紅い絆で結ばれて
今日もまた、山の向こうへ消えていく、赤く燃えたぎる太陽が、黄昏時を告げる。
ここ何日か、こうして彼と夕日を眺める日が続いた。彼と出会ってからのほんの数日の間に、目まぐるしく動いた運命。まさに、激動の日々だった。
もう数年はあの学園で、久遠と二人、クラウス被害に悩みながらの生活が続くんだと、そう思っていたのに。
慣れ親しんだ、この町で。稲穂と久遠と、清士と。そして、晃希と。この先も、ずっと。暮らしていける事になった。
辛い時も、こうして、よりかかれる相手を見つけることが、できた。
ずっとずっと、気がかりだった両親も、安らかな眠りにつく事ができた。これでもう、どんな大雨が降ろうが、頭痛に悩まされる事は二度とないだろう。
「――落ち着いたか?」
眩しい程の赤に染まる景色の中、晃希の紅い瞳が、泣き腫らして赤くなった竜姫の目に映り込んだ。
「うん。……ありがとう、つきあってくれて。」
「そんなのは、いいさ。……悪いな、肩でも胸でも貸してやれれば良かったんだが……。これじゃあ、なあ……。」
血の付いたボロボロの服をつまんで言う。
「それと……、もう一つ、謝らなくちゃな。俺、今朝お前に偉そうに『自分の体調自覚してるのか』なんて言ったのにさ。俺の方が分かってなかった――。」
正確に言えば、晃希は、自分の状況を把握していなかった訳ではない。ただ、自分の力量を見誤ったという事。
「もし、あの時。清士が気まぐれ起こしてなかったら、取り返しのつかない事になるところだった……。」
そして、その状況を、誰にも明かさず、一人自分の胸の中に仕舞い込んだ。
「ごめん。」
考えようによっては、竜姫達を信用していなかったとも取れる。
「私だって、晃希の強さに頼り過ぎてた。キツそうなの、分かってたのに……、止めなかった。」
血に染まった服の上から、晃希の肩に触れる。
「だって、そうだよ。まだ、これから始まるんだもん。まだ、初めて会ってからやっと一週間なんだよ? それで、何もかも分かり合おうなんて無理だよ。」
竜姫は言った。
「時間はたっぷりあるんだもん。焦らずに、さ。一緒に、ゆっくり……お互い知っていけばいいと思わない?」
目元の涙を拭いながら笑う。
「……そうだな。」
笑顔が、眩しくて。晃希は目を細めながらそう答えた。
「それにしても、運命なんて分からないものよね……。あの日、アイツが騒ぎを起こさなきゃ、私があの礼拝堂に足を踏み入れる事なんてなかったかもしれない。当然、晃希の封印なんて解く機会も無く、会う事も無かった……。」
「そりゃ困る。それじゃあ俺は今でもまだ――この先もずっと――あそこで地獄より酷い状況に置かれたままで……。狂いそうになりながら、もがき苦しむだけ……。はっ、冗談でもゴメンだよ、そんなの。でも……まあ、確かに因果だな。アイツさえいなきゃ、俺はこんな風になる事は無かったかも知れない。でも……、代わりに竜姫に出会う事はなくて……、勿論力になるなんて不可能だった。」
服が土で汚れるのも構わず、晃希は身を投げ出し、身体を斜面に横たえ、暁の空を見上げた。空へ手を伸ばし、宙を拳の中につかみ取る。
「多喜様にも竜姫の両親にもたくさん感謝されたけど……。そういう意味でなら俺は、アイツに感謝しなきゃならないかもな……。ちょっと不本意だけどさ。」
苦笑して見せる晃希の表情を見下ろしながら、竜姫は、
「そうね。でも、本人にそれを伝えようとは、さすがに思えないけど……。」
そう言って、苦笑を返した。
「だな。」
晃希は、むくりと起き上がり、
「さて、そろそろ行くか? 俺も着替えたいし……、稲穂様達も待ってるだろう。」
言いながら立ち上がり、竜姫に手を差し出す。
「あっ、ごめん……。すぐ、新しい服出してあげるから……。」
