母との対立
母との対立
このは
「このは」
「お父さん?」
会社の中で、忙しくみんな行きかう雑音の中で、久しぶりに父の声を聞く。仕事中にかけてくるなんて珍しかった。なんだろう?そして、
「知り合いの人に言われて見たんだけど」
言いかけた言葉聞いて、夏なのにすぐに背筋が寒くなった。聞かなくても次のことばが予想できた。
「お前と男の人が一緒に写ってる写真」
蒼生
「先生、別にスーツなんて着なくても、着慣れてないのに」
つまらなさそうに言われた。
「そんなに似合わない?」
「違和感半端ないです」
普段は、ジーンズとかチノパンとか自由な服装しているので。
「君が見慣れてないから違和感あるだけで、初めて会う君のお父さんとお母さんから見たら普通に見えるんじゃない?」
じっと顔見られた。
「もしかして緊張してます?」
「この状況で全然緊張しない男がいたら会ってみたい」
仙台に向かう新幹線の中。彼女のお父さんからの電話の話聞いて、これからのこと考えると、会ってお詫びしたほうがいい気がして、こんなとこにいる。
お父さんの知り合いの娘さんが僕のファンであのサイトを見ていて、たまたまお知り合いも覗いて分かってしまった。「これ、このはちゃんに似てない?」とお父さんに送ってしまった。それで仰天して、電話かかってきたらしい。
「着物のほうがかっこいいのに」
このはさんのほうがのんき。
「かっこよさはいらないでしょ。初対面で小説家が着物着てきたら、いかにもでなんか嫌味なやつだと思うけど。それに、見るのは好きだけど着るのは別に好きじゃないし」
そしてじっと彼女を見て気づいた。
「なんか今日の格好って、その化粧も」
「変ですか?」
「お母さんってたしか赤が好きじゃないって言ってなかった?」
赤い口紅つけて、ちょっと派手な柄のワンピース着て、赤いサンダル履いてる。きれいなんだけど……。
「別に母は……」
彼女僕から目をそらして、前を向いて遠い目をする。
「いいんです。もう」
ああ、この人、お母さんとけんかしに行く気だ。ぴんときた。
僕はできるだけ地味な服選んできたのに。このはさんはいつもはもう少し大人しい服着てるのに。地味な服来た中年男と派手な服着た若い女の子とで、一体今日はどうなっちゃうんだろう?この人の服装にまで気が回ってなかった。これじゃあ、僕が地味な服着た意味がないような気がするんだけど。
このは
「この度はこのようなことに娘さんを巻き込んでしまいまして誠に申し訳ございませんでした」
すすめられた座布団から一旦畳の上に座り直して先生が頭を畳につけてぴたりと動かなくなった。
「心配かけてごめんなさい」
わたしもなんとなく頭を下げた。
「お顔をあげてください」
お父さんの声がする。お父さんの顔とお母さんの冷たい顔。覚悟していた。ずっと言われていた。東京の人なんかと結婚しないわよね。厳密に言えば先生は東京の人じゃないけれど、母にとってはわたしを奪っていく敵。
「日野さん、でしたよね。失礼ですが、おいくつですか?」
お父さんが聞いている。
「39歳です」
「お仕事は?」
「小説を書いて生計を立てています」
お父さんがちょっと黙る。
「有名なの?」
母が急にわたしに向かって聞いた。
「若い年齢層中心に人気ある」
母はふいに先生のほうを向いた。
「そんな有名な先生だったら、寄ってくる女の人っていっぱいいるんじゃないですか?」
母さん、やめなさいと父が言う。母は止まらない。
「結婚とか考えておつきあいしてるわけじゃないんでしょう?」
先生はまっすぐ母を見た。
「まだ2人で話し合ったことはありませんが」
先生が話す顔を横から見ていた。
「彼女がもし僕のような男でも構わないというなら」
慣れないスーツを着た男の人が、
「僕にはそのつもりがあります」
そういうのを初めて聞いた。母が口を閉じて、不愉快そうに彼を見た。
「嘘」
誰も話さない座敷に母のことばがぽろりと落ちる。
「小説家なんて嘘つくのが仕事じゃない。嘘ついてうまいこと言って、遊ぶだけ遊んで飽きたら捨てるんでしょ」
