見てしまったら、もう視線は動かせない。
―― 脚ぃいいい!
「ほら、そんなとこに突っ立ていないで。順応して」
順応しすぎなリラリーが、僕の手をグイッと引っ張って、ソファに座らせる。もう心中大絶叫だ。
森を歩いていた時と同じく、手を繋いでるだけだというのに、着ている服装で何故こうも感じ方が違うものなのか。着ている服装というか、着ていないというべきか。
リラリーに促されるがまま、僕は一人掛けのソファに座った。すると、彼女が対面にある一人掛けのソファに座るものだから思わずギョッとする。
暖炉を囲う『コの字』のソファ。僕は黙って、暖炉が対面になる二人掛けソファに移動をして、どうにか事なきを得た。即死案件だ。
暖炉の薪がパチッと小さく爆ぜた。顔は暖炉の方に向いているが、意識も目も、完全に右側の綺麗な脚に向いている。太ももが、尊い。
どうでも良い事実だが、僕は脚フェチというわけではない。勿論、肩も胸元も最高だが、パーティー仕様のリラリーを見たことがあるため、出ている面積で言えばドレス姿と大差はない。尊さで言えば断然、脚になる。
―― 太もも……夢……尊い
「こういうのって、浮気になるのかしらね」
「本当、急に現実に引き戻すよね」
本当に、リラリーは夢を壊すのが上手だ。
因みに、夜会仕様であるドレス姿の彼女の隣には、若草色の髪を靡かせた兄がいた。
年に二回程度ではあるが、リラリーをエスコートするのは、婚約者である兄だった。それを、中距離くらいから見ていた僕の気持ち。本当に嘆かわしい。
「大丈夫、浮気にはならないよ」
だって、もうリラリーと兄の婚約は、解消されているからね。ふふーん♪
「気持ちが伴わなければ、浮気にはならないってこと?」
「それだけじゃないけど、それは重要な点だね」
「じゃあ、気持ちが伴ったら、浮気?」
「え!?!」
思いっきり、リラリーの方に顔を向けてしまった。だって、今、なんて言った?
「リラリー。気持ちが、伴っているの?」
ドキドキと胸が動く。痛いくらいに、跳ね上がる。こんなの、キスをしなくたって解呪できちゃうじゃないか。
「え? 全然、気持ちは伴っていないけど」
スンとした真顔だった。スーーーン。
「そそそそうだよね。うん、大丈夫、分かっているから」
「……ストーカーさんは、婚約者とかいるの?」
「ははは、リラリーに求婚したの、もう忘れちゃった?」
「そうだったわね。でも、私に操を立てて独身を貫くわけではないでしょ? そのうち、貴方も結婚するのよね?」
「まあ、(リラリーと)結婚するよ。跡取りだし」
「ふーん」
リラリーは詰まらなそうに、暖炉の火を見ていた。
―― なんだろう、この感じ
何というか、リラリーが少しずつ変化をしているような気がする。
初めはキスを嫌がっていた。ストーカー認定された後なんて、距離を空けて歩いていた。
それがたった数時間で、どうだろうか。バスタオル一枚の姿で、僕の結婚の行く末を気にしている……おっと、語感が強いな。
「僕に、結婚してほしくない?」
「それは別にどちらでもいい。それより、……ストーカーさんと、友人関係になりたい」
「友達?」
「そんなの無理だと分かってる。でも、例えば、放課後に寄り道してカフェで話をしたい。休日に、薬草を取りにピクニックにいきたい。本を貸し借りして、感想を言い合いたい」
パチッと、爆ぜた。
「僕と、そういう風になりたいの?」
彼女は、小さく頷いた。
「もっと早く、隣の席の貴方に気付いていたら。三年間は、友達でいられたのかしら。もう遅すぎるけど」
刻一刻と、変わっていく。昨日は『明日』だったものが、日を跨げば『今日』になるように。リラリーが少しずつ、変わっていく。
僕は喉を鳴らして、焦る気持ちを落ち着かせた。でも、滲んだ焦りが、彼女をじわりと問い質していた。この攻防戦における、大事な局面を迎えている気がした。
「リラリー。それは『好き』とは違うの?」
「違うと思う、たぶん」
「じゃあ、もし、リラリーに婚約者がいなかったら? 自由に恋愛が許されるなら、僕の求婚は受け入れてくれる?」
僕の質問に、リラリーは悩むように、考えるように、こめかみに手を当てた。
「どうかしら……分からない。恋愛という意味なら、受け入れないかも。だって、」
「だって?」
「貴方に、全然、ドキドキしない」
「(グサァアアア)」
撤退だ。時期が悪い。僕は全速力で後退した。まだ焦る時間じゃない。大事な局面ではなかったようだ。撤退だ。
「そそそそうなんだ。分かるよ、大丈夫、ははは。お腹は減らない? 僕は、やけ食いしたい気分だよ」
「そう言えば、少し。でも、こんな時間だし太りそう」
意外だな、と思った。
リラリーは無頓着だ。部室のテーブルは乱雑だし、教科書だって毎日忘れている。
驚くこと無かれ、昨日は全教科の教科書を持って来ないという、令嬢にあるまじき偉業を成し遂げていた。教師もさすがに苦言を呈していた。そんなリラリーが、僕は大好きなんだけどね。
一日中くっついたままの二つの机。それが僕の告白の勢いを増したのは、言うまでもない。振られたけどね。
「じゃあ、ピクルスサラダはどう? 酸味があって美味しいよ」
「食べたい」
「すぐに用意するね」
でも、ここまで言われて、御行儀よく黙って撤退する僕ではない。
立ち上がって、彼女の前にスッと移動した。そして、十秒くらいかけて、ゆっくりとキスをしてやった。
「バスタオル姿のリラリーも、すごく可愛いね」
ドキドキしないなら、するまでキスをしてやるさ。
残り、14回?




