人形王子が犯した間違い
心を動かされる事がなかった。
優秀な頭は何でも卒なくこなし、知らない事なんて何も無かった。世界はなんてつまらないんだろうか、そう思っていた。
一歩引いたように物事に接する僕に「頭だけが良くて人のフリをするのが得意な人形」と言ったのは誰だったろう。お前は心から笑った事があるのかい?と続けられた問いは、ずっと僕の心にシコリとなって残っていた。
『頭脳明晰で立ち居振る舞いも完璧な王太子』、人々の望む姿を演じていた僕は、自分の意思で笑った事がなかったから。
入学した学園で一人の令嬢と出会った。
田舎から出てきた彼女はよく笑う素直な子で、身分なんて関係ないように無邪気に振る舞う彼女は、いろいろな表情を僕に見せてくれた。
僕の理想の姿がそこにあった。
彼女と居れば僕もいつか笑える日が来るかもしれない、そう思った。
ある時、僕の婚約者が彼女をいじめているのを知った。
人目も憚らず彼女を謗り詰る姿はとても醜かった。目障りだった。王太子妃の立場しか目に入っていないくせに僕の邪魔をするなんて許さない。
彼女の笑顔が曇れば僕が笑える日は一生来ないだろう。彼女の笑顔を失うわけにはいかない。
僕は婚約破棄を決意した。
「アレクサンドラ・ライト!あなたは私の婚約者という立場でありながら、マリン男爵令嬢に数々の非道な行いをしてきた。挙句、彼女に毒を盛ろうと計画するとは!」
「……証拠はございますの」
「貴女の字で書かれた毒の発注書を押収した。今は重要な証拠として私が保管している」
「……そうですか」
淑女の鑑であり完璧な王太子の婚約者は、昼食時の中庭という大勢の目がある中で罪を指摘されて尚、悠然とした態度でいた。その整った顔には仮面が貼り付いている。
下される罰を告げればその仮面は剥がれるだろうか?
貴族の誰もが着けている本心を隠す笑顔の仮面。その内側には金と権力への欲がこびりついている事を僕は知っている。
「この婚約を破棄する!罪を犯したあなたには国外追放という罰を与える!」
婚約者という立場に固執し彼女を醜くいじめた女が権力への道を絶たれた時どんな態度を見せるのだろうか、どんな醜態を晒して僕を失望させてくれるのだろうかと俄かに期待した。
だが婚約者が見せた態度は僕の予想を裏切るものだった。
「……承知致しました、殿下」
そう言って完璧な淑女の礼で応えてみせたのだ。
今何と言った?
何故そんな殊勝な態度を見せるんだ?
彼女にしていたのと同じように憤慨し、口汚く僕を罵るのではないのか?あるいは泣いて追い縋り、醜く浅ましい姿を見せるのではないのか?!
「……何を企んでいる」
「え?」
「貴女は王太子妃になりたいんじゃなかったのか?だから彼女を虐げたのではないのか!?ならば何故そんな簡単に受け入れられる!貴女は一体……!!」
「フシャーーーッッ!!」
「うわっ!」
僕の言葉を遮るように突然大きな猫の鳴き声が辺りにこだましたかと思えば、大量の紙が視界を埋め尽くした。
「あ……あなた達……」
気付くと三匹の猫が婚約者の周りにいた。その中の一番小さな猫は婚約者を守るように僕を威嚇している。先ほどの鳴き声はあの猫のものか。どこから迷い込んだのか知らないが、まあいい。
それよりも気になるのは、
「なんだこの紙は……」
「……!だめ!殿下、見ないで!!」
足元に積もるように散らばったそれを拾い上げれば、紙に気付いた婚約者が珍しく声を張り上げた。
そこに書かれていたのは見知った婚約者の字で記された婚約破棄計画だった。
彼女に毒を盛ろうとしている事と毒の発注書を僕に発見されるよう仕向け、そしてその罪で自身は婚約破棄され国外に追放される。
それが婚約者の立てた今回の騒動の計画だった。その後は母親の故郷である隣国の田舎で暮らす手筈だったようだ。
「……全て、君が仕組んだ事だったのか」
「僕は君に踊らされていた訳だ!君は王太子妃になりたかったわけじゃなく、ただ僕と婚約破棄がしたかっただけなのか!」
自嘲に顔が嗤う。なんて道化なのか、全て婚約者の手の内だったとは!