ついでに、風呂も沸かそう。シャワーでも浴びて、暖まって、サッパリしよう。晃希の手を取り、立ち上がるのを手伝ってもらいながら、竜姫は思った。
夕日が、次第に夕闇に染まる中、連れ立って歩きながら。
あれこれ、考えを巡らせる。ご飯を食べて、布団を敷いて――。
「あっ、どうしよう。今日は伯母さん達もいるんだった!」
はたと思いついて、竜姫はしまったとばかりに手で額を押さえた――。
「ほれ、鹿肉は捌けたぞ。そっちはどうだ?」
血抜きまでしっかり施された、綺麗なピンク色をした肉を山盛りに持った皿を、片手で軽々支える稲穂が、誠人に声をかけた。
誠人の腰まであった、木の実やキノコ、山菜で築かれた山。それを、細々と仕分け、食べられる状態にまで下処理を施す。
その量を考えると、気の遠くなりそうな作業ではあったが、さっきまでと比べて人手が増えた分、山はだいぶ低くなっていた。
「もうすぐ、終わります!」
誠人は答えた。
「よし。じゃあそろそろ鍋を火にかけようか。姫ももう戻ってくる頃だろうしな。久遠、鍋に水汲んでこい。」
言われて、久遠が部屋を出て行く。
「ふむ。手も空いたし。アタシも手伝おう。」
誠人の隣に腰をおろし、稲穂が言った。
「――どうだい、弁解は上手くいったかい?」
その目の前で、ビクリと身体を強張らせた敏子達の表情を見て、
「……あまり上手くはいってないようだね。」
小さく、ため息をついた。
「一応、こういう事になった経緯を、説明していたところなんですけど……。」
天使にさらわれ、ほとんど無理矢理に連れてこられた。そして、そこで思い知った現実。
「俺も、こうして巻き込まれてなければ、今もああやって竜姫ちゃんを困らせてたかもしれない。……そう考えると……ちょっと複雑な気分だけど。」
少し、苦笑をにじませながら、
「俺、明日には学園に帰ります。竜姫ちゃんの養子話に、俺は必要ないだろうし、これでも一応生徒会長なんで。テスト週間中にこれ以上学校を離れてるわけにはいきませんから。」
そう言った。
「……そうだ、お前、突然いなくなった事になってるんじゃないか? 大丈夫なのか、いきなり戻っても?」
「それについては……、後で晃希に相談してみようかと。竜姫ちゃんの時みたいに、俺の件も何とか出来ないかどうか……。」
少し、皆の記憶を混乱させられればそれでいい。後は、自分で何とかする。
「それに、竜姫ちゃんも。こっちへ戻るにしても、手続きやなんかの都合で、一度は学園へ足を運ばなきゃならない。その辺の手回し役も必要でしょう?」
誠人は笑った。
「そうか。ならいいいが。ああ、そうだ。これを……。」
稲穂は、懐から紅いお守り袋を取り出し、誠人へ差し出した。
「敏子らのは、晃希の術による一時的なもんだからね、問題ないが……。お前のは完全に血が覚醒しちまってる――それも、霊視能力だけが。そうなると、視えるだけで、霊なるものを退ける力のないお前は、悪霊やなんかの格好の餌食だ。だからこれを四六時中、肌身離さず持っとけ。これは、アタシらの神力を直接封じ込めた、特別製の守り袋だ。下手な連中は寄り付くことすらかなわん。」
「あ、ありがとうございます……。」
「それと、休み毎にちょくちょくおいで。雑魚位は自分で祓えるように特訓してやる。」
「へ!?」
「確かに血は薄れちゃいるがね、覚醒したならそれも不可能じゃない。」
その言葉に一瞬ひるんだ誠人だったが、さっき感じた、視えているだけで、何もできない歯がゆい自分を思い出し、
「――本当に?」
そう、問い返した。
「まあ、竜姫のはちょっと特殊だからね、ああはいかないが……。でもまあ、自衛位はかなうだろう。」
稲穂は答えた。
