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彼女は牡丹君は椿③  作者: 汪海妹
4/12

先生の涙













先生の涙













このは













先生は時々わたしに服や靴やバッグやアクセサリーを買ってくれた。一緒に歩いていて、先生の目についたものがあると試着して。自分で買う物より高いそれらの服は平日は着ない。週末、先生といるときだけ着る服。もともと彼が写真を撮ってみたい色の服なので、派手な色や柄のものが多くて。でも、髪型や化粧の仕方まで言われた通りにしてみると、なんか、それなりに見えてくるから不思議だった。先生はわたしの知らないわたしを知っていて、それをわたしの中から出してしまう人なのだった。


「先生ってちょっと、魔法使いみたい」

「どういう意味?」

「わたしを変身させているみたい」


すると、不思議な返事が返ってくる。


「変身ではなくて……」

「はい」

「これももともとのあなたが持っているあなたなんだけどね」


煙にまかれたみたい。


***


初夏に京都に行きたいと言われて、週末に有給をちょっと取って出かけた。


「京都はたしか夏がいちばん観光客が少なかったはず」

「そうなんですか?」

「冬だったかな?」


2人でのんびりお寺巡りして、緑の中で先生はわたしの写真を撮った。写真撮りながらおしゃべりする。


「なんでこんなに写真を撮るの好きになったんですか?」

「なんでだろ?」


しばらく考える。


「写真って撮る人と撮られる人の関係性が写るものだとわかったからかな?」

「もう少しわかりやすく説明してください。できの悪い人のために」

「じゃあ、できの悪いこのはさんのために噛み砕きますと、友達に撮られるのと、恋人に撮られるのだと、同じ人でも表情が違う。それが面白い」

「ふうん」

「わかった?」

「なんとなく」

「人って幾千に近い様々な表情を持ってると思う。本人でさえ自分で自分の表情全部は知らないんじゃないかな?そういうのを撮るのが面白い」


結構生き生きしてた。このとき。先生。


「表情って心とつながってますよね」

「うん。そうだね」

「だから、幾千の感情があって幾千の表情を人は持っているものなんでしょう?」

「まぁ、そう言ってもいいかもしれない」

「なら、先生は言葉で心を切り取って、カメラで表情を切り取っているんですね」


先生はカメラを構えるのをいったんやめて、ちょっと感じ入った。わたしのことばに。


「たまには自分の顔も撮ったらどうですか?」

「自分で自分の写真は撮れないよ。それに写真嫌い」


そういうところは相変わらず。


***


この頃ってお互いに夢中で2人だけの世界だったなと後から思った。夜は旅館に泊まったから、久しぶりに先生の浴衣姿が見られた。2人並んで一緒に写真撮った。おいしいもの食べて、おしゃべりして、笑って、一緒に寝て、朝の光の中で目覚めて、先に起きたほうがまだ寝てるほうの寝顔を眺めて過ごした。


帰りがけに四日市によって、なっちゃんたちに会えた。久しぶりに彼女と会って気後れしない自分がいた。強がって大丈夫とか、がんばるとか言わずに、彼女に会えた。結婚して子供産んで、そして何より安定した強さを持っているなっちゃん。他人に左右されない強さ。なっちゃんが最近わたしは本当は怖かったんです。


会えば負ける。会えば傷つく。また、自分の自信がなくなる。


でも、わたしはあのとき、なっちゃんが怖くはなかったけど、でも、何か勘違いをしてたと思う。あの頃のわたし、幸せだったけど、強くはなかったから。わたしの電車はまだゴールに着いてなかった。ただ、あのつきあい始めの幸せな時期にわたしはちょっとだけ休んでいた。いろいろなことを忘れて、自分の弱さとか、そして、安らいでいた。素敵なお休みだった。


***


週末に彼の家に泊まって、日曜の朝には寝室の物を全部洗う。枕カバーとシーツと布団のカバー。そして新しい洗濯済のと交換して、それから、寝室とおふろと洗面所を掃除する。つきあってからのわたしの習慣。


「なんで?」


先生の家は家政婦さんが平日週二回来てくれて掃除してくれるから、トイレとかキッチンとか追加で気になる所を掃除するだけで、洗濯も掃除もわたしがする必要はない。わかってる。


「……」


先生にわざわざ言ったほうがいいのかな?