「自身の身分を差し出すほどに僕との婚約が嫌だったとは……」
「ナアァ!ンナッ!!」
顔を勢いよく上げ、何か言いたそうにした婚約者に代わるように子猫が何事かと鳴いた。タシタシっと片足を床に打ちつける素振りはまるで、他の紙も見ろとでも言うようだ。
「……なんだって言うんだ……」
そう考えた自分に呆れつつも紙を拾い上げる。
婚約者が息を呑むのがわかったが、それを宥めるように黒ぶちの猫が婚約者の足にジャレついていた。
それはなんて事ない日記だった。いや、日記というよりただ紙に書き殴っただけのように思える。そこには学園の隅で猫の一家を見つけた事とその愛らしさがつらつらと書かれていた。
こんなものを見せたかったのか?馬鹿らしい。
だが次に書かれていた事は、そんな僕の甘い考えを殴り飛ばすかのようなものだった。
──わたくしの話を聞いてくれるのは彼らだけ。
本当は悲しいの、殿下が彼女と仲良くしている事も、彼女に意地悪をしなければいけない事も。
でもわたくしがやらなければ他の誰かが彼女をいじめてしまうわ。万が一にでも彼女が傷付けば殿下が悲しんでしまう……
だからわたくしがやるの。できるだけ人目につくところで、できるだけ大袈裟に見えるように。
わたくし一人で相手をしたいと言えば他の皆は手を出さないわ。
辛くてもやらなくちゃ。だってそれが……
「なんだこれは……」
そこにはまるで僕や彼女の為に不本意ながらも彼女をいじめていたかのような事が書かれていた。
……いや、実際そうなのだろう。
婚約者を差し置いてただの男爵令嬢が王太子の傍に居る事に多くの者が反発している事は知っていた。だがそんな事は僕が彼女を守ればそれで済むことだと思っていた。
まさか、婚約者に守られていたとは露ほども思わなかった。
だが、なぜ婚約者はそんな事を?
その答えを探すように足元の紙を拾い上げては目を通していく。面倒になってとうとう地面に座り込む姿はとても王太子のそれでは無かっただろうが、そんな事は全く気にならなかった。ただ、目の前に散らばる婚約者の文字だけを追った。
──陽光のように煌めく蜂蜜色の御髪、太陽の光を湛えた黄金色の双眸、整った顔立ちの彼にわたくしは初めて会った時から惹かれている。
そのお顔が笑顔に満ち溢れる日が来るのなら、その為にわたくしはこの身さえ捧げられる。
──わたくしの妃教育がはじまった。つらいけれど弱音なんかはいちゃだめ。
いずれ王太子になる御方の婚約者として恥ずかしくない淑女でいなきゃ。
──はじめて殿下にお会いした!
とてもすてきな方、彼が婚約者だなんて、なんてうれしいの!
きんちょうしてしまったけれど、上手にあいさつできたかしら?ちゃんと笑えていたかしら?
幾日も幾年も、書き込まれ積み上げられた彼女の思いの中から拾い上げたそれらには、僕への溢れる想いが刻まれている。それはともすればまるで恋文のようにも思えた。
婚約者が僕に宛てた手紙のどれもが、形式的な物でしかなかったというのに。
「これが……君の本心なのか」
「……ッ……見ないで、ください……」
顔を赤らめその藤色の瞳を涙で滲ませた婚約者が、震える声でそう小さく呟いた。
その姿を見た瞬間に理解した。
婚約者は僕を愛している!
僕の幸せを日々願う程に。その為に身を捧げる程に。
だが、だったら、だったら何故、
「……何故言わなかった!おくびにも出さないで、こんな紙に書き殴って、何故一人で……!」
言って欲しかった。教えて欲しかった。
紙に書くくらいなら、猫に言うぐらいなら、一人で抱え込むくらいなら!
僕に伝えて欲しかった……!
けれど婚約者は、貼り付けたあの顔で静かに告げた。
「だって、殿下はわたくしのこと嫌いでしょう?」
その言葉に、息が詰まる。
婚約者だったあの子は悲しそうな笑顔を見せる。
「違う、僕は、」
僕はそんな顔が見たかったわけじゃない。
「良いのです、殿下。わたくし分かっておりますから」
ひらり、と一枚舞い降りた紙が手に収まった。どこかに引っかかっていたのだろうか、それに書かれていたことは……
──殿下はいつもつまらなそう。わたくしといる時も……
殿下を楽しませてあげたくていっぱい喋りかけてみたけれど、澄ました笑顔で応えてくれるだけだった。……貼り付けたような笑顔。
わたくしではダメなのだわ。きっとわたくしは彼に嫌われている。
彼女は彼を幸せにしてくれるかしら?彼は幸せになれるのかしら?
……本当は、わたくしが幸せにしてあげたかった。
彼の幸せを願っておきながら、他の人と幸せになる姿は見たくないだなんて、わたくしもわがままね。
「お別れですわね、殿下。……傍にいられなくて、ごめんなさい……」
そう言って、悲しくなるくらい眩しい陽光の中で微笑んだ顔は、いつか見たものと同じだった。
遠い記憶。忘れようと思っていたのに、何故今更そんな顔を見せるんだ!