「なら、試験が終わったら、また来ます。正月の準備とかもあるんでしょう? 手伝いに来ます。」
「そうか、それは助かるよ。」
そう言って笑う稲穂に、誠人も笑みを返した。
はたと、久遠は困った表情を浮かべた。
稲穂に言われて出て来たまではいいが、四足で歩く自分に、どうやって鍋を運べと言うのか。鍋のありかは知っている。水場の場所ももちろん知ってる。
久遠は、九尾の狐。つまり、妖狐。妖狐の十八番と言えば、変化の術だろう。木の葉を頭に乗せて、どろん。人型に変化すればいいだけの話。
だが。久遠はまだ子狐。簡単そうに見えるが、あれで、齢を重ねたベテランのみが操れる、熟練の技なのだ。特に、人型に化けるにはかなりのレベルを要する。当然、久遠にはまだまだかなわぬ技なのだ。と、するならば。
「どうしよう……。」
と、背後の茂みから、ガサガサと不意に音した。はっとして振り返る。
「! お前、どうしてこんな所に?」
道場への道すがら、はぐれたきり何処かへ姿を消していた、清士の姿がそこにあった。
「まあいい。ちょっと、手伝え。」
少々、気は進まないが、久遠はそう清士に命じた。子狐とはいえ、久遠はれっきとしたこの社の神。狛犬の枷に縛られた清士は、従わざるを得ない。
「鍋に水を汲むんだ。ついてこい。」
そう言って、先に歩きだした久遠の後に清士が続く。
命令こそ絶対だが、文句を言う位なら許されている。当然、不平の一つや二つあるものと思われたが、以外にも素直に従う清士を、久遠は不思議そうに振り返る。
「何だ、どうした? どうもさっきかららしくないな。まあ、ボクとしてはありがたいけど……。」
だが、後からその反動が一気に来るなどという事態はお断りだ。
「何かあったなら言ってみろ。……まあ、強制はしないが……。」
久遠の申し出に、清士はフイっとそっぽを向いた。
特に何か返答を期待したわけでもないのだが、晃希、竜姫に次いで、因縁の深い相手のその態度に、何か面白くないものを感じる。
家の物置へと清士を案内し、棚の奥へしまいこまれた大きな土鍋を清士に持たせ、台所へ移動する。鍋一杯に水を汲むと、かなりの重量になるそれは、人外の力を持つ清士だからこそ涼しい顔で持ち歩ける代物で。
「姐さんてば、何だってボクに言いつけたんだ?」
人間が、一人で持つには重たすぎる鍋だが、大の男二人がかりでなら、問題なく運べる程度の重さ。……誠人達をよこせばよかったのに。
と、そこへ、
「久遠? 何やってるの?」
後ろから、竜姫の声が彼の名を呼んだ。
「あ、竜姫。ちょっと鍋を取りに……。竜姫こそ、どうしたの? 皆は道場の方にいるよ? 行かないの?」
「うん、行くよ。でもその前に、晃希の着替えを出してあげなくちゃ……。ほら、このままじゃあんまりでしょ? ついでにお風呂も沸かしてシャワーでも浴びたいなぁ、って。」
言われて彼女の後ろを見てみれば、まださっきの血まみれの服を着たままの晃希がいる。
「すぐ行くから。先に行ってて?」
「ああ、うん。分かった。姐さんにも伝えとくよ。」
久遠は、裏口の扉を開け、言った。
「清士、行くぞ。」
清士は無言のままその後に続く。一度、チラリとこちらを振り返り。しかし、すぐさま前へ向きなおり、久遠の後を追って行く。
「?」
何か、物言いたげな顔をしていたようにも思えたが――。
晃希と竜姫は互いに顔を見合わせた。
「なんか、さっきからおかしいわよね、清士。」
「さあな。妙な気まぐれ起こして自分でも面喰ってるんじゃないか?」
首をかしげながらも、そう片付け、
「まあいいさ。今はさっさと着替えて行こうぜ。あんまり皆を待たせ過ぎても悪いしさ。」
「あ、じゃあ先にお風呂入っちゃってくれる? その間に私、着替え出しとくから。」
「ああ、じゃあそうするよ。頼むな。」