母さん、やめなさい、とまた父が言う。でも、父が言っても、最近の母は言うことを聞かない。
「そういうことはしません」
母はまたわたしを見た。
「ねぇ、このは」
熱に浮かされたような目。
「信じちゃだめ。あなたみたいな普通の子はね。普通の人と結婚するのがいいのよ。あなた、今、どうかしちゃってるのよ」
「……」
「あなた、別に、特別に美人なわけでもないんだから、今だけよ。年取ったら捨てられて、若い女の子に取られちゃうわよ」
先生が横で何か言いかけているのがわかった。
「先生はそんな人じゃない」
一瞬、その声が自分の声だと、自分でもわからなかった。大きい声出してた。心臓がどきどきしている。母がぽかんとこちらを見ているのが見える。
「蒼生さんの悪口言わないで」
機嫌が悪くなれば、あーだこーだ言えば、何でも思い通りになると思ってる。それがわたしの母。
「いくらお母さんでも許さない」
わがままにちやほやと育てられて大人にならなかった大人。わたしはあなたのお気に入りのおもちゃじゃない。もう、あなたには縛られない。
みんながまだ驚いている中で、わたしは立ち上がって、座敷を出て、
「このはさん」
先生が驚いて呼ぶ声を背中に聞いた。それでも止まらずに玄関に出て、サンダル履いて、
ガラガラガラ
表へ出る。まぶしかった。夏の日差しがたっぷりとわたしに降り注ぐ。
わたしは家を出た。
蒼生
「このはさん」
驚いて声かけたけど、彼女何も持たずに出てっちゃった。
「あ、あの」
「追いかけてあげてください」
お父さんに言われて、自分と彼女の荷物持ってふと思い出す。
「すみません、これ」
渡しそびれてた東京銘菓。挨拶もそこそこに靴履いて家を出る。道を左右見渡す。どうしよう。いない。派手な服着てたから、視界に入ったらすぐ見つかると思うんだけど。
とりあえず来た道をと思って、右へ行く。
彼女のお母さんは、前から時々話に聞いてたし、思った通りの人だった。僕は小説書いて飯食ってるような人間が、毎日こつこつ働いてしっかり子供を育てたような世代の人たちから嫌われることは知ってるし、慣れている。だから、それ相応の覚悟はしてて、平気だったのに。でも、まさか、彼女があんなふうに……。
見当たらない。駅へ着いてしまった。でも、電車には乗っていないはず。彼女、お金持ってない。かばんおきっぱなしで出てっちゃったから。もう一度来た道を戻る。
彼女があんなに怒るなんて想像してなかった。僕はただ今日は彼女の両親の、特にお母さんの怒りを受け止めて聞くために来た。一回で信用してもらえるとは思ってなかったから、ただ今日はなじられるのを一方的に聞こうと思って。
僕は遮らなかったけど、彼女が遮ってしまった。
こんなふうにはしたくなかった。まずかった。
このままじゃ、あの子はお母さんを失ってしまう。
僕を得る代わりに、お母さんを失うようなことがあってはならない。気を付けていたはずだったのに。
公園の横を通ったときに見つけた。高い服と靴身にまとった女の人が、泣きながらブランコに座ってる。
「このはさん」
「……」
彼女は何も言わずに僕を見た。そこには子供と大人が混在していた。
美しいカットの服を着て、きれいにお化粧して、それなのに子供のように泣いちゃったものだから、お化粧が崩れちゃってる。きれいなホテルのラウンジにでもいたら様になるだろうに、古びたブランコに腰かけて、そして僕を見ている。
僕は彼女のハンドバッグの中から、ハンカチ探し出して、彼女の涙を拭いてあげた。
「あんなたんか切る君、はじめて見たよ」
「……」
「ありがとう。……僕のために怒ってくれて」
うまいやり方じゃなかったけど、ぶちまけてしまった以上はもう、このくらいしか、ベストなことばがみつからない。うううと言って、もう一度少し泣く。
「もう泣くのはやめなさいよ」
出てくる涙をハンカチに浸み込ませながら、彼女が泣いている。肩を震わせて。きっとずっと我慢してきたことがはじけてしまったんだよね。これは今日一日分の涙じゃなく、何十年分の涙なんだと思う。彼女を泣かせたままで、しばらく待った。落ち着くまで。僕も隣のブランコに座って、2人分の荷物抱えながら。
