表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

誰も知らず誰も答えを持たぬ空白の解

作者: 東雲白雨

 心を解読するのに必要なのは知識だが、心を理解するのに必要なのは経験だ。

 実感と言い換えればいいのだろうか。それを育む機会がなかったわけではない。それを必要としたことがない。そしてそれを、不思議だと思ったこともなかった。

 柊皎夜は、柊の一族の歴史の頂点とも言える存在だった。御神家の矛であり、それを取り巻く一族全ての威力の象徴。人間としての限界を超えてなお、人間で在り続ける者。

 先代も先々代も、実力主義である柊の一族を治めるが故の力は十分にあった。技術、思想、忠誠。それらは衰えることなく研鑽され、現代まで続いてきた。体と心、その釣り合いが取れるように。その精神の強靭さも御三家では群を抜いていた。

 当然、皎夜にも同様の教育がなされてきた。肉体を鍛えると同時に精神を鍛える。しかし、皎夜に一番初めに武芸を教えた人間は、たったの数日で自ら命を絶った。数日だったというのに、既に皎夜は死んだ男より強くなっていた。その技術は模倣でもなく、その更に上、数段昇華された技術となって、自身の技として息をするように自然に扱えるようになっていた。

「君が求めるなら、僕は心というものに忠実に動いてみせる、と言いたいところなんだけれど。本当に困ったねえ。それだけはできないんだよ。どうしてなんだろう」

 龍慶に出会ってから、皎夜が初めてできないと口にした瞬間だった。龍慶が言葉にして求めたわけではない。龍慶が皎夜という存在を理解するのに、心という感情の原動力を示した方が都合がいいと皎夜は自分で判断した。だから理解しようと手を尽くしたのに、皎夜は「人間としての考え方」という一般的な思考はある程度読み取れる者の、個人に依存する心の機微、それに対する理解ができなかった。そういったことに強い凩の一族に助力を仰いだものの、凩の当主は静かに首を振り、憐れみで返すだけだった。

「今のお前は、何も得ることができない。得ることができない代わりに、失うこともない。それは武器としては称賛されることだが、お前は、柊という武器の形ではなく人として仕えねばならぬ。次期当主たる御子の心も察するに余りある。しかしそれを与えることは私にはできぬ。帰られよ」

 凩は、皎夜を見送りながら、その孤独を憂いていた。天才故の孤独ではない。心を持たないということは、何ともつながれないことだと知っているからこそ、皎夜がこの世界に存在するその全てから切り離されているように見えて、それが何とも哀れだったのだ。誰かに求められたとしても、その方向に心が向かねば繋がることもない。皎夜に向いているもので、唯一皎夜をこの世界の人間として繋ぎ留められるものがあるとすれば、龍慶の存在だけだろう。しかしそれすら、皎夜は自分で繋ぐことができない。介在できるものはこの世に存在しないのではないかと、そう思ってしまうほどに。

「柊の、皎夜さまでございますね。これよりお世話になります紫音と申します。この度の不肖の際にもご助力頂き大変感謝申し上げます。……これから柊の一族として名を持ちますことをお許し頂きたく存じます」

「龍慶の命だからね、僕は全然構わないよ。柊という姓が君の重荷にならないように、そして君がこれから生きていく力になれるように、僕も協力していきたいと思っているよ。不肖な義兄ではあるけれど、これからよろしくね」

 皎夜は、紫音に笑顔で手を差し出した。紫音は一瞬、皎夜の腕が動いた瞬間に恐怖と動揺を見せたものの、すぐに真っ直ぐに皎夜を見つめてその手を取った。

 柊は実力主義である。故に、柊に迎え入れられた紫音もまた、戦闘において必要なあらゆる知識と実践を積むことになった。紫音は必死だった。それができなければ今此処で自害せよという柊の暗黙の了解に、紫音は死に物狂いで食らいついていった。

 指導には皎夜自身も何度か入った。皎夜の教え方は至ってシンプルで、そしてただ一度打ち合うだけで筋肉や骨の稼働、神経と脳の伝達、意識のずれや呼吸に至るまで見抜かれる。それを淡々と伝えて、繰り返す。理解に時間が必要だと思えば数分しか経っていなくともそこで終了となる。皎夜は他にも教えたことがあったが、大概の人間はすぐに心の方が持たなかった。皎夜と対峙するだけで消費される精神は、連日となるとその心を折るのに十分な圧力となった。

 紫音は元々戦うための教育を受けてきた訳ではない。そのため、他の人間よりも物理的に受けるダメージが大きかった。それを皎夜が知ったのは一番始めに紫音に体術を教えた時。たった一撃、しかもかなり手加減した状態だったというのに、守りの未熟な紫音には内臓に響くほどの負傷を負った。

