かくれんぼ、そしてファースト
逃げなくちゃ。逃げなくちゃ。
部屋を出たファーストがまず先に向かったのは玄関。
「なんで! 何で開かないの!?」
ガチャガチャと取っ手を握ってドアを叩くも、鋼鉄の扉はビクともしない。
「誰か! 誰か外にいませんか! 開けてください! 助けてください!!」
必死に扉の向こうへ呼びかけるも、帰ってくるのはザアザアと大量の雨が打ち付けられる音だけだ。
今日はファーストが起きたときから酷い雨だった。
最初は洗濯物が干せず困ってしまうと考えていたが、そんな暢気な過去の自分に今ではもはや恨みすら抱いていた。
『お口を拭く時間だけ、待ってあげる』
「ヒッ!?」
背後からはラヴの声が聞こえる。
決して声を荒げているわけでもないのに、彼女の声はいつだってファーストの脳から離れない。
何か魔法でも使っているのか、これだけ離れていても鮮明に聞こえてくるラヴの声は、今のファーストからしてみれば恐怖以外の何物でもなかった。
「こっち、こっちにも扉が!」
調理室付近の扉にも向かうが、やはりそちらもビクともしない。
右手は既に壊れ、もう動かすこともできなかった。こんな状況で逃げることなんてできやしない。
意識が遠のく前に治療しないと。
調理室から使えそうな器具を拝借する。
結局包丁とナイフくらいしか使えるものはなかったので、それを貰っていく。
「ああっ!」
ガシャンと調理室に金属音が響き渡る。
急いでいたのと右手に力がはいらないせいで立てかけてあった調理器具を床にばらまいてしまった。
気付かれていないだろうか。
器具を拾い上げる時間なんて無い。
ならば目に付く器具を片っ端から床に落とし、包丁を持ちだしたことを隠蔽する。
隣の保健室に移動したファーストは、その場で傷の手当てをした。
とは言え彼女は医者でもなければ衛生兵でもない。
手当の技術なんて素人以下だ。
「いっ……つぅ……っ!」
水を大量に流し、その中に傷口を当てる。
肉が削がれるほどの深い傷だ。そこに水を当てるというのは想像を絶するものだった。
不幸中の幸いだったのは、ラヴの一口が小さかったことだろうか。
これがもし大口でいったのであれば、もはや水を当てただけで気絶していたかもしれない。
「キュア、キュア、キュア、キュア!」
何度も何度も回復魔法を唱えては、肉が再生する痛みに歯を食いしばる。
一度で抉られた箇所全体を治せたのなら良かったのだが、今のファーストにはそんな高等魔法扱えない。
「ふーっ、ふーっ、ふーっ」
血を拭ったシーツに力一杯噛みついて、何とか叫び声を抑えられた。
「動か、ない……」
あまりの痛みに神経が麻痺したのか、傷口が塞がっても右手はピクピクと痙攣したままだ。
これでは使い物にならない。
持っていた包丁でシーツを切り刻み、その切れ端を右腕に巻く。
そしてそれを首に回し、固定することで何とか邪魔にはならなくなった。
『ファースト。今でてきたら、許して上げる。十数えるまでに出てきなさい』
「ひっ、ご、ご主人、様……」
身体が勝手に動く。
行かなきゃ。ご主人様が呼んでる。従わなきゃ。服従しなきゃ。
「い、行かない……!」
自分の足に包丁を刺し、その痛みで自我を取り戻す。
治癒魔法ですぐに治して、すぐさま保健室を離れた。どうやら切り傷は抉られた傷よりも早く治るようだ。
『……一』
カウントアップが始まった。
身体が恐怖で震え始める。
『……二』
このままでは見つかってしまう。
『……三』
何とか隠れる場所を探さないとと向かった先は、昔使われていたと聞いたロッカールーム。
『……四』
開いている扉を全て閉める。
『……五』
ロッカーの構造は二段構造で、ファーストくらいの大きさならば十分に入れる広さがある。
『……六』
「えっ!?」
魔法灯の真下へ行き、初めて自分の手に血糊がべったりと付いていることに気付いた。
『……七』
今まで触ったロッカーには血痕が付いている。
しかしそれ以外のロッカーに付けようとしても、もう止血は終わってしまっているのだ。