と、風呂場へ消える晃希の背を見送りながら、竜姫は今晩の寝床についてまだ思案していた。
「どうしよう。伯母さん達はお父さんたちの寝室……、誠人君には私の部屋を使ってもらうとしても……。」
自分と、晃希の寝床をどこにしようか。そんな事を考えながら、両親の寝部屋へ入る。タンスを開け、着替えを物色しながら――。
ほんの数歩。道場への道を歩きながら、夕闇に染まりゆく空を見上げ、清士は渋い表情を浮かべた。
頭に浮かぶのは、あの平和そうな顔をした男の顔。竜姫の父親だという、人間の残した言葉が、耳に残って離れない。晃希とのやり取りをする一方で、身体を貸していた自分だけに向けられた、彼の言葉。
「君にも、感謝しているよ――。」
初めて、かけられた感謝の言葉。そして――。
「あの子たちに課せられた運命は、あの子たちだけで立ち向かうには酷過ぎるものだ。きっと、君の持つ力は、あの子たちにとって貴重な助けになるだろう。」
一時的なものとはいえ、身体を共有したからこそ、清士の心と同調した正寛の心。
「晃希君が必死に隠した、彼の状態を唯一見抜いたのは君だ。そして、その彼を救ったのも、君だ。そして、こうして私に身体を貸してくれている。君は、間違いなく天使だ。」
その彼がくれた、清士が一番欲しかった言葉。
それが、どれだけ嬉しかったか。たかが人間――。そう思ってきた存在から贈られたその言葉に、清士は報いたいと、その時本気で思った。
けれど、いざとなると、どうしたらいいのか分からなくて。何となく気恥かしくて。一人になりたかった。
だから、鍋だけおいたら、どこかその辺をうろつくつもりで、清士は鍋を抱えて道場の敷居を跨いだのだが。
「姐さん、鍋を持って来たよ。」
久遠が稲穂に声をかけ、竜姫からの伝言を伝えた。
「そうか。……ふむ。こちらの準備は全て済んだし、後は主賓が来るのを待つばかりなんだが……。」
と、考え込む風を装った稲穂の視線が、清士を射抜いた。
「姫がくるまでちょいと暇だな。よし、清士。お前、なんか余興でもやって見せろ。」
「ええ??」
その台詞に、驚いた声を上げたのは久遠だった。清士も、不満げな表情を浮かべている。しかし稲穂は、
「文句は聞かん。命令だ、やれ。」
と、言い切った。
「ね、姐さん、それはいくらなんでも横暴ってもんじゃ……、」
あまりに理不尽な台詞に、流石の久遠もこれには少し同情するように言った。が、命令とあっては、清士に逆らう術はない。
「うるさい。いいから、歌って踊れ。」
――歌え、と言われても。自分が歌える歌など、一つしかない。清士は、仕方なく口を開き、『神』を讃える歌を諳んじる。あの、天の玉座に流れる、賛美の歌を。
無論、本職の彼らには及ばないが、それでも、天使の歌う本物の讃美歌だ。余興、というには少々場違いだが、その歌声は、それまでだんまりを決め込んでいた敏子たちをも惹き付ける何かがあった。
明日には、もう、視えなくなるのだと聞いた。敏子は、ホッとする一方で、複雑な思いを抱いていた。視えないという事で、優花に感じていたコンプレックス。
視えない自分が悪いのではなく、存在しないものを視えるつもりになって喜んでいる妹こそがおかしいのだと、ずっとそう思っていたのに。
「視えないのは、多喜様の加護が薄れてきていたせいで、お前のせいじゃない。」
と、稲穂は言った。
「だが、視えないからというだけで、全てを否定し、優花や竜姫を傷つけてきたことは、お前の罪だ。」
自分と同じく、視えない世界を信じてきたはずの息子は、いとも容易くこの世界を受け入れた。
一方で、自分以上にこんな世界とは無縁で生きてきた旦那の方は、未だショックから抜け出せないでいる。目の前の光景を必死になって見ないふりを通している。
それはそれで、滑稽に見えた。