「あれ?君の親は柊の遠縁だと聞いていたんだけれど、嗚呼、そうか、ここにはいなかったから分からなかった。君みたいな普通の女の子は存外、脆いものなんだね」

 ごめんね、と皎夜が謝るのを紫音は這いつくばりながら横目で見ていた。揶揄している訳でも、呆れている訳でもない。単純に初めての体験だと言っているような、あっけらかんとした様子だった。

 蛇の目の治療が終わってからすぐに紫音の稽古は再開された。皎夜は紫音の様子を見ながら、これを人間らしいというのだろうか、とぼんやり考えた。

 ただ見られるだけで、腕を振り上げるだけで、その眼には恐怖が宿る。負傷の時の記憶が残っているから、防御に徹しそうになる。突きこまれる腕が、踏み出した膝が震えるのは本能的な自己防衛反応と理性が戦っているからだ。

 それらを避けながらじっと見る。人間らしさを観察する。

 自分の行動を俯瞰している。だからこそ、肉体的に本能的に感じている限界を、精神と理論で補完する。幼い少女は、いつも自分と戦っている。それが皎夜には不思議だった。それが何なのかが気になって、皎夜は龍慶に尋ねた。それに龍慶は答えずに、僅かに目を見開いて、そうか、とだけ返した。

「見ていれば分かる。どうせあれに好んで教えようという者は少ない。時間だけならいくらでもあるだろう」

「その必要があるのかな」

「さあ。それを判断するのは俺ではない」

「意地悪だなあ」

 皎夜はすねたような声を出す。龍慶は小さく笑って、指先だけで皎夜を追い返した。

 そしてある日、紫音はがらりと態度を変えた。突拍子もないことをしだしたり、逸鬼や神無たちと笑いあっていたり、龍慶に突っかかったり。一人称も言葉の使い方も、振る舞い全てが変化した。その始まりにも、その行動にも、当初は興味すら湧かなかった。皎夜はそのひとつひとつを観察し、紫音というものを判断する。他人に示す自己、それをすり替えるような行動。それらは皎夜の知る人間たちの行動に似ていて、且つ、紫音が自分を定義するのに必要な人格を否定するものだとすぐに気づいた。それからずっと観察を続けて、皎夜はようやっとその疑問の形を言葉にした。

 接すればわかる、無意識化の行動。それは紫音の精神、心に由来するものだと皎夜は判断している。故に紫音がいくら「以前の紫音とは別の何か」を目指して行動しても、その本質は変わっていないことは分かっている。

 だから、無意味だと思った。

「ねえ、紫音。教えてほしいな」

 皎夜は叩きのめした義妹の上下する喉元に刃先を突き付けながら、優しく柔らかく微笑んだ。皎夜が尋ねる時こうして笑うのは、相手を恐れさせるためではなく安心させるためなのだろうと、その頃の紫音は理解していた。その容赦のない動きと空虚に近い真っ黒な目を見ればそんな体裁だけの優しさは逆に恐怖心を煽るのだが、それを理解していないことも再三叩きのめされた紫音にはよく分かっていた。

「君はどうして自分と戦うんだい。どうして無意味なことを続けるんだい」

「自分と戦う、無意味……あのさ、全然意味が分かんないんだけど、兄貴。あと、聞く体勢をだいぶ間違ってるんだよな」

「もう、お兄ちゃんに嘘をついたら駄目でしょう?コミュニケーションをとるのは大事だって、逸鬼君にも龍慶にも言われたんだよ。神無君には、もっと距離感を大事になさいって叱られたけど」

「ほんと神無の常識的な視点助かるわ。で、俺は別に普通なんだけど、っていうか兄貴が俺の内面に興味があったとは知らなかったな」

「そうなんだよ、僕も驚いていてね。ねえ紫音、どうして君は頑張るの?君のしていることは何処にも結果を残さないし、誰にも望まれていないし、君自身が矛盾に気づいている。そこまでは分かったんだよ、僕すごいでしょう?だからね、君のしている無意味さの意味を、僕は……嗚呼、そうだ、知りたい。知りたいって思ったんだ」

 皎夜ははっとしたように、片目を手で覆う。言葉の最後は、自分に向けての呟きだった。

「……何でだろうな」

 紫音が不器用に笑う。最近ずっと続いていた笑顔が、本来の意味を取り戻したような顔。皎夜はその差異を不思議に思う。行動を理解するとき、皎夜はいつも知識と傾向を使う。だからこそその全てを観察する。龍慶に近しい者は特に。そこに理由は必要ない。聞くことはあっても興味はない。合理的に判断し、承認と命令によって全ては至るべき結果へと導かれる。そこにはスイッチを押したら動いた、という当然の帰結しかない。そこには時間だけが存在して、中身など無いのだ。