「寝室とかお風呂とかに長い髪の毛落ちてたらやだからです」


つきあってなきゃ落ちない。そういうところに髪の毛は。


ぶっと笑われた。


「あのさ、今まで全然やらなかった掃除や洗濯をし出したら、女の人がいてやってるってばれるから同じじゃない?」


男の人にはわからないんだろうな。


「あのね、先生」

「はい」

「落ちてる髪の毛を拾われて、女ができたと思われるのと、そうじの痕跡で女ができたと思われるのでは、女の人にとっては気持ちが違うんです」


不思議な顔をしている。


「意味がわからない」

「わからないでいいです」


先生、男の人だからわからないでいい。2人で眠るときに使ったものとか、他の女の人に触られるのって嫌なんだよ。たぶん家政婦さんも女だからそれはわかると思うけどな。


***


その日の朝、先生より先に起きてわたしはいつもみたいに掃除してた。いつのまにか彼が起きてきて、お風呂で掃除してるわたしの後ろに来てた。


「昨日はごめんなさい」


振り向かずに前見たまま、背中で聞く。


「自分でもわかってなかったんだけど、心がすごく傷ついていて」

「はい」

「それと向き合って、ひとつひとつ泣かないと前に進めないのかもしれない、僕は」


振り向いた。困った顔をしながら、パジャマのままでしゃがみこんでわたしを見てる。寝癖ついてるな。


「あなたの前で泣くべきじゃなかったってのはわかってるんですけど」


わたしはまた掃除に戻った。バスタブ磨き終わったから、シャワーで流す。


「手放しでどうぞどうぞとは言えないです。さすがに」


その後のことばを言うかどうか迷う。それを言ってしまったら、


「ただ…」


わたしは世界でいちばんのお人よしな女で、


「そんなに傷ついている時に」


そして、お人よしな女だからといって、


「1人で泣く必要はないですよ」


男に大切にされるわけではない。大体においてお人よしな女というのは、順番が後ろに下がっていくんだよ。二番になって、三番になって、もっともっと後ろになっていくかもしれない。幸せになりたければ、なってはいけないんです。お人よしな女にだけは。


先生、黙ってまだそばにいる。あっち行ってくれればいいのに。掃除しづらい。













蒼生













昨日の夕方まではいつもみたいに過ごしてた。


「今日の晩御飯どうする?いつも外も疲れるし、何か作って家で食べる?」

「誰が作るんですか?」


少し勇気いった。次のことば。


「このはさんって料理できないの?」

「普通レベルならできますけど」


どうして作ってくれないんだろうって思ってた。朝ごはんぐらい作ってくれるけど、あんなのパン焼いてたまご焼くくらい。これ作ってくれって頼まないとだめなのかな?


「なんで…」

「はい」


最近の若い子って男が作ったりするのかな?


「僕に料理作ってくれないの?」


無表情。怒らせちゃったかな?


「先生の家の冷蔵庫にはいつも料理が入っているから」

「……」


たしかに。家政婦さんがいつも作り置きして冷蔵庫に入れといてくれるんだ。


「それに、家政婦さんってプロじゃないですか。わたしが作ったほうが」

「作ったほうが?」

「確実にまずいです」

「……」


土日の分は要らないって家政婦さんに言ったら、作ってくれるのかな?でも、この言い方だと作ってくれない気がする。食べてみたいんだけどな。この子の作る料理。おいしいとかおいしくないとかの問題じゃないんだけど。

彼女はすたすた歩いて行って冷蔵庫覗く。


「先生、何が食べたいんですか?」

「カレー」

「カレーはないです」


ないのわかってるから言ってるに決まってる。しばらく見つめ合う。


「しょうがないなぁ」


彼女が冷蔵庫の中がさごそしてる。しばらくしてばたんとしめた。それから、調味料とか入ってる棚みてる。


「足りないもの買ってきます」


そう言ってかばん持って玄関に向かう。スニーカー履いてる彼女に声かける。


「お金は?」

「いっつも服とかいろいろ出してもらってるのに、このくらいいいですよ」


振り返ってつけたした。


「あ、カレーのルーとか、なんかこれ入れてほしいってありますか?」

「辛いのがいい」

「お肉は?」

「牛肉かな」

「福神漬けとからっきょうとかもほしい?」

「あってもなくてもいい」


ふふふと笑った。


「ごはん炊いといてくださいね」


ばたん。成功した。思いがけず。


ニャー


エメラルダ抱っこして、ベランダのほうへ行く。上から買い物に出ていく彼女を見る。普通の夕方。空が赤くなってくる時刻。今日も僕は猫と女の人と過ごす。1人じゃない。こんなありふれたことが僕は好きだ。


おいしいものが食べたいなら、有名なレストランにでも行けばいい。一流のものだけがいつも心を満たすとは限らない。恋をしている人にとっては、好きな人が作った料理はいつも一流をこえていくものだから。


***


「先生って」


料理してる彼女をずっと見てたら聞かれた。


「料理できるんですか?」

「かろうじて食べられるレベルなら」

「嘘?」


それって、嘘、できるの?なのか、嘘、そのくらいしかできないの?なのか、どっちだろう?


