最後の壁
これは、きっと夢。悪い夢を見ているのだ。早く、目を覚まさなくては――。
敏子は、滔々(とうとう)と語られる、嘘のような話を右から左へ聞き流しながら思った。すがる様に、旦那のスーツの袖を掴む。
その隣で、おかみさんは目を真っ赤にして号泣していた。その背を叩きながら、運転手も鼻を鳴らしている。
「――竜姫は今、巫女としても、神としても、重いものを背負っています。でも、だからこそ俺が、必ず彼女を守る。」
晃希は、力強くそう言った。
「これは、多喜様より賜った命であり、また、俺自身の望みであり、誓いでもある。だから、そのためにも、竜姫を、ここに住まわせてやって欲しい。」
「――母さん。」
誠人は、今にも心労から失神してしまいそうな母親の前にしゃがみ、その瞳をまっすぐ見据えて言った。
「今まで、信じてこなかった事を、いきなりこうして目の前に突きつけられて、ショックなのは分かる。でも、逃げても、目を逸らしても、これは確かな現実なんだよ。ねえ、目を逸らさないで。受け入れる事は無理でも、せめて、認めてあげる事はできない?」
――と。
「……そもそもが、信じるに値しない話だが、私には何より理解しがたい事実が一つある。誠人、お前は何故そうやってこの連中の肩を持つ?」
それまで、事態を傍観するだけだった人物が、重々しく口を開いた。
「そもそも、どうしてこんな所にいる? 今、学校は試験期間中のはずだろう? 生徒会長であるお前がその学校を離れて何をしている? 何だってこんなくだらない事に首を突っ込んだ?」
怒鳴っているわけではない。落ち着いた口調。――だからこその凄みのある声音。
「……それは……」
誠人はチラリと背後の天使を見やり言葉を詰まらせた。見れば、晃希や竜姫、久遠も揃って彼を見る。
「ああ、我が道案内のために連れてきた。」
「あー、えーと。だから、いま晃希が言ってた通り、この二人が学園を離れたのを追いかけようとした彼が、俺をここへ連れてきたっていうか……まあ、そのまま巻き込まれた訳だけど……。」
少し、気まずそうに視線を泳がせたが、しかし、すぐに態度を改め、
「でも、俺は真剣ですよ。確かに巻き込まれた形ではあったけれど、こうして関わって、真実を知った以上、俺はもう既に当事者の一人なんです。何より、俺の血の半分は確かに、彼らと繋がっている。その証拠に、こうして彼らを視る事ができている。けれど、俺にはそれ以上を成す力はありませんから。だからこそ、自分にできる事をする。」
そう、言ってのけた。
「父さん。貴方は、熱心なキリスト教信者ですよね。日曜の度、教会へ礼拝へ行くのを欠かしたことはないし、日々の祈りを怠ることも無い。その、貴方が熱心に信じる神の僕であった、この天使をも、貴方は否定するんですか? 自分で信じていたものを、貴方はそれを自分で否定するんですか?」
正直、天使としてあるまじき存在だった上、実際天からお払い箱になったとはいえ、彼は確かに天使だったのだ。その存在を否定するという事は、即ち彼が仕えていた神をも否定するという事。
「俺は、あることを彼に――晃希に頼んであるんです。彼は、人間ではありません。父さん、母さん、貴方達も見ていたでしょう? 彼が、魔術を操るのを。彼は、他人の記憶をいじることもできるんです。」
息子の言葉に、敏子は耳を疑った。
「あなたっ、まさか!」
「――最終的に、貴方達が納得しないなら、最後手段として能力を行使することを、俺が許可しました。……だけどもちろん、できるならばそんな手に頼りたくはない。お願いです。現実を、見てください。」
そう必死に、真剣に訴える誠人に、救いの手を差し伸べたのは、おかみさんだった。
「あんたら、竜姫ちゃんだけでなく自分達の息子ですら信じられないのかい。」
呆れたように、彼女は言った。
「自分の目も耳も、これまで信じてきたはずの事すらも、息子も、何もかも信じられないなら、あんた達、この先何を信じて生きて行くんだい?」
おかみさんは、誠人の肩を叩き、
「大丈夫、アタシにまかせな。」
