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体温

作者: あおねこ

 私は良く友人から鈍感だとか言われることが多い。


 よくよく思い返してみれば、ああ、そうだな。と思わず膝を叩きたくなることも多い。例えば今日の出来事では、社内会議に参加をしたときに書類を落としてしまい、それを拾うときに長テーブルに割と良いスピードでおでこの辺りをぶつけてしまった。その際、残念なことに何代目かのお気に入りの眼鏡が変形してしまったが、幸いなことに会議の後で彼が上手く直してくれたので大事には至らなかった。


 まぁ、そのおでこをぶつけた際に割と良い音が会議室に響き渡ったらしいのだが、私としてはそれ程痛みは感じなかった。安物の長机は天板も薄いため少しの衝撃でもそれなりに大きい音が出ることを皆はあまり知らないようだ。私としては人生で数えることも億劫になるほど経験をしているため、別段取り乱すようなこともなかった。経験は知識に勝るのだ。

 だが、会議に参加をしていた他の社員さん達にとってはそうでもなかったらしく、何食わぬ顔で姿勢を戻した私を見て俄かにざわめき始めた。


 どうやら長机にぶつけた私のおでこには、綺麗に塗りつぶされた赤い丸が見る見るうちに浮かび上がってきたようで、いつもは遠くから眺めるだけでまともに話したこともなかった部長さんが慌てて近寄ってくると私を椅子から立たせた。

 そして痕が残るといけないから急いでおでこを冷やして来なさいと言い、退室を命じたのだ。

 お気遣いは嬉しかったが、このプロジェクトには私も参加をして早数ヶ月。自分なりに資料などを用意して、それなりに意気込んでやってきたというのにそれはあんまりなお言葉だった。

 だが悲しいかな、平社員の私は部長という威光の前には碌に自分の意見を伝えることも出来ず、曖昧に微笑み頭を下げると大人しく言われたとおり、まだ見ぬおでこを冷やすため会議室を後にして給湯室へとトボトボと歩いていった。

 おでこ、痛くないのになぁ。

 

 給湯室に着いた私はポケットからハンカチを取り出すと蛇口を捻った。すると勢い良く溢れ出た水がシンクに跳ね返りブラウスを濡らしたため、水滴をハンカチで軽く拭き落とし溜息を付いた。

 確か朝のテレビの占いでは一位だったはずなのだが、ことごとくやること成すこと上手くいかないようだ。明日は違うチャンネルに変えてやろう。

 気を取り直してハンカチを流れる水に浸けると蛇口を閉めてから適度に絞り、少し上を向くとそれをおでこの上に乗せた。ひんやりとした感覚が少し熱を持ったおでこに広がり何ともいえず気持ちが良かった。目を瞑り、暫くの間そうしていると直ぐに私の体温が伝わったのか、ひんやりとした感覚は徐々に温くなってしまう。

 私はもう一度蛇口を捻ると―――


「―――」


 耳元で彼が私の名前を囁いた。意識がそちらを向く。

 短く浅い呼吸を繰り返しながら彼は何度も私の名前を囁いた。

 そろそろ限界が近いのだろうか。まるで泣きそうな彼の顔を見上げるのが私は好きだ。


 下から眺める彼の顔。汗で束ねられた彼のもみ上げの先から、汗が一条頬を伝い、次に顎を伝い、何処からか流れ着いた他の汗と交じり合い大きな雫を作り、さほど大きくもない私の胸元にぽたりと落ちた。

 その汗の雫は私の汗に混ざった後、押し付けられた彼の胸元で更に何度も掻き回される。そんな光景を飽きることなく私は眺めている。


 不意に彼の右手が私の肩を撫で付ける。そのサインに私は少しだけ背中を反らせると阿吽の呼吸でその隙間にするりと彼の両腕が巻きつき、苦しいほどに力が込められる。

 密着した体勢の中、何時も冷え性で一寸低い私の体温は、何時も暖かい彼の体温と混ざり合う。少しだけ体温が上がるこの時間が私は好きだ。


 目と鼻の先の彼の顔に触れたいと思い、手を伸ばそうとするが、きつく巻きついた彼の腕がそれを邪魔している。仕方がなくキスをねだると彼は少しだけその動きを緩めた。その隙を見計らい何とか右腕の自由を確保すると、ゆっくりと時間をかけてじらすようにして彼の左頬に指だけで触れてあげる。

 そうすると彼は嬉しそうに微笑むとゆっくりと顔を近づけ、長い長いキスをしてくれた。私もそれに答えるようにして懸命に舌を動かした。時折、混じり会った唾液が吐息と共に唇から零れ落ちた。


 彼の動きが早くなる。何度も彼は私の名前を呼ぶ。私は一度だけ彼の名前を呼んだ。




 その行為が終わった後、彼はすっかりと温くなったペットボトルのミネラルウォーターを一口飲んでから私に優しくキスをすると、すっかり汗でべたついた身体をシャワーで洗い流しに行った。

 その後姿を眺めながら私も彼が隣に置いていってくれたミネラルウォーターのキャップを開け、中身を一口飲んだ。やはり温くなっていたが、からからの喉に染み渡るこの一口目が私は好きだ。


 くしゃくしゃになったシーツの上で私は思う。鈍感には鈍感なりの楽しみ方があるということだ。そんな自分が私は嫌いじゃない。

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