「ごはん、大丈夫でした?」

「いや、ごはんぐらいは炊けます。さすがに」


***


「どうですか?」

「おいしい」

「本当ですか?」


笑ってる。


「カレーなんて誰でも作れますよ。いっつもいい物食べてる人の口には合わないんじゃないですか?庶民の味は」

「僕なんか全然庶民だけど、もともと。僕は色彩にはうるさいけど、味にはそこまでうるさくないよ」

「あんなにいつも有名なところのものばっか食べてるのに?」


不思議そうに彼女が聞く。


「あれは暎の趣味だよ。坊ちゃんなのはあいつ。僕は公務員の息子だし」

「え?そうなんですか?」


すみませんね。坊ちゃんじゃなくて。


「澤田さんって坊ちゃんなんですか?」

「あいつ、実家嫌いだから実家の話あんましないけど、結構いいとこの坊ちゃんのはず。あまり帰ってないみたいだけど」


お風呂あがりに少し何か飲みたくなって冷蔵庫開けた。


「お酒ですか?」

「君もたまには飲む?」

「何があるんですか?」


昨日、1人じゃ飲み終わらなかった白ワイン見せた。小首かしげて見てる。


「もっとほかのがいい?」

「他にもあるんですか?」


お酒入れてあった棚を覗いた。


「いろいろあるよ。ジン、ウォッカ、ラム、カシス、あ、カルーアがあった」

「なんでそんなに?」

「ごめん。全部古いかも」


ほんの少し前のような気がするから不思議だ。全部あかりが元気だったころに買ったものだから。


「昔ね。カクテル作れって家でシェーカー振らされたことがあって……」

「え?先生が?」

「才能ないからもうやりたくない。あれは。でも、たぶんまだどっかにあるんじゃないかな、シェーカーとか、一式」


そして、まざまざと鮮やかに思い出した。このはさんが今立っているその位置にあかりが立っていて、僕たちは言い争っていた。とはいっても、それは本気のけんかじゃなくて、じゃれあうようないつものやり取りだった。


***


無理矢理作らされたカクテルが全然おいしくなかった。


「まずい」


はっきり言われてむっとした。


「こういうのは外でお金出して飲むもんであって、家で作るもんでは断じてない」

「何よ。やる気ないわね」

「要求が多すぎる。僕に対する。あかりは」


今度はあかりがむっとした。


「料理とかこういうの才能ない。二度とやらない」

「なによ。もう、ちょっと貸してみなさいよ」


そして、彼女がシェーカーを振った。驚いた。すごい上手で。そういえば忘れてたけど、こいつ店のバーテンと一時つきあってたことがあったかも。


「さすが水商売歴長いね」


頭たたかれた。


「飲んでみなさいよ」

「おいしい。同じ材料とは思えない」


お世辞じゃなかった。


「君ができるんなら、僕が覚える必要ないじゃない」

「ばかね。わたしは好きな男が作ったお酒で酔いたいの。気合い入れて覚えなさいよ。好きな男が作ったお酒は一流のバーテンが作ったお酒よりおいしいに決まってるんだから」


そういって笑った。


蒼生と僕を呼ぶ彼女の声が今、僕の耳に蘇った。この家で2人で暮らして、笑ったりけんかしたりしていた情景が。


どうして今まで思い出さなかったんだろう?


***


気がついたら、このはさんの前で僕は泣いていた。

彼女は静かにそれを見ていた。


「お風呂…入ってきます」


どうして泣いたのか彼女は聞かなかった。でも、聞かなくても分かったんだろう。

しまった。


立つのをやめて椅子に座った。


1人で泣くならかまわない。彼女の前で泣くなんて。一度でも許されない。どうして、あんなふいに涙が出たんだろう?あんなにまざまざとまるで今でもあかりがそこに立っているかのように思い出が蘇ったんだろう?彼女といるのに。新しい人といて、今日はほんとうに満たされて幸せだったはずなのに。


僕の心がまるで暴走しているみたいだ。忘れようとしていることを責めているみたい。

でもよりによってこのはさんがいるところで、こんなことになるなんて。













このは













さっきまでほんとうに満たされてぽかぽかした気持ちでいて、たぶん2人とも。今晩もいつもみたいに先生に抱かれて、なかよく朝まで寝るんだと思ってた。


体を洗って、髪を洗って、湯船につかった。


あんな風に泣くんだ。初めて見た。先生の泣くところ。


ほんとうにわたしはばかだったと思う。あかりさんと先生をシェアするなんて。そんなこと言って。

100%持って行かれてる。


死んでいて会えない人を想って、あんな風に泣くなんて、あの泣き顔は本当に見たくなかったな。一生かなわない。一生代役。


それでもそばにいたい。わかってた。自分の気持ちは。それでもそばにいたい。でも、目の前であんな風に泣かれたらやっぱりつらい。


わたしはお風呂から出て、どんな表情をすればいい?何を言えばいい?