そして、晃希の紅い瞳を恐れる事無く見て笑い、
「あんたには礼を言わなくちゃね、この町に住む者として。そして、この町に住む人間の代表として。竜姫ちゃんを、そして先代と次代の我らが神を、さらには優花ちゃん達まで、皆、アンタが助けてくれたんだね。それに、あたし達の命も。」
「おかみさん、信じてくれるの?」
竜姫が、驚いたように言った。
「当り前だろう、何年この地に住んで、どれだけここの神様にお世話になってると思うんだい。まあ、恥ずかしながらこうして頭でしっかり理解したのはこれが初めてだがね……。でも、きっと本当はずっと前から知っていたことなんだろうね……。」
隣で、運転手のおじさんもうんうんと頷いている。
「もう何も心配する事はない。おかみさんを味方につけた、といことは、この町が、君達の味方なんだから。」
「この間はなんだかんだで押し切られちまったけどね、今度こそは負けないから。――うちの娘になんなさい。」
おかみさんは、優しく微笑んだ。
「さあ、そうときまったら早く帰ってダンナをせっついてこなくちゃ。ねえ、杉内さん、もうひとっ走り頼んでもいいかねぇ?」
「……あなたに頼まれて断れる人間なんかこの町にはいませんよ。」
さっそく動き出そうとするおかみさんを、
「待ちなさい、私達はまだ承諾していない。無法な無茶を通すおつもりなら、訴えますよ?」
と、誠人の父親が呼び止めた。
「何だい、何か不都合があるのかい?」
「当然だ。そんな訳の分からない理由のために他に身寄りのない姪を放り出したなどと会社に知れたらどうなるか……!」
おかみさんが、カッと顔を赤く染め、反論しようと振り向く前に、バキっと、鈍い音が響いた。そして、振り向いたおかみさんが見たのは。
「父さん、それ以上言ったら本気で軽蔑するよ?」
痛そうに顔をしかめ、赤くなった右手をプラプラ振っている誠人と、その足元で尻もちをついた彼の父親の姿だった。その頬には殴られた跡が、はっきりくっきり赤く腫れあがっていた。
「ねえ、聞いてたでしょう。竜姫が、どれだけ辛く、重い宿命を背負っているのか。それでも、自分の為より他人の為に動こうとしているのに、貴方は自分の身の可愛さのためだけに、それを邪魔するの?」
そうして、誠人は疲れたように溜息をついた。
「――ごめん、竜姫ちゃん。本当に、ごめん。」
当事者になった今だからこそ、心に突き刺さる、両親の言葉の数々。改めて、自分の身に降りかかって初めて、本当に、あの時自分の吐いたセリフの痛みがよく分かった。
「――晃希も。手間を、かけさせる。」
誠人は、自分の力のなさを呪いながら、悔しげな表情できつく手を握りしめ、言った。
「もういい。もう、これ以上何を言っても無駄だろう。……俺の両親ながら恥ずかしいけど、俺にはもう手立てがない。……頼む、力を、貸してくれ。」
――明け渡した身体の奥で。そう言って、頭を下げる誠人と、渋い表情をする晃希。それを信じられないものを見る目で眺める誠人の両親とを見比べ、清士は一人、小さくため息をついた。
正寛の魂の裏に沈めた意識で、今更ながらに、思った。人の忠告にも耳を貸さず、こうして意地を張って目をそらし続ける事が、どれだけ格好の悪い事なのか。こうして目の当たりにして改めて思い知る。
――そう、あそこにいるのは、ほんの少し前までの自分なのだ。
……ならば。
正寛の魂を一時的に内に押し込め清士は、煩悶する誠人達の脇をすり抜けて彼らの前に立つ。すらりと聖剣を抜き放ち、剣先を向け、更にそれよりよほど険呑で冷やかな視線で二人を見下ろした。
「お前たち、そんなにも我に魂を喰われたいか?」
光る、白銀。その美しい刃の先を直に向けられて、
「はっ、なっ、お前っ……!?」
誠人の父親は、清士を指差し、引きつった声を上げた。
それを見た清士は、瞳は冷徹な光を宿したまま、片頬だけ持ち上げてニヤリと笑んだ。
「ああ、あいつも言っていた通り、つい先日まで我は大いなる御方にお仕えする御使いの一人であり、こいつらの居た学園を守護していた天使だった――が、訳あって今は堕天使となってしまった訳だが。」