***
「すみません。あの、日野です。ご連絡遅くなってしまって」
彼女の携帯からお父さんを無事見つけて、今2人でホテルで休んでると告げた。
「このははどうしてますか?」
「ベッドに横になってテレビぼんやり見てます」
お父さんはしばらく黙った。
「あなたと、その肝心な日野さんとゆっくり話せなかったから……」
「はい」
「もしこのはが平気そうだったら、少し出て来られませんか?」
***
このはさんのお父さんとホテルの近くのカフェで2人だけで会った。白髪の混じった灰色の髪の毛をして、メガネをかけた上品で穏やかな顔立ちの人だった。このはさんは顔だちはお母さんに似ているけど、雰囲気はお父さんに似ていると思う。
「あんな……、あんなに怒った顔のあの子を見たのは初めてでしたよ。子供の頃からずっと見てきたけど」
お父さんはしんみりと言った。
「あなたのことが本当にこのはは大事なんでしょうね」
どう答えていいかわからずに、軽くお辞儀をした。
「このはが東京へ出てしまってから、あの子と母親おかしくなってしまってね。うちのが、結局……」
コーヒーを少し飲んだ。お父さん。
「子離れできてないんでしょうね」
午後の喫茶店。そんなに混んでなかった。静かな時間。僕は少し緊張していた。緊張したからと言って、僕が僕以上に立派に見えるわけでもないのに。
「あの子のそばにいて、支えてあげてくれませんか?母親も今日のはこたえただろうけどあの子もこたえたでしょうから。あの子はずいぶんあなたのこと頼ってるみたいだし」
「はい。……僕の精一杯で」
「泣かせないであげてくださいね。うちのみたいに頭から信用してないわけじゃないですけど、日野さんのことはよく知りませんし」
「はい」
外は今日もいい天気で、少し歩けばすぐに汗ばむ。きらきらした夏の日差しは、でも、エアコンのきいた室内にいれば、ただ、きれいなだけ。
「あの、でも……」
彼女のお父さんのやさしさについ僕は甘えてしまった。
「なにか?」
「僕はこういう仕事をしているし、書けなくなったら、売れなくなったら、終わりの人間です。こういう不安定な人間と一緒にいることが、彼女にとっていいことなのかどうか悩みます。このはさんももう何年かすれば30歳になるし」
結婚とか将来を考えるなら僕みたいな男よりも、もっと安定した人とつきあったほうがいいのではないか。
お父さんは僕を困った顔で見た。
「男としては君の言ってることはわかりますけど、父親としては許せないな」
まずいこと言ったな。口滑らしてしまった。
「そんなに自信がないのなら、人の娘に手出さないでくださいよ」
「すみません」
ごもっともです。
「ただ、男の立場として少し言うならば、女の人って男が思うほどには、お金にこだわっているわけではないですよ、人によるけど。特にこのははね。男って結婚って話になるとまず、箱というか物のこと考えますよね。つまり、お金ですね。もちろんそれって大事なんだけど、家とか車とか、子供学校に入れるお金とか。でも、お金、お金と思うばかりに、つきあっている時に相手にあげていた関心というか思いやりというか、そういうの怠ってしまう。立派な家を建ててあたえて、どうだと言っても、意外と相手が冷たい顔して喜んでくれなかったりね」
穏やかな顔でゆっくりと話した。お父さんの実体験なんだろうか。コーヒーを一口飲んで、話しの続きを待った。
「あんなにあなたのこと悪く言われて本気で怒ってる子に、自分は収入が不安定な男だから、サラリーマンの男と結婚したほうがいいなんてね、言わないであげてくださいよ。このはの将来心配して言っているようで、やっぱり逃げてるだけですよね。そういうのは相手に対する思いやりでも愛情でもないんじゃないかな?」
優しい口調なんだけど鋭くて、僕の心に刺さりました。