今晩は先生きっとわたしのこと抱けないと思う。


あかりさんのこと想いながら眠る彼のかたわらで、わたしも眠るのか。

怒って家に帰っちゃったりするのかな。上手な女の人って、こういう時。


「このはさん」

「……」


いつのまにか浴室のすぐ横に先生が来てた。


「なんですか?」

「なんかお風呂が長いなと思って」


ドア開けようとした。


「開けないでください」

「…なんで?」

「裸だから」

「……」


しばらく黙る。


「顔が見たいだけなんだけど」

「すぐ出ますから。あっち行っててください」


おとなしく出て行った。お風呂出て、パジャマ着て髪かわかす。また入って来た。2人で何も話さないで、わたしは髪の毛乾かして、先生はわたし見てる。


「貸して。後ろやったげる」


先生がブラシ持って、後ろのほう乾かしてくれた。はねないようにまっすぐに。


「こういうの上手ですね」

「料理はできないんだけどね。手先が不器用なわけじゃないんだ」


しばらく黙る。


「美容師とかなれたかもしれませんね。あと、カメラマンとか、スタイリストとか」


2人でちょっと笑った。先生最近わたしのお化粧まで手伝うから。服買うときは選んじゃうし、勝手に。


「怒らせちゃったよね」


ぽつりと言う。ドライヤーとめて、ブラシおいて、先生は指でわたしの髪に触れた。優しくわたしの髪をなでた。


「気にしてませんから」


目を合わさずにそう言って、先に外に出て、ベッドルームに行って1人でベッドに潜り込んだ。まだ寝るには早かったけど、先に寝てしまえば……。先に寝てしまえば、彼がわたしを抱かなかったのではなく、わたしが彼に抱かせなかったことになる。それに、先生がどうするつもりなのか見たくなかった。知りたくなかった。


***


それでも寝れた。不思議だった。ぐっすりとよく寝た。起きるとすぐそばに先生がくっついて寝てた。その寝顔を見ながら思う。男の人ってときどきほんとうにずるいなぁ。

この人は、この人にはきっと今わたしが必要なのだと思う。


あんなにつらい涙を流して、それでも、こうやってくっついて自分を温められる人がいる。いなければ凍えたままで1人で寝ないといけない。そっと体を抜いた。顔洗って着替えて掃除を始めた。


わたしが必要だってことはわたしもあの人も分かっている。

わかってるんだけどな。













蒼生













朝、起きるとベッドに彼女がいなかった。ああ、これは何も言わずに帰っちゃったのかなと思う。時計を見たら8時過ぎだった。どうしよう。ちゃんと仲直りできていない気がする。でも、リビングに行くとまだ荷物があって、バスルームから音がした。覗くと掃除していた。


ほっとしたのと、なんかこういう時に黙々と掃除しているのが彼女らしくてちょっと隠れて笑った。


「あなたの前で泣くべきじゃなかったってのはわかってるんですけど」

「手放しでどうぞどうぞとは言えないです。さすがに」


彼女の背中を見つめる。女の人の背中ってやっぱり男より小さいものだ。


「ただ、そんなに傷ついている時に1人で泣く必要はないですよ」


やっぱりそれはしてはいけない。彼女はそう言ったけど、二度としない、したくない。でも、自信がなかった。だって昨日だって、泣こうと思って泣いたわけじゃない。好きな人を傷つけようと思って傷つける男なんて数えるほどしかいないだろう。