「違う!僕は、僕は本当は……ッ」
「クリストファー様……」
不安げな声で後ろに控えていた彼女が声を掛けた。
彼女を婚約者にしようと考えていた。彼女を誰にも害させないように、二度と彼女の笑顔を失わないように。そうすればいつの日か僕も笑えるはずだから、と。
けれど、なんて思い違いをしていたのだろうか!
彼女じゃない、彼女じゃなかった。
こんな事に今頃気付くだなんて!
「……めだ」
僕が本当に望んでいたのは、僕が見たかった笑顔は、彼女じゃなかったんだ!
「駄目だ!行くな、行かないでくれ……」
僕が見たかった笑顔は、僕を笑顔にできるのは、あの子しかいなかったのに!
「アレクサンドラ……!」
声も、無様に伸ばした手もあの子には届かない。
行ってしまう、行ってしまった。あの子はもう僕の婚約者ではない!
ああ、僕は、なんてひどい間違いを犯してしまったのか!本当に望んでいた大切な物を自らの手で捨ててしまった!!
「ミャア」
あの子が残していった気持ちに埋もれ、絶望と後悔に打ちひしがれる僕に猫の鳴き声が届いた。
あの子と共に行かなかったのだろうか、目の前に一匹の大きな白い猫がいた。
ジッと見つめてくるその瞳は、どこか懐かしさを感じる不思議なものだった。
──僕はこの猫を知っている。
不意に世界が暗転し、眠るように意識が暗闇に溶けていった。
ただ頭が良いだけの人のフリをするのが得意な人形。お前は心から笑った事があるのかい?
そうだ、そう言ったのは祖母だった。
私はお前が心配だよ。
お前は全てを知った風にして何とも向き合おうとはしない。
それは生きているとは言えないよ。
私もそうだった。
気付いた時には手遅れで、全て自分の手から溢れた後だった。
傍にいてくれたあの人に何も返せなかった。
お前は私に似ているけれど、お前は私以上に危うい。きっともっと後悔する事になる。
あの人に返せなかった分、お前を助けてやりたいが私にもそう時間はない。
だからこの子に頼んでいくよ。
この子は特別なんだ。
きっとお前を助けてくれる。
お婆様の膝にはあの白い猫がいた。
お婆様はかつて立派に国を治めた女王だった。そして先に亡くなった祖父は王配としてお婆様を支えたというが、僕は正直優秀で闊達なお婆様に支えは必要なかったろうと思っていた。
だがお婆様の言葉の意味を今は理解できる。
それから間もなくしてお婆様は亡くなった。まだ僕が十にも満たない頃のことだった。
父上も母上も気付いていなかったが、祖母に懐いていた僕は平気なフリをしつつもだいぶ参っていた。祖母がいなくなった事が悲しかった。寄る辺を失ったようで不安だった。
あの人は僕の唯一の理解者だと思っていたから。
傍目には僕がそれほど祖母に懐いているとは見えなかっただろう。父も母も気付かなかったのだから。
だが祖母と過ごした庭園で、喪失感に苛まれていた僕の背を抱くようにして寄り添ったのは婚約者だった。
「……わたくしが傍にいます。あなたが許す限り」
そう言って微笑んだあの子の顔は眩しいくらいの陽光を受けてとても綺麗だった。僕を笑顔にするのはこの子しかいないと、悲しいくらいに思ったんだ。
けれど、そう言ったくせに、僕と一線を引くようにしてあの子は本音で向き合ってくれなかった。
そんなあの子が嫌いだった。
透けるような金糸の髪に神秘的な光を湛えた藤色の瞳。一瞬で僕の目を奪ったくせに、他のやつらと同じような顔で笑うあの子が嫌いだった。
そんな笑顔が見たいんじゃなかった。
もっといろんな顔を見せてほしかった。
甘えたりわがままを言ったり、弱みを見せてほしかった。
僕を笑顔にするのはきっとあの子しかいないと思ったのに、僕の望みを叶えてくれないあの子が嫌いだったんだ。
あの子は僕のことなんてこれっぽっちも思ってくれていないんだと決めつけて、あの仮面の裏で他の誰もと同じように金と権力にしか目がないんだと思っていた。
けれど、仮面を着けた彼らと人形のように理想の王太子を演じる僕の何が違うというのだろう。
あの子にだけ素顔を晒す事を期待して、それが裏切られたとあの子を嫌悪する僕はなんて傲慢だったのか。
僕はあの子をちゃんと見て、向き合ったことがあっただろうか?
あの子の気持ちをわかろうとしたことがあっただろうか?