旦那と、息子とを交互に見比べ、敏子はため息をついた。今、息子たちから見れば、自分は旦那と大差なく見えるのだろう。
敏子は、もう一度、深いため息をつき、旦那を放って息子の方へと歩みよった――。
「ん、この声は……清士か? これは……讃美歌だな。それも、天の玉座で謳われる……天使だけが謳う事を許された曲だ。」
シャワーを浴び、サッパリした晃希の元まで、その歌声は届いていた。血を洗い流し、土埃の付いた髪もザッとすすいで小奇麗になった身体をタオルで拭いながら呟く。
「晃希、入るよ? ――これ、着替え、ここに置くから。ごめん、またお父さんの服なんだけど……。」
と、脱衣所の扉が開き、竜姫が顔をのぞかせた。
「って、わっ、ごめん。もう出てたの?」
バスタオルで身体の大凡は覆われているものの、ほとんど真っ裸みたいな晃希の姿に、竜姫は慌てて扉を閉めた。そろそろと、ほんの僅かに扉を開け、腕だけ差し入れ、着替えを渡す。
「いや、いいけどさ。」
渡された袴をササっと身につけ、脱衣所を出る。扉の前で、真っ赤な顔をしている竜姫を見、苦笑を浮かべる。
「行こうぜ。」
明かりを消し、薄闇に染まった部屋の中。
「これ。清士が歌ってるの?」
その歌声に気付いた竜姫が尋ねた。
「ああ。あいつ……、俺の血を入れたくせに、堕ちてない……。あいつは、今もまだ天使のままだ。」
清士は、ミカエルの餞別だと信じ切っていたようだが。この歌を、未だに忘れず歌えているという事は……。
「さて、お空の上のおえら方は一体何を企んでいるやら……。」
晃希は、小さく呟いた。
「にしても、何もなくてアイツが一人で謳おうなんて思うはずもない。行こうぜ、ありゃたぶん稲穂様の意向だ。とっとと行かねーと、余計なとばっちりを食いそうだ。」
晃希は、竜姫の手を取り歩き出す。
自然に、繋がれた手。風呂あがりでほかほか暖かい、晃希の手の温もり。竜姫の心の奥で、何かが疼いた――。
「すいません、遅くなりました。」
晃希は、軽く頭を下げ、道場の敷居を跨いだ。後ろに続いた竜姫も、
「ごめん、待った?」
と、稲穂たちに声をかける。久遠は、心底ホッとした表情を浮かべ、こちらを見た。
「ふむ。これで主賓も揃ったな。では、始めるか。よし、清士。歌はもういい。晃希、その樽を持ってこい。今日の為に貢がせた、とっときの上級品だ。旨いぞ。」
折りたたみ式の長机に、グラスを並べながら、稲穂が言った。
「ああ、姫と誠人は未成年だからな、そっちのリンゴジュースで我慢しろ。」
「あ、俺もそっちでいいです……。」
晃希が言う。
「ん? ああ、お前……?」
成程、見た目は未成年だが。
「お前は別に未成年じゃないだろ。というか、そもそも人間じゃないだろが。六百年も生きてきて、酒も呑めないのか?」
「い、いえ、呑めなくはないですが……、今は、ちょっと。」
チラリと竜姫を盗み見ながら、晃希が応えた。その、晃希の視線に、彼の意図を察した誠人は感心した。
「何だ、折角の高級酒だぞ? せめて乾杯の一杯くらいは呑め。」
しかし、稲穂はそう言って強引に晃希の盃に並々と酒を注いだ。
「ほれ、清士、お前も。」
「――我は、人間の食物など食さぬ……、」
「なんだ、付き合い悪いな。乾杯くらい付き合えよ。」
と、こちらにも強引に酒を注ぐ。
「敏子、お前酒は強かったろ? 遠慮しないでどんどん呑め。さあ、行くぞ。晃希、お前音頭をとれ。」
さすがは女番長、こういう仕切りは十八番だ。稲穂の勢いに圧され、晃希は酒を注がれた盃を持ちあげ、口を開く。
「あー、えっと。か、乾杯!」
「かんぱーい!」
竜姫から、誠人から、久遠から、声が返る。
「おら、お前らも入れ。」
稲穂にせっつかれ、
「か、乾杯……。」
と、敏子達からも声が返り、