「――なっ、あ……、悪魔だと? そ、そんなものいる訳が……。」
言いながら、彼は胸のあたりを探り、首にかけた十字架を取り出し、掲げて見せ、
「いやっ、たっ、例えいたとしても、これがある限り、襲ってはこれまい!?」
乾いた笑い声を上げた。――が、残念ながらそれは、清士の失笑を買っただけで終わった。
「大いなる御方を信じると言いながら、本心では信じていない……。あの方は、己を信じぬ者、従わぬ者には酷く冷徹な御方だ。お前達の様な中途半端な信者に加護など与えるはずもない。お前達の薄汚れた魂、天の神の御許に召されるには適さぬが、我の最初の餌食には最適だ。お前たちが我に喰われたところで、神は何も思うまいよ。」
彼は、舌舐めずりして見せながら言う。
「さあ、どちらから先に我の糧となりたい?」
「……ひっ、」
――と、
「おいこら、何勝手なこと言ってやがる。」
完全に腰を抜かし、息を飲んだ二人の前に立ち、清士との間に晃希が割って入る。
「人を守る神の僕である狛犬のお前に人の魂なんぞ喰わせるわけないだろう。」
聖剣の前に、丸腰のまま立ちはだかり、晃希は言った。
しかし、その表情に、先程の化け物と対峙した時の様な緊張感は見受けられない。ただ、肩を竦め、
「――確かにこないだまでお前が仕えていた神の方は頓着しないだろうがな、うちの神様方はそうはいかないぜ?」
と、竜姫や久遠、そして今は優花の魂を宿した稲穂を見て言った。
「まあ、信じない者、心や魂の薄汚れた人間に特別な加護を与える事はないが。だからといって、罪なき人間を見殺しにするような真似はしない。――その代わり、神の意に沿わぬ振る舞いをして勘気を被れば、何代にも渡って祟られるがな。」
「当然だ。ボク達、神や妖の類ってのは、人がいなけりゃ存在できないんだからね。むやみに人に手出しをするような輩を黙って見逃すわけにはいかない。……でも、神様業だって、慈善事業な訳じゃないからね。それに、ボクらにだって感情はあるんだ。存在を否定されれば悲しいし、侮辱されれば怒りもする。」
久遠が応える。
「――だから……、お前が人の魂を喰らおうと言うのなら、ボクらは黙って見過ごすわけにはいかない。だが――。」
と、すがるような目を晃希に向ける誠人の両親をチラリと見やり、
「我らの存在を否定し、また、我が主への態度や行いを見るに、彼らに我らの加護など要らんだろう。わざわざ、かばってやる義理もないしな。」
と、冷たく言ってのけた。
「なっ……!」
ざっと、血の気の引いて行く音が聞こえそうな程に、彼らの顔から赤みが消え、青を通り越し、腐った粥のような白っぽい色へと変わっていく。
何せ、ここにいる者達の強さは、ついさっき目の当たりにしたばかりだ。どんなに信じたくなくとも、こればかりは、辺りに生々しく残る戦いの跡――なぎ倒された木々が、それを許さない――全てが、夢なのだと思いこまない限りは――……だが、それすらも、誠人に殴られた頬の痛みが、これが現実なのだと言っていて――。
彼らに与えられた選択肢は、もう、事実を認めるか、認めず記憶操作を受けるかしかなくて。
「――っ、くっ、わっ、分かった。し、仕方ない。み、認めてやろう。だがっ、いいかっ、決して余計な事をそこらへ吹聴するんじゃないぞ! いいな!?」
渋面を浮かべつつも、彼は叫んだ。
その瞬間、誠人はホッと胸をなでおろし、晃希も安堵のため息をついた。清士は冷めた目で一瞥をくれると、再び身体を正寛へと明け渡してやった。久遠は、竜姫を見上げ、彼女はパッと笑みを浮かべた。
「よしっ、決まりだね。なら、邪魔者はさっさと退散することにするよ。明日また、来るから。」
おかみさんも、満足げな笑みを浮かべ、
「さあっ、杉内さん、よろしくたのむよ。」
と、彼の背を叩いた。そして、もう一度、優花たちを振り返り、
「――約束するよ。あんた達の娘は、アタシが責任もって育てる。安心して、……ゆっくり休むといい。」
瞳を潤ませながらも、おかみさんは最高の笑顔で言った。
「ありがとう。――よろしく、お願いします。」