 皎夜と一緒にいて長続きしたのは龍慶や御三家に関わるもの以外ではじめてだったからだろうか。一族に関わる枠組みから遠く離れたただの少女だったからだろうか。龍慶が彼女の存在を特別視しているからだろうか。家族という者の枠組みに紫音が組み込まれているからだろうか。

 皎夜は思う。この不器用な笑みは何かに似ている。誰だったろう。どこで会ったのだろう。

「さあ。俺の知ったこっちゃない」

 口の端を釣り上げて、けれど顰めるように苦々しく、それでも強気で、必死な表情だった。

 皎夜の脳は思考を停止する。いつものようにあらゆる膨大な情報から最適解をだすという機械的な処理をその瞬間に止めてしまった。その代わりに、胎内の頃からの記憶が思い出される。記録に近いそれは、何処かの誰かの記憶を読み解くような、コマ送りの景色だった。

 この強がりは、彼に似ている。

 似ているからなんだ。そんなことに意味は無い。唯一絶対のそれに、変わるものなど何も無い。

 龍慶は、皎夜にとっての存在意義だ。一生変わることの無い絶対。世界が変わっても、理が崩れても、魂を失っても、たとえそこに繋ぐものが無くても、それだけは変わらない。だから何も揺らいでいない。

 皎夜の強さを模倣する少女。龍慶の強さを模倣する少女。どちらの鏡でもあり、そして紫音という個である少女。

 龍慶曰く、その個すらいつか奪われるかもしれない、無意味を繰り返している少女。

 カタカタと自分だけで回っていた歯車に、何かがぶつかるような感覚がした。皎夜は改めて紫音を見る。そこで初めて、「紫音」という人物を認識した。紫音に対して、人間というオブジェクトではなく、紫音という個人を、皎夜はその時初めて認識した。

「……紫音」

「なんだよ。というか思ったよりこの体勢きついんだけどな」

「君が、紫音か」

「……兄貴の記憶力は、スパコン級って聞いたことあったんだけど」

 皎夜は静かに紫音を見つめている。紫音には皎夜の状態が何を示しているか分からなかった。ぼんやりと何かを呟いていて、珍しく隙だらけなように見える。紫音もじっと皎夜を見る。結構長い間一緒にいたような気もするが、正直何を考えているかは全く分からなかった。ただ一部の隙も無く、龍慶の為に動く戦闘兵器。その表現に間違いはないだろう。本人も龍慶以外に意味は無いとよく言っていた。誰が死にかけようが、紫音が致命傷を負おうが、皎夜は迷いなく龍慶を守るし、他の人間にはいつものように優しく笑って大丈夫まだ立てるよねなどと言うのだ。死んだ者に祈りを送ることも、生きている者を慈しむこともない。その全てが仕えるべき主にのみ向けられた人を超えた武器そのもの。

「なあ兄貴」

「どうしたんだい」

「……兄貴さあ、龍慶ってどう思う?」

「龍慶は龍慶だね」

「そうだよな。じゃあ、龍慶って人間は?」

「龍慶であるってことの定義について聞いているのかな?考えたことなかったなあ。龍慶はいつも、そうだねえ、龍慶という存在からぶれたりしなかったから。今思えばすごいよねえ」

「それってさ、誰の為だったのかな」

「自分であることは自分のためでしかないでしょう?」

「兄貴は、すごいな。分からないこともそうでないことも、すぐに答えられるんだから」

 紫音が羨ましそうに言うのが皎夜には理解できなかった。知識から羨望を読み取れても、それだけでないことは皎夜にも想像できた。その空白に似た、羨望以外の何かに意味があるなど考えもしなかった。

 皎夜は刀を紫音の喉元から離すと、空を見上げて数度瞬きをした。そして紫音から離れると、さっさと何処かに行ってしまった。

 その背に声もかけられずに呆然と出入り口の方を見ていると、1分ほど経ってから皎夜が顔だけ出して覗き込んできた。紫音は思わず声を出して大げさに驚いたが、皎夜は先程と変わらないぼんやりとした真顔で、お疲れさまでした、と言った。

 紫音は反射的に有難うございました、と居住まいを正して礼をする。

 顔を上げると、もうそこに皎夜はいなかった。









(思ったよりも随分かかった。けれど歯車が嵌ればきっと、その動き方を思い出すだろうから)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