「Toast(乾杯)!」
清士のグラスが、竜姫達のグラスに触れ、カラン、と音を奏でる。
「さあ、遠慮なく呑んで、食べろ。」
稲穂は、楽しそうに笑いながら言った。手にした盃を、グイッと一気にあおり、鍋の肉に箸を伸ばす。
「うん。よく煮えてて旨いぞ。ほら、姫。皿を貸しな。盛ってやろう。」
と、ネギやらキノコやらと一緒に、肉の柔らかそうなところを選んで盛ってやる。
「晃希、どうだ? 酒の味は。」
「俺の故郷じゃ、葡萄酒が主流だったから、こういう酒は初めて飲んだんで……、どう、と言われても……。でも、美味いです。」
「……、不味くはない。」
チビチビ舐めるように呑みながら、清士が応える。
「――これは、確かになかなかの美酒だ。」
ポツリと呟いたのは、誠人の父。
この状況について、見ざる・聞かざる・言わざるを貫いてきた彼だったが、酒好きの彼の舌が、だんまりを決め込むことを拒否させる程に、その酒は美味かった。
「だろう? ついでにアタシらの祝福付きだ。ご利益あるぞ? ほら、もっと呑め。」
と、グラスに並々お代りを注ぐ。
そうして、徹底的にホスト役に徹する稲穂を見て、
「なんか……、稲穂様のテンションさっきからおかしくないか?」
と、晃希が竜姫の耳元で囁いた。
「嬉しいんだよ。」
が、その問いに答えたのは、竜姫ではなく久遠だった。
「半年前のあの日から、ずっと、意識だけの多喜様とたった二人だけで、社を守っていたのは、姐さんだから。優花様達も無事見送れたし、竜姫も無事ここへ落ち付ける事になった。同居人も増えて賑やかになる。……それが、嬉しいんだよ。」
狐の手で器用に盃を持ち、酒を楽しみながら、久遠は言った。
「僕も、嬉しい。……少し、癪だけど。」
箸の扱いに悪戦苦闘する晃希の口に、肉を運ぶ竜姫をチラリと見上げながら。
「――確かに。こうもあからさまだと、どこからつっこめばいいのか迷うよ。」
誠人が、久遠に同調して頷いた。
「さっき、稲穂様に言われてさ。冬休み、俺もここで修行することになったんだけどさ。その前に、晃希に頼みがあるんだけど。」
「頼み?」
聞き返してきた晃希に、誠人は件の懸念を切り出した。
「で、ちょっと協力して欲しいんだけど……。」
「ああ、そう言う事なら分かった。明日の朝までには薬を用意しておこう。」
と、晃希は頷いた。
「これで、貸し借りはチャラだからな。」
「え?」
「何だ、忘れたのか? お前が言ったんだろ、貸し一つだって。」
晃希は、呆れたように誠人の腕を取った。
「ええ?」
――まさか、しっかり覚えているとは思わなかった。あの時点で、すでに貸しどころか借りがあったような物なのに。あの後聞いた話を思えば、貸しだなんてとんでもない。晃希の方こそ貸し三つ分はあるだろうに。随分と、律儀な奴だ。
「でも、大丈夫なの? 晃希。」
竜姫が、心配げに尋ねた。
「ん、ああ。清士から血と魔力を幾らかいただいたからな。そんくらいなら大丈夫だろ。……まあ、補給できるならそれに越したことはないが。」
少し、悪戯っぽく晃希が応える。
「え、え!?」
と、覿面に慌てる誠人を見て、晃希は腹を抱えて笑う。
「馬鹿、冗談に決まってるだろ? 緊急事態でもないのに、そう何度も男の血なんか吸ってたまるか。」
いつの間にか注ぎ足されていた酒を、クイッと飲み干し、
「また変な客が襲ってきたりしなけりゃどうって事はないよ。」
と、若干竜姫から視線を逸らしたまま言った。
「ふむ。まあ確かに今のままでも問題はないだろうが……。血なぞ吸わずとも、我が兄の――悪魔の力を完全に取り込んだ今のお前なら、他にも回復の手立てはあるだろう?」
後ろから、清士が余計なひと言をはさむ。
「「え?」」
すかさず、二つの声が問い返した。
