女神、そして自殺
「ん……」
一体いつ寝ていたんだろう。
意識が朦朧とする中、上半身だけ起こして辺りを見渡す。
周囲には何も無い。床も、空も、壁も、風景も、全てが闇に包まれて、何も感じない。
「……どこ?」
「やーっとおきた」
「だれ?」
咄嗟に聞いてしまったが、その判断は間違っていたかもしれない。
もしこれが変質者の根城だったら、非力な私では抵抗できないままいいようにされてしまう。何とか脱出する手立てを考えないと。そう思っていたが、どうやら少なくとも変質者ではないようだった。
「あ? 暗い? 待ってね、今明かり付けるからさ」
パチンと何かが弾ける音がして、世界に光が満ちあふれる。
しかしその世界は少女の知っている世界ではなかった。
「……きれい」
「あはははっ、これを綺麗って言う奴は初めて会ったよ」
赤い空。黒い海。大地からは溶岩が吹き出し、得体の知れない生物が跋扈している。
空には創作に出てくるようなドラゴンが、巨大な虫のような生き物を食べていた。足下には巨大な城が鎮座しており、人の頭蓋と思われる骨が無造作に落ちている。
「いやぁ。『魔人側』の逸材が中々見つからなくてね。君を見つけたときはまさに主のお導きだ! って思ったね」
「……あなたは?」
「ん、私? この世の神だよ。創造の女神リリス」
そんなことより、と神は話を続けた。
神曰く、この世界は人間と魔人が対立しているらしい。
何百年、何千年にも及ぶ戦争。もはやどちらが仕掛けたのか、いつから始まったのかも分からない種族をかけた戦い。
人為的に種族を滅ぼすというのは中々できることではない。永遠に続くと思われていた戦争だが、しかしある日を境に状況が一変した。
あるとき、人間陣営が異世界から人間を召喚するという禁忌を犯した。
盤上の駒を用いて進めるゲームにいきなり盤外のジョーカーが投入されたのだ。
神はそれに怒るも、自ら手を下そうとは思わなかった。
「人間がルールを破ったのなら、魔物にも同様の条件を与えよう」
「そうして呼ばれたのが私?」
「理解が早いね」
ちょうど死人を探していたら、逸材を見つけた。
それがこの少女。
「死人?」
「思い出させて上げるよ」
少女の額を指で弾く。
すると全身に電撃が走ったような感覚に見舞われ、抗いがたい快楽が全身を駆け巡る。
あの熱、あの感触、あの悲鳴、あの視線――
脳が蕩ける感覚。
どうして今まで忘れていたんだろう。幼馴染の悲鳴、級友の懇願。嗚呼、なんて甘美な想い出なんだ。
そしてなにより――
「あは。私、死んだのね」
「そう。貴女は死んだ。頭を打ち抜かれてね」
右手で銃を形作り、バーンと言って女神は茶化す。
最後の一瞬、まるで世界が停止したかのような錯覚に見舞われた。
痛みよりも先に来た全能感。今の自分なら何でもできると思えるほどに高速化された思考。あの快楽は一度味わったら忘れられない。甘くて甘くて堪らないスイーツ。
「動物じゃあもう満足できない。そうでしょう?」
「あは。もっと殺したい。もっと愛したい」
ニマリと嗤うその顔は、まるで悪魔のように歪んでいる。
「そんな貴女に理想郷への片道切符を授けましょう」
パチンと指を鳴らすと、少女の前に悪趣味な意匠が施された美しいナイフが現れた。
ナイフには黒ずんだ血糊がこびり付いて、歯が欠け、錆び付いている。もう本来の用途には使えないだろう。なまくらと化したナイフだが、少女はどこか愛らしく思う。
「そのナイフが気になる?」
「はい。何だか、とても、愛しい」
「そうでしょう。そのナイフは貴女の魂そのものなのだから」
ヒトとして欠落し、歪んだ心を宿し、しかし外見だけは美しい。
人を殺めた罪は魂までもを犯し、返り血で刃は錆びてしまった。そんな魂だ。
手に取ると分かる。
ナイフが何を望んでいるのか、次に自分が何をすれば良いのか。頭の中に流れ込んできたそれを理解した少女は、顔を歪ませ恍惚とした表情で身震いした。
「そのナイフで首を切りなさい。然すれば新しい道が――って」
「あ――」
言い終える前に少女は己が首を切り裂く。
一閃。
たった一回で、少女の首は綺麗に切れ、喉からは大量の鮮血が溢れ出した。
「あ?」
その血が床に着くと、床が腐って落ちてゆく。
ボロボロと瓦解する足場だが、少女には何の不安もない。少女の心は今、未来への希望に満ちあふれている。
「そうだ、貴女に新しい名前を授けましょう。生前の名前は貴女に似つかわしくないもの」
意識が遠のく。
立っていることすら侭ならなくなった少女は床へ崩れ落ち、そして床ごと下界へ呑まれていく。
『ラヴ。今世の貴女の名前はラヴよ』
その言葉だけが脳裏に焼き付き、少女は意識を手放した。
◆
少女を見送った女神リリスは満足そうに頷いた。
「我ながら良い駒を見つけたものだ」
誰もいない空間で、創造神は独り言つ。
「ん? あぁ、また新しいお客様ね」
虚空を見据え、しかし明確に誰かと対話する姿は商売人か、はたまた道化か詐欺師か案内人か。
「初めまして、傍観の神々よ。これより見せるは狂った少女の物語。誰にも受け入れられることのない愛を宿し、それでも進むは悲劇か喜劇か。さあさあ新たな世界の波紋をとくとご覧あれ――」
女神は嗤う。
世界を嗤う。ヒトを嗤う。魔物を嗤う。少女を嗤う。
少女の行く末に、幾許かの期待を馳せながら――