レコメンドサマーバケーション
私は気づいてしまった。
八月某日、久しぶりの通勤電車で。
体力を賢明にセーブした歴戦の大人達の中で、一人テンションを持て余していた。久しぶりなのは諸事情あってのこと、むしろ諸事情しかないので脇に置いておこう。
窓の外はどこまでも広がる青い空と入道雲。夏休みが近い。子どもでもないのにそわそわする。夏祭りに花火が上がり、肝試しへ来る若者に備えておばけも準備に余念がないだろう。
そう思うと私はいても立ってもいられなくなり、スマホを持ちライングループに他愛のない文字を打ち込んだ。夏だから百物語でもしようとかなんとか。返ってきたのは何とも冷たい反応ばかりであった。
『月曜の朝から何言ってんの』
『百でも千でも一人でして』
『そういやこの前のお店だけどさぁ』
『見てこれかわいい』
私は折れない心を持っていたので、画面から立ち上るそれらの声にも負けずメッセージを送り続けた。元オカルト部の誇りはどうした、ロマンを忘れたのか?とか何とか。
このグループは大学のオカルト部、そのままでは部費が貰えないので正式名称は民族文化研究部という、怪異の噂を聞きつけては現場に行って検証したり、文献やデータを集めて分析する部活のメンバーで構成されていた。
『君もはよ忘却しろ』
『異世界求めて住んでもないマンションのエレベーターに乗ったり降りたりして、管理人に見つかって怒られていた頃を思い出せ!』
『やめろそれはもうデリートメモリーズだ』
『朝からなんという黒歴史を』
『早く現実に戻ってこい』
私はやれやれと小さくため息を漏らして、顔を上げた。そして目に入ったのは、向かいの席に座っている男性の虚ろな、瞳。微動だにせず、床の一点をじっと見つめている。
普通なら、現代人はお疲れなのだろうなんて思って、すぐに視線を外すところ。その男性の様子も私も普通ではなかった。
蒼白とした顔、荒い息、血走った眼球、まるでもう床しか見れない運命を享受したかのような凝視。その尋常じゃない様子に釘付けの私。
周りの乗客をぐるりと見渡したが、誰もその男性に注目している人はいなかった。だけど、まぁあぁ混んでいる車内でその男性の辺りだけ心なしか空いている。
何となくやばいものを見てみぬふりをして、何もなかったかのように振る舞う国民性がこんなところにも、なんて思っていると、電車が駅についた。
床凝視人間となっていた男性が、視線を落としたままふらりと立ち上がる。このままどこかへ向かうのだろうか、と目で追う。
不意に、その充血した瞳をこちら側に向けた。正しくは、私の隣に座っていた女性に。その瞬間、音もなくばちんと破裂音がした気がした。
男性は憑き物がとれたように、みるみる血色が戻っていく。いかにも正気な表情になり、少し怯えた様子でこちらを見ている。電車を降りる人波に乗って、ドアから出る時に呟いた言葉を、私は聞き取った。
「ありがとう。やっとかわれる」
私は恐る恐る、隣の女性を見た。彼女は何かに取り憑かれたように、床を凝視していた。
一旦深呼吸しよう。久しぶりの不可解な現象にはやる心を鎮めるのだ。そうだ、みんなにも知らせないと。しかし一体何がどうなっているんです? 隣の彼女は大丈夫なのか。段々息が荒くなってきた、しかもちょっと妙な匂いまでしてきた。さっきまで大人のおねえさんのいい香りだったのに。そんな交代制に見つめないといけないものだったとは、電車の床って。
頭を駆け巡る声を抑えながら、隣の様子を見ようと斜め横になった体と視線を、違和感のないようゆっくり前に戻す。なんだっけ、あれみたい……玉転がしじゃなくて、ええと、ビリヤード!