「あっ、馬鹿っ!」
晃希が、珍しく慌てて止めようとするも、清士は顔色一つ変えず、シレっと答える。
「悪魔が、契約の際に望むものなど、相場は決まってるだろう? ――ああ、魂の事ではないぞ?」
悪魔が、魂以外に求める報酬。それは――。
「ちょっとした回復なら、最後まで済ませずとも、接吻のみで十分かなうはずだろう。」
両手で顔を覆う晃希を、竜姫が振り返る。
「――ああ、かなうさ。でもな、そうホイホイ気軽に出来るもんじゃないだろ。」
そう、渋る晃希に、
「何だ、今さら。いいじゃないか、酔った勢いって事にしたって。」
と、いつの間にか盃から一升瓶に持ち替えて、すっかり出来上がった稲穂が声をかける。
「……うん、そうだねえ。酒のせいにするのはどうかと思うけど、でも、確かに今さらじゃない? さんざん見せつけてくれてたくせに。」
誠人がうなずく。
「なっ、」
と、反論しようとした久遠は、稲穂に踏みつぶされ、言葉を封じられてしまう。肝心の、竜姫はと言えば。
少し、顔を赤らめてはいるものの、嫌がる素振りは微塵もない。むしろ、何か期待するような視線が刺さる。晃希は、堪らなくなって道場の外へと逃走を図った。
「ああ、ちとからかいすぎたか? まあいい、そのうち戻ってくるだろう。どうだ、誠人、清士、食ってるか?」
「はい、美味いです。」
「……不味くは、ない。」
「そうか、肉はまだたくさんあるからな。どんどん食え。」
賑やかな宴は、続く。
その、壁一枚隔てた外で。すっかり暗くなり、冷え切った空気の中、晃希は高ぶった気持ちを落ち着けようと深呼吸を試みる。
「――人の気も知らないで……。」
何の為に、酒を控えようとしたのか。これでは分からないではないか……。
「……晃希?」
と、不意に背後から聞こえた竜姫の声に、ビクッと飛び上って驚いた。
「えっ、わっ、わわっ、た、竜姫!?」
どくどくと高鳴る心臓。
「どうしてここに!?」
果たして、これは本当に、ただ驚いたせいなのか。晃希は、自分でも分からなかった。
「どうしてって、晃希が連れて来たんじゃない。」
竜姫は、しっかと繋がれた手に視線を落として言った。見れば、成程、確かに。
「何、何で今さらそんなに慌ててるのよ。」
訝しげに、竜姫が尋ねる。今まで、さんざん迫ってきたくせに。
「だって、さ。キスって、そう言う事の為の行為じゃないだろ?」
晃希は、情けない表情を見せ、言った。
「吸血行為は、ホントにその為だけのものだけど。キスは、違うだろ? もっと、大切にするべき事だろ? ……あんな風に乗せられてするのは、違う気がして……。」
「――私が、それでもいいって言っても?」
「え?」
「そんな風に、大切に思ってくれるのは、凄く嬉しいよ。でも、私はそんな細かいこと気にするより、もっと自分に素直になってくれたほうが嬉しいんだけど?」
何度も何度も迫られて。火照った気持ち。
「私は、晃希とキスがしたい。」
闇の中に光る、紅い瞳を真っ直ぐ見上げて、竜姫は言った。
「――キスだけで、済む保証はないぞ?」
晃希は、釘をさすように言った。
「それでも、いい。」
真っ直ぐに向けられる、その視線が愛しくて。返った返事に、晃希の心が一気に高ぶる。
「――待ったは聞かねーぞ。」
しっかと、柔らかな竜姫の身体を抱きしめ、晃希は言った。
頬に、手を滑らせ、顎に指をかける。
肌に触れる、晃希の指先。肌にかかる、晃希の吐息。全身に感じる、晃希の温もり。真っ暗やみの中、紅い瞳が迫る。
竜姫は、静かに目を閉じた。
そっと、唇が触れあい――、互いの温もりを感じ合う――。
全てを委ね、全てを預けられて。
壁の向こうの喧騒さえ、静まり返るまで、二人は時を忘れ、いつまでもいつまでも、そこでそうしていた――。