一線をひいて拒絶していたのは僕の方だ。
ああ、それがそもそもの間違いだったのか。
……ニャォーン……
暗闇の中、遠くで猫の声が聞こえた。
「クリストファー」
ハッと気付けば訝しむような父の顔が目に入った。
「どうした?ぼうっとするなんてらしくないな。緊張しているのか?」
記憶より若い顔。
「……そうかもしれません」
答えた僕の声は高かった。声変わり前の幼い声。見やれば手も身体も小さかった。
「珍しいな、お前がそう言うなんて。ああ、ほら、侯爵令嬢が来たぞ」
緊張しているのは本当だった。
そう、この日はあの子と初めて会う日。
陽光が降り注ぐ王宮の庭園を侯爵が娘を連れて歩いてくる。傍に来て、あの子が口を開いた。
「ライト侯爵家の娘、アレクサンドラです。殿下、よろしくお願い致します」
非の打ち所がない完璧な淑女の礼をとって、上げた顔は記憶にあるものと同じだった。
愛らしいその顔立ちに僕は一瞬で目を奪われた。けれどその顔に貼り付いた笑みが、他の誰もが着けている仮面と同じだったから僕は酷く苛立ったんだ。
だが僕はなんて愚かだったのだろう。上辺だけを見て全て知った気になっていたんだ。本当は何も見えてなんかいなかったのに。
よくよく見てみれば、あの子の笑顔は固く強張り、ほのかに見える恥じらいは緊張からのものと思われた。
きっと、ずっとずっと緊張していたのだろう、僕を目の前にして。
……僕があの子を緊張させていたんだ。
「君は……猫が好きなのか……?」
思わずそう口にしていた。
名乗りもせずにいきなりそんな事を聞くのは無礼だと言うのはわかっている。
隣で父上が驚いているのが分かった。らしくないと思っているのだろう。僕だってそう思う。
あの子だって驚いただろう。ぽかんとしていたのは一瞬で、その顔を見る間に真っ赤に染め右往左往としだした。
「え……な、なぜそれを……」
「アレクサンドラ!お前、まさかまた野良猫を拾って来たんじゃないだろうな!」
「し、してません!ちゃんと里親を見つけました!庭師の方がもらってくれました!」
「それで屋敷に連れて来ているのか……」
今のは結局あの子は野良猫を拾って来ていた、という話だと思うのだが、侯爵はそれでいいのだろうか。
あの子の顔はまだ赤く、少し僕を睨むように見ていた。
意地悪をしたと思われたのだろうか?
「祖母が猫を飼っているんだ。……とても綺麗な白猫だよ」
まあ!と言ってあの子は目を輝かせた。
……こんなにも表情豊かな事を僕は知らなかった。あの子が笑うと僕も嬉しくなる事も知らなかった。
僕は何も知らなかったんだ。すべてを知った風にしてよく見もしないで決めつけていた。
けれど、ちゃんと向き合って、よくよく見てみれば、こんなにも世界は知らない事だらけだったのに。
世界をつまらなくしていたのは僕自身だった。
「今度一緒に行こう。きっと祖母も……祖母の猫も喜んでくれる」
「もちろんです、殿下!楽しみにしていますね」
あの子は楽しそうに笑う。それは僕が見たかった無邪気な笑顔だ。
……こんなに、簡単な事だったんだ。
祖母には感謝してもしきれない。あの猫にも。こうしてもう一度機会をもらえたのだから。
僕はもう間違えないだろう。自分から動かなければ何も与えられはしないのだ。
ふと、あの子にまだ名乗っていないことに気付いた。
……僕の名前を呼んでほしい、そんな欲が湧いた。
「アレクサンドラ嬢、自己紹介が遅れて申し訳ない。クリストファーだ。……どうか、クリスと呼んでくれないか?」
いきなり愛称呼びは急だったろうか?あの子はとても驚いた顔をしていたが、すぐに笑顔になりこう言った。
「……でしたら、殿下もレクシーと呼んでください」
そうしたらわたくしも呼びます。と少し意地悪な顔で笑ったのは、先ほどの仕返しのつもりなのだろうか?
「……レクシー?」
おそるおそるそう呼んだ。そんな風に呼んだことは一度もなかったから、もし拒絶されたらどうしようかと不安になった。
けれど彼女は笑顔で応えてくれた。花がほころぶように、とても幸せそうに笑って、
クリス様?
と僕を呼んだ。
それが嬉しくて、レクシーの笑顔が眩しくて、僕は思わずつられて笑っていた。
☆キャラの名前についてのオマケ☆
キャッツアイ縛りをしています。猫繋がりです。
クリストファー ・・・クリソベリルキャッツアイ
アレクサンドラ・ライト ・・・アレキサンドライトキャッツアイ
マリン男爵令嬢 ・・・アクアマリンキャッツアイ
クリストファーに至ってはchrしかあってないんですけどね…
アレキサンドライトは見方によって色が変わるので、その点もイメージにあっているかな、と思いました。