思い出しながら前を向くと、今度は少年と目が合った。先程の男性が座っていた隣にいたようだ。少年はあからさまにしまったという表情をして、さっと目を逸した。
会話のキャッチボールならぬ視線のドッチボールだ。さっきのは怪異のビリヤード。
少年はドッチボールの球を華麗に避け、我関さずと知らんぷりしている。さっき絶対目が合ったのに。もう涼しい顔をして、手元の本に視線を落としている。私立の小学生だろうか、紺色の制服を着て、姿勢も正しい。
この謎を解くにあたって目撃者は多い方がいい。少年の一瞬の危機感が、私の隣の女性や一連の不可解な現象よりも、主に私に向けられている気もしたが思い過ごしだろう。
「ねぇ、ちょっと君、待ってってば」
電車が駅に着くと、少年はさっさと降りるなり改札の方へダッシュした。背が小さいので、改札に向かう人混みに紛れて見失いそうだったが、追いついて前方に立ち塞がる。
「君が逃げると私が追いかけてることになるだろ」
「いや追いかけてますよね」
「不審者じゃないのです」
少年は疑わしそうに、そのくりくりとした瞳で私を見上げて首を傾げた。
「君、気づいてたでしょう、さっきの、ね、ふふ」
「おまわりさんを呼びます」
「それはやめてほしいなぁ〜! 協力してよ」
行き交う人々は、人混みの真ん中で押し問答している我々を迷惑そうに避けていく。
少年は腕時計に視線を落として、小さなため息を吐いた。
「何のことだかわかりませんし、僕は学校に行かないと。あなたも会社でしょう。それでは」
淡々とそう言って、立ちはだかる私をひょいとかわして改札へ向かう。
「じゃあ、明日! 同じ時間の同じ車両に乗ってきて!」
追いかけながら小さい背中に言葉をかけるが、少年は振り向くことなく立ち去って行った。
○
翌日の電車内。
今日も元気に怪奇現象は通常運転しているようだ。通勤電車はだいたいの顔ぶれと位置が決まっているらしい。昨日のおねえさんが同じような場所に座っているのを見つけ、反対側のドア付近に立って様子を覗うことにした。視線は床に落ち定まっており、そのあたりだけ空いている。熱烈視線で床に穴が開きそう。
横目で、昨日の少年が座っているのも見つける。最近は子ども時分からツンデレを習得するのだろうか。ライングループにも事のあらましを送ったが、あまり芳しい反応は返って来ず。
何と今日は、怪異ビリヤードは行われなかったのだ。おねえさんはまんじりと床を凝視したまま、私は目的の駅で降りた。
先に降りて心なしか早足で行く少年を見つけ、声をかける。
「おはよう。信じてた!」
少年はびくっとして振り向き、苦いような顔をした。
「違います。ちょっ、声大きいですって」
「君も気になるから、同じ車両に乗ってくれたんでしょ? 謎だよね、体調大丈夫ですかって声をかけるかも悩んだけど」
横に並んで当たり前のように喋り始める。少年は立ち止まって、こちらに向き直った。
「あの、僕は僕のルーティンを崩さないようにあの車両に乗っただけですから」
「ルーティンって?」
「だから、こう規則正しく同じ時間にこれをしてからあれをするとかの続きで、同じ電車に乗ってるだけで。変な現象が起きようと関係ないんです」
「やっぱ知ってるんじゃん」
私が笑ってそう言うと、少年は眉間に皺を寄せてむっとする。
「……知ってるも何も、アレ半年前からだよ」
口調を崩したので、少しは打ち解けたのかなと私は希望を抱いた。
「そうなんだ! え? 半年前から交代で床凝視してるの?」
「もう、行かなきゃ」
テンションの上がった私とは対照的に、少年は質問を華麗に無視して改札へ足を進める。
「昨日より二分三十八秒話した。三分も積み重ねれば不可解な謎が解けるかも。これ、宿題ね」
そう言って私も足を早める。追い越し際に、一冊のノートを無理やり渡した。
「え?」