「世の中にはあなたのように自分の才能を発揮して収入を得ている人もいますけど、大半は僕みたいな平凡な男です。たくさんの平凡な男がたくさんの平凡な結婚をしている。ほとんどの人がやっぱり、自信満々で結婚なんてしてないと思いますよ。自信なんかない。でも、必死なんですよ。結婚なんてありふれた出来事ですけど、それぞれ各自は死にもの狂いで、一生懸命で、必死なんですよ。大切な人をただ幸せにするために」
きらきらした光の中で一瞬時間が止まった気がした。印象深い一瞬だった。
家族をもって、何十年とその城を守って来た男の人。そういう人が世の中にはたくさんいる。毎日、同じようなことを繰り返して生きてきた人たちは、でも、確かに強いです。そう思いました。
「君は、ああやって娘の写真が出てしまったことに対して、ちゃんと直接謝りに来てくれましたよね。だから、いい加減な人だとは僕は思っていません。年齢もずいぶん上だし、仕事もちょっと変わってる。だけど、このはの好きになった人だから、悪い人じゃないんでしょう。だから、僕よりふさわしい男がいるなんてつまらないこと言わないで、あの子の気持ち受け止めて幸せにしてあげてくださいよ」
「はい」
自信なんてないけど、ここまで言われてこう答える以外にどうできると言うんだろう。
本当はどんな男が来たって、信用なんかできないんだろうと思う。大切に育ててきた娘を安心して渡せる男なんてきっとどこにもいない。
「君は、たしか、奥様を亡くされているんでしたよね」
「はい。事故で」
「もし、君たちが結婚することになったら、うちの子は二番目の奥さんになるわけだ」
二番目、ということばが本当に正しいんだろうかと思いつつ。
「はい」
お父さんは目じりに皺を寄せて笑った。
「あの子もずいぶん、難しい人を選んじゃったね」
「すみません」
こればっかりは努力してもどうしようもない。お父さんはしばらくそっと笑っていた。
このは
先生がお父さんに呼び出されたと言って出て行った後、いつのまにか眠っていた。お母さんの夢を見た。
「お母さん、見て。読書感想文。コンクールで賞取ったんだよ」
「わー、すごいわねぇ。このはちゃん」
母はにこにこ笑って褒めてくれた。わたしは作文が得意で、読書感想文が賞を取ったのは、その年だけではなかった。気がついたのは、何年目だろう?わたしは市の感想文の文集をいつも、両親の目につくところにおいていた。でも、読んでくれたのは父だけ。母は、たぶん一行も読んでいない。或いは、読んでも何も言ってくれなかった。
「どうして読んでくれないの?」となぜかわたしは母に言えなかった。
わたしには何も言わないのに、母はいつもわたしの目の前で兄を褒めた。
「将臣、すごいわね。数学の成績あがったじゃない」
兄の持って帰ってくるものは事細かに見て、あがったとかさがったとか、このままじゃだめとかすごいとか、わたしと全然違う。
「男の子は将来、家族を支えなきゃいけないんだからね。しっかりしなさい」
母のわたしに対する関心はいつもそういう所にはなかった。
「このはちゃん、その服やっぱりすごい似合ってる」
「前髪切りすぎちゃったんじゃない?まあいいか、髪なんてすぐ伸びるし」
化粧するようになると、口紅の色や、アイラインの引き方。眉の整え方やマニキュアの色、服や靴、バッグ。母の気に入るようだと喜んで褒める。そして、最後は、彼氏。
「ほんと、勝也君みたいないい子なかなかいないわよ。このはちゃんに似合ってる」
母は女の子としてのわたし以外には関心を持っていなかった。
わたしの毎日は無意識のうちに、いつも母の顔色をうかがうことに始まり、そして終わってた。
「このはちゃんってほんとに、本が好きなのね」
いつも本を読んでいるわたしに言った。
「ほどほどにしとかないと、目悪くなるよ。めがねかけてる女の子ってお母さん、やだなぁ」
いつもそんな感じ。
「それよりさ。一緒にクッキー焼かない?」
わたしは母にどんな本読んでるの?と聞かれたことがたぶん一度もない。母に合わせるのはいつだって楽だった。ただ、母と話していて、わたしは退屈じゃなかったことがない。母はとても退屈な女の人だと思う。
蒼生