もうちょっと近づいてみた。


「うそ。そんなとこまで掃除するの?」


彼女、排水溝のゴミ取ってた。こっち振り返った顔がかなり怒ってた。


「先生、邪魔」

「別に見てるだけじゃない」

「家政婦さんだってちゃんと取ってます。先生、自分がしないから知らないだけ」

「そういえば、家政婦さんが褒めてたよ。君のこと」

「どういうことですか?」

「先生の彼女は掃除が上手ですねって」

「……」

「掃除ていねいな女の人に悪い人いないから、お嫁さんにもらったほうがいいって」


顔あげてこっちじっと見た。ちなみにこの話、途中から脚色入っています。


「機嫌取ってるんですか?」

「もちろん」

「どうして?」

「怒らせたまま帰したくないから」


たぶんそんなことしたら、自分で自分のこと嫌いになってしまう。少しだけ彼女の怒った顔がやわらなくなった気がした。


「後で聞くから邪魔しないであっち行っててください」


大人しくリビングもどって、エメラルダ抱っこしながらソファーに座って、窓の外の空を眺める。


ニャー


この猫は朝はいつも眠そうだ。













このは













しばらくして、掃除がひと段落したところで先生に誘われて、遅い朝食取りに散歩がてら外へ出た。


「何も聞かないの?昨日のこと。なんで泣いたのか、とか」

「……」


聞けば楽になるんだろうか、わからない。


「先生は…」

「はい」


心の中に浮かんだことば。電光石火みたいに、こうぱっと浮かんで消えた。

言うべきか、


「このはさん、何?」


言わぬべきか。


「大事なのは、先生がわたしといて幸せかどうかです」


わたしはもう一歩、こうしてお人よしの境地に踏み込んでしまう。


「それはもちろん」


辛い経験をした悲しい深みのある目の色で、先生は答える。


「幸せです」

「あかりさんのいない痛みをわたしで補えないなら、わたしはあなたのそばにいる意味がないです」

「……」

「いつまでも繰り返しあなたがあんなふうに泣くなら」


傷ついている人に向かってわたしは無理やりなことを言っているんだろうか?


「わたしなんている意味がないじゃないですか」


わたしは何を言っているんだろう?

そして何がしたいんだろう?


「先生がもしわたしがいることで元気になれるなら」


よくわからない自分が勝手にしゃべってる、今。


「わたしは先生のそばにいます」


たっぷりの新しい朝の光と空気と風の中で歩きながら、そんな話をした。広い世界の中でなければ、狭い閉じ込められた部屋の中ではきっと二人でどんよりと押しつぶされそうになるような話。


いろいろな出来事によって人はときに叩きのめされる、そしてそこから立ち直れない人だっていっぱいいると思う。でも、本当はきっと人間は持っている。もう一度生きる、再生する力を、一人一人それぞれが。


たっぷりの光と空気と、そして新しい愛があれば、人はきっと立ち直ることができる。


「僕はもう二度と投げやりには生きない。約束する」


先生はそう言った。


「もう泣きません」


そして、そう付け加えた。

わたしは彼の顔を見た。


「泣きたければ」


この人は、わたしがこれから言うことを当たり前のことだと思って、わたしを軽んずるだろうか。それとも、きちんと大切にしてくれるだろうか。


「泣いてもかまわない」


それは、100%大丈夫だっていつも言えない。これは賭けなんです。

こういうのは、いつも女の人にとって。


「でも、泣いた後に必ず、泣く前より元気になるって約束して」


女の人は、こういうこと、言う相手を間違えると幸せになれないんだよ。わかってる。

わかってて今言っているってちゃんと理解してほしい。


お人よしのあなたの二番目の女がそばにいてあげるから。だから、泣いても構わない。


わたしはきっとこの人の泣き顔より笑顔がただ見たいだけ。自分が笑顔にしてあげられないなら、一緒にいる意味がない。


人生の中で一番に好きな人、二番に好きな人って、実はないんじゃないかな?

あるレベル、大好きラインを超えたら、それはもう順位がないんだと思う。


ただ、会えなくなったら愛は風化する。だから、大体同じくらいのレベルの好きなら、新しいもののほうが強いんじゃないか。過去の記憶と現在進行形だったら、きっと現在が勝つ。だから、あかりさんと同じ現在で競うならともかく、過去と現在で勝負の決着をのぞむのはもうよそうと思う。


この人を支配しないでもいい。そう決めた。今日、この瞬間に。


「何を食べに行きますか?どこへ?」

「コーヒーが飲めるところならどこでもいい」


もし、オカルト的にあかりさんが生き返ったら、わたし負けるんじゃなかろうか。


だけど、今のところ日常茶飯事でそんなことが世界のあちこちで起きているとも聞かないですから、とりあえず、この人はわたしのものってことで、先生の手をつかまえて歩く。そういうことでいこうと思う。とりあえず。


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― 新着の感想 ―
[一言] 先生は安心したから、思い出して泣けたんでしょうね。 このはさんは自信を持っていいのですが、女の人としてきっちり嫉妬するぐらい、このはさんは自然体の女の心になりつつあるんでしょうね。
感想一覧
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