「それは作戦交換ノートだから。よろしく」
颯爽と改札を出て振り返り、ノートを指差し宣誓した。ぽかんとした表情。駅構内を一歩出た瞬間、夏の陽射しと蝉の鳴き声が充満していた。
○
“私”に吸い込まれていく。
朝も昼も夜も、また同じ、繰り返す時間だけが平等に刻まれる。電車は運ぶ、降りることはできない。明るい、暑い、暗い、冷たい。忘れかけている暖かい手触りだけを胸に抱き自我を保つ。生き終われば降りられる。今はまだ、今はまだ。
前を向く為落としていく“私”が、誰かの“私”に吸い込まれていく。
○
それから作戦交換ノートと、改札までの約三分間で、私達は車内の現象を解決してみようとした。ノートにはオカルト部で知り得た過去の似たケースと対策案を書き合った。少年は乗り気ではなかったようだが、ノートは律儀に書いて返してくれるし、実験にも付き合ってくれた。
ノートを渡した次の日、いつもと同じように座って本を読んでいた彼が小さなため息を吐いてその物語を閉じ、スケッチブックを取り出した時は感動したものだ。最初の作戦であったそれは、怪異のビリヤードに効きこそしなかったが。
ある日、少年は諦観の意を表しながら、初めて私と目が合った時の事を話してくれた。
「嫌な予感がしたんだよ。僕の叔父さんと同じ目をしてるから」
「叔父さん?」
「いい歳して中身子どもでさ、四歳ぐらいで気づいたよ、これもしかして遊んでやってるのは僕の方なんじゃないかって。それはそうと、どうするの。今日もだめだったし、もう諦めたら?」
あれから数日。怪異のビリヤードは依然として健在で、おねえさんから初老の男性に移り、今は女子高生に移っている。青春の一ページも二ページも、灰色の床で染めるのは可哀想であった。
作戦として、その視線が誰かに打たれる瞬間に、何らかのもので邪魔して遮断したらどうかというのが私の案だ。
スケッチブックに赤いペンで描かれたストップのマークから始め、数回目でその視線を捉えた気がしたが、少年とマークを通り過ぎて初老の男性のもとへ。文字が弱いのかと、世界各国の呪文やら何やらに変えてみたがだめらしい。
「素材を変えてみよう、紙が弱いのかも」
「スケッチブック持って電車内をうろちょろする僕の気持ちも考えてくれないかな……」
ブブ、と震えたスマホに目をやると、グループラインにメッセージが来ていた。私はそれを読んで開眼する。
「なるほど、鏡! 明日鏡を試してみよう」
「聞いてる?」
「ごめんごめん。子どもだからそんな不自然でもない、だいじょうぶだいじょうぶ」
「いや流石に鏡を相手に向けるのは怒られるだろ……」
「効力ありそう〜! じゃあ明日ね!」
どれだけ呆れても付き合ってくれるのが彼のいいところである。
翌日、少年は蓋付きの小さな手鏡を持ち、床に視線を囚われている女子高生に近づいた。
がたん、と電車が大きく揺れて、そのじりじりとした視線がゆらりと立ち上がる。そのタイミングで手鏡をそっと開けて、相手に見せるように向ける。
女子高生の視線は確実に鏡を認識した。焦点は合わず、小刻みに眼球が揺れている。身体までがぶるぶると震え始め、少年がその様子に引き下がろうとした瞬間、女子高生はふっと力が抜けるように瞼を閉じた。鏡にごつんと鈍く重い衝撃、少年の身体がよろめくほどの。
私は今まで、少年にその視線が乗り移ることを危惧していなかった。小さいのに頼りがいのあるしっかりした彼に、その対策をぽっかり忘れていた。
危ない、と駆け寄る。が、鏡から見えはしない何らかのエネルギーが跳ね返り、そこらじゅうの窓に壁に当たってはバウンドするのを繰り返し、最終的につり革を持って立っていた例の初老の男性の顔面に当たった。
当たる、というより吸い込まれていった。初老の男性はまた俺のところに来やがったという絶望の表情を刹那残して、項垂れたように床を見つめ始めた。