「何か食べに行こう。昼も食べてないよ」
部屋に戻ると彼女、ベッドで寝ていた。声をかけると目を開いて僕を見た。
「食欲ない」
「それでも、食べないとだめ」
外に出て外の空気吸わせないと。
「どこに行く?」
「どこでもいい」
やっぱり元気がない。ふと思いついた。
「そうだ。あそこ行こう」
彼女と手をつないだ。ぼんやりと僕を見る。
「2人で初めてご飯食べたとこ」
タクシーつかまえた。店に入って席に案内される。
「ここらへんの席だったっけ?」
彼女が少しだけ微笑んだ。
「あの時、蒼生さんのことすごい変な人だって思ったな」
「なんで?」
「だって車で来てるのにわたしにビール飲ませちゃうし」
くすくすと笑う彼女を見る。
「何年経ったんだっけ?」
「3年」
「早いな」
「あの時はまさかこんなふうに2人でここにまた来るなんて思わなかったな」
お店を見渡してる。そんな彼女を僕は見ている。お店の人が来て僕は注文をする。思いついて瓶ビール、一本だけ頼んだ。
「あの頃は本当に他人でしたね」
「うん」
「今思い出すとすごい不思議」
みんなきっとそうなんだろうな。お互いまさかずっとこれからつきあう相手に出会ったなんて知らなくって、でも、不思議と忘れられない初めて会った時のこと。大切な人と。彼女が僕をじっと見つめた。輝いて濡れた瞳で。
「先生」
「はい」
「お昼言ってたことって本気ですか?」
「何のこと?」
「わたしと結婚するつもりがあるって」
一瞬2人で黙って、僕は息を吸った。食べ物やさんのいい匂いに僕たちは包まれている。
「好きで、ずっと一緒にいて、離れたくなければ、お互いに。僕にとっては結婚するのが自然なことだから」
彼女は静かに僕の話を聞いている。
「お待たせいたしました」
食事が来て、2人でゆっくりご飯食べた。
「結局、澤田さんって牛タン食べてないんですか?」
「ああ、そうだね。そういえば」
「お土産買ってってあげましょうか。たまには」
「そうだね。世話になっているわりに、いつももらってばっかりで」
2人で軽く笑った。ビールをグラスにつぐ。
「乾杯」
「何に?」
ちょっと考える。
「ええっと」
「2人の出会いに」
その時の笑顔は屈託なかった。グラスをならしてビールを飲む。
話が途中で途切れてしまったな、さっき。彼女は僕を選んでくれるだろうか。ふと不安になる。真夜中に暗い淵をのぞくようなぞくりとした心地がした。
お互い好きだからって、好きだけでずっと一緒にいられるわけじゃない。分かってるけど、離れるのはきっとすごく痛い。
死にもの狂い、必死、無我夢中。生きることを選んだ限り、僕は、今、そうならなければならないのかもしれない。
電話がなった。
「どっちの?」
「蒼生さんの」
電話嫌いな僕にかけてくる人なんて限られている。やっぱり暎だった。
「はい」
「今、1人?」
「いや」
「このはちゃんと一緒にいる?」
「いますけど」
「どこ?」
なんかめんどくさいよね。仙台とか言って説明するの。
「外」
「あのね、このはちゃんに自分の家に帰らないように言ってくれる?」
「どういうこと?」
「彼女の家の写真あげた人がいてさ。入口の」
「うそ?」
「残念ながらほんとです」
「だってどうやってわかったの?」
一瞬、暎が黙る。躊躇する様子が伝わって来た。
「このはちゃんに言うなよ」
「うん」
「社内の人間だよ。それも、おそらく知り合いだ。直の」
「なんで?」
「社員の個人情報は人事しか知らない。人事にはわざわざここまでする動機ある人いないと思う。でも、彼女の直の知り合いなら、彼女の家知ってるでしょ?一部の人は」
箸を止めて、僕のこと見ているこのはさんを見る。努めて普通の顔をしなければ。
「どうするの?」
「伝手使って、個人特定して、やってる人本人に俺から話すからさ」
「うん」
「このはちゃんには詳しいこと言わないで。ただ、帰るなとだけ」
じゃあな、また連絡すると言って電話は切れた。
「澤田さんですか?」
「うん」
「何だったんですか?」
どう話そうか、考えながら少し頭を整理する。