『……八』
「早く、早く、早く……!」
今手に付いているだけでも拭き取って、血が付着していないロッカーの扉を探す。
『……九』
「ここだ……!」
ようやく見つけたロッカーの扉を開けて、中に身を投じる。
『……十。……あはっ』
豪雨のはずなのに、旧舎内は不気味なほど静まり返っている。
雨の音は確かに聞こえる。しかし、まるでそれとは別の世界にいるかのように、ラヴの出す微細な音でさえ、すぐ隣で聞いているかのようにはっきり聞こえた。
『こんなに汚しちゃって、いけない子』
ゴリゴリ、ゴリゴリゴリ。
何かが床を這う音がする。
ダン、ダン、ダン、ダン。
何かが階段に打ち付けられる音がする。
カチャリ。
キィという摩擦音と共に、一瞬だけ豪雨の音が強くなる。
やっぱりあの扉は開けられるんだ。
一筋の光が見えた気がした。
ファーストはラヴが流れる水を苦手としていることを知っている。
基本的に何でもできる彼女が、洗濯や食器洗い、風呂掃除などをファーストに任せているのはそのせいだ。
特に雨は大の苦手らしく、降っている日はたいてい機嫌が悪い。
つまり、外に出さえすれば、逃げられる。
『ファースト。どこに行ったのー? 出ておいでー? あはっ』
遠くから声が聞こえる。きっと調理室へ向かったんだろう。
『包丁……一本足りない』
どくんと心臓が跳ね上がる。
まさかラヴが包丁の数を覚えているなんて。
手元にある包丁を見る。
以前、何で何本も包丁を買うんだと聞いたら、包丁によって用途が違うと言っていたことを思い出した。
この包丁は何のための包丁なんだろう。いつも料理はラヴがやっているせいで、ファーストにはどの包丁も同じに見えた。
『ここにはいない』
ゴリゴリと床をこする音が近付いてくる。
『こっちかな』
ガチャリと音を立てて扉が開く。
「あはっ」
心音がうるさい。
いくら念じても、自分の身体なのにいうことを聞かず、バクバク、ドクドクと激しく脈打つ。
「ファースト。どこにいるのー?」
次第に呼吸が荒くなる。
それを必死に抑えようと左手で口を押さえるも、静かになったせいか心音がさらに激しくなっているように感じてしまう。
「ここか、なっ!」
激しい破壊音が部屋中に響き渡る。
ラヴが引き摺っていた武器でロッカーを壊したのだろう。
「こっちか、なっ!」
二度、三度、四度。
一つ壊しては移動し、もう一つ壊しては移動し、手当たり次第ロッカーを破壊するラヴ。
もしその中に自分がいたらと考えると、恐怖で涙が溢れ出す。
逃げたい。でも、逃げられない。
破壊音が立て続けに鳴る。
今は神に祈って耐え忍ぶときだ。
どうかラヴの攻撃が当たらないように。
どうかラヴに見つからないように。
「……あはっ。ファーストの匂いだ」
もう涙でくしゃくしゃだ。
必死に嗚咽を抑えて、息を殺し、涙と鼻水、そして涎で手が汚れようとも関係ない。
お願い神様。お願い神様。
一生のお願いです。どうか攻撃を当てないで。
「ここかな」
そうしてファーストの耳に破壊音が聞こえ――
襲われたのは、隣のロッカーだった。
必死に祈りを捧げたおかげか、ラヴの壊したロッカーはファーストがいる一つ先のもの。
「……おかしいな。二階かな?」
そうしてゴリゴリと音を立てて部屋から遠ざかる。
そうして暫くすると、ダン、ダン、ダンと階段を上がっていき、その後はめっきり音が鳴らない。
「た、助かった……?」
声を発してはいけないと分かっていても、口に出さなければ狂ってしまいそうだった。
しかし、安心している暇はない。
すぐに逃げないと。玄関へ向かわないと。
またいつラヴが戻って来るか分からない。
ラヴが二階にいる内に、ドアを破って逃げないと。
そうして、ファーストがロッカーから出た、そのとき――
「――あはっ」
そんな、どうして。
二階に行ったはずだ。ここにはいないはずだ。
それなのに、それなのに――
「みーつけた」
紅く輝く二つの眼が、怯える奴隷を覗き込んでいた。