「今日は惜しかった……、鏡じゃ跳ね返しちゃうのか」
いつもと違う反応に手応えを感じたのか、改札前で少年はそう呟いて思案しているようだった。
「……今日で終わりにしよう」
「ええ? やっとできそうな気配が見えてきたのに?」
私は相変わらずくりくりとした少年の瞳を、確かめるように覗き込む。
「僕は何ともなってないよ。思いついたんだけど、スマホとかタブレットは? 電子機器って意外とこういうのに親和性あるっていうじゃん」
確かに鏡が反射して跳ね返してしまうなら、どこかに繋がっている機械なら吸い取れたりするのかもしれない。
「わかった。明日、もう使ってないスマホ持っていく。ただし明日は私がやるね、交代だ」
少年は不服そうな顔をしていたが、わかったと言ってお互い幸運を祈り別れた。
翌日は珍しく小雨の降る朝だった。鞄の中には、機種変した何台か前の古いスマホ。データを抜き、駅の公衆Wi-Fiに繋いである。
つり革にぶら下がった初老の男性は、背中を見ても憔悴しているのがわかった。床、床、床。その男性の前の席が運良く空いたので、滑り込むように座る。少し離れたところで少年が心配そうに見ている。
ごとごとと電車が走り始めた。私は男性の様子を伺いながら、スマホを取り出す。それに反応したのか無関係かわからないが、男性の視線がゆらりと上向く、ここだ。
スマホの画面をその視線の先に向けた。まるで何かのページを見せるように、さりげなく。
昨日と似た反応だ。ちかちかと焦点がぶれ、小刻みに震え始める眼球。ひゅーひゅーと息が漏れるような音がする。唇の端から少量の泡が吹き出す。
そしてがくん、と力が抜けて目を閉じる。こちらに衝撃はない。車内を乱反射するエネルギーも感じられない。
あっけないほどするりと、視線はスマホの画面に吸い込まれていった。吸い込みやすいようにブラックホールの画像を表示していた甲斐があった。掃除機と悩んだのだけれど。
スマホの画面を見ないようにポーチへ突っ込み、恐る恐る辺りを見回す。少年と目が合った。しばらく視線の応酬をして、二人で小さくガッツポーズをした。
「大成功だね!」
改札前でわいわいと祝い合って、人混みを混雑させながら今後の相談をした。とりあえず効くのかわからない封印の布でスマホをぐるぐる巻きにして、厳重にポーチへ仕舞ってある。持っているのも何なので、今週末にお寺に持っていってお祓いしてもらうか、どこか地中深くに埋めるか、などの案が出た。
「じゃあ今週の残りはそれを相談しよう」
「これでこの奇妙なやりとりも終わりだね」
少年はさも清々したかのような笑顔で言う。
「さみしいことを言うんじゃありません。もう友達でしょう。それに怪奇は呼ばれるところに出てくるのだから」
「いや呼ばないでよ?」
「呼ばないけど……、そうだこの一連の実験、夏休みの自由研究とかに使ってくれていいよ」
私がそう言うと、少年は珍しく子どもみたいな顔をして、使えるかよと笑った。
○
まだまだ暑いが、秋の気配が風に乗ってくる。それを吸い込むように深呼吸した。
あれから一ヶ月、朝の通勤電車は平和そのもので、時々すれ違う少年も挨拶する程度だが元気そうだ。
落ち行く太陽と夕焼けを背に、私は帰りの電車に乗り込む。
結局例のスマホはお寺に持っていって見てもらったが、もはや学生時代からの付き合いである住職は首を傾げて言った。
「別に何もいないぞ」
念のためお祓いしてもらって、家の庭に埋めた。あの時スマホは通信状態だったから、電子の海へ解き放たれたのかもしれないという結論に至った。
ごとごと走る電車に揺られ、疲れた身体を椅子に沈ませる。頭はぼんやりとして思考がまとまらず、堂々巡りに同じところをぐるぐるした。何だか目線を動かす気力が湧かない。
気づけば、私は薄汚れた床をじっと見続けていた。