それに応え、優花は、心からの笑みを浮かべて言った。
互いに、小さく頷き合った後、おかみさんは杉内さんと連れ立って、彼女らに背を向けて、山を降りて行った。
「父さん、母さん、僕らも行こう。……とりあえず、道場に。まだ、稲穂様に言いつけられたやりかけの仕事が残ってるんだ。暇なら手伝ってよ。」
悔しげな表情を浮かべる己の両親に、誠人が声をかける。
「ありがとう、分かってくれて。――良かったよ、実の親に記憶操作なんかかけずにすんだからね。ほら、行くよ。小言やなんかも向こうで聞くからさ。」
精神的ショックから、動きの鈍い親たちを連れて、誠人もその場を後にする。
「――あ、じゃあ俺も……。」
しかし、そう言って彼の後に続こうとした晃希は、
「あっ、待って。」
と、竜姫に腕を掴まれ、その場へ留まる事になり、結果、その場には、竜姫と晃希、久遠、そして優花が憑いた稲穂と、正寛が憑いた清士とが残った。
「お願い、ここに居て。」
竜姫は、真剣な面持ちで、晃希に言った。
その様子を見ていた優花がクスリと笑う。その後ろで、正寛も、清士では決してありえないような柔和な微笑みを浮かべている。
おもむろに、優花は二人に歩み寄り、両の腕で、二人を包み込むように抱きしめた。妖艶で豊満な稲穂の身体と、二人の身体とが必然的に密着する。竜姫も晃希も、思わず顔を赤らめながら、
「お、お母さん、何?」
「え、えとっ、あの!?」
と、慌てた声を上げる。――が、母の表情を見上げた竜姫は、なつかしい母の抱擁に静かに身を任せ、顔を伏せた。
「竜姫。」
優花は、娘の耳元へ囁きかける。
「人生を、思いっきり楽しみなさい。」
そして、
「貴方もね、晃希君。」
と、肩を震わせる娘に、何も言わず胸を貸していた少年に囁いた。
「ありがとう、娘を――そして私達を援けてくれて。本当に、感謝するわ。」
腕の力を緩め、二人を解放し、優花は言いながら、晃希の頭を撫でた。
「娘を、よろしくね?」
優花は微笑み、晃希の背を押した。――正寛の、方へ。
晃希は、彼の前に押し出される形で立ち、彼の姿を見上げた。――本来ならば、自分と同じか僅かに低い位の背丈であったはずの正寛だが、清士の身体に憑いている今は、自分の方が見上げねばならなかった。
表情こそ、柔和な微笑みを浮かべているのだが。――きっと、こういうシチュエーションでの義父と義息子の対面というのは、どこの時代でも世界でも、そうは変わらないものなのだろう。化け物との戦いで感じたものとはまるで別物の緊張感が、二人の間の空気を冷やしていく。
だが、彼らにとって、これは最初で最後の機会なのだ。辺りの空気に呑まれ、台無しにすれば、もう取り返しのつかない場面。
「俺の名は、晃希。この社の狛犬として、竜姫に仕える身ではありますが、――お願いです。俺に、彼女を――、竜姫をください。」
静かな山の中に、響いた言葉。
晃希は、意を決し、その場に跪いた。その後ろで、竜姫が再び顔を真っ赤に染めていた。その二人の姿を、優花は嬉しそうに微笑みながら見守る。
「――そうだね、普通の父親ならば……、娘が外人……どころか人外と結ばれたいなどと言ったなら、血相変えて大反対するところなのだろうね、きっと。どんなに立派で素敵な相手であろうと、娘を奪って行く男だ、ぶん殴ってやりたいって思うのが、世の一般的な父親だからね。」
正寛は、落ち着きのある、優しげな声音で、
「だが、私の娘も、どうやら人間、と呼ぶには少々語弊のある存在になってしまった。そもそもが、私の妻こそが、一般的な人間とは一線を画していた女性だったからね。――実際、口説くのにはかなり苦労したんだ。そんな彼女との間に出来た娘だ、今さら何があっても驚きはしないが……。流石に、事が事だ。余程信頼のおける男でなければ、娘は預けられない。」
しかし、そうきっぱりと言ってのけた。
「君が、娘を本当に想ってくれている事は、さっきから見ていて良く分かった。実際、随分世話になっているようだし、優花も言っていた通り、私たち自身、君に援けられた。――だが、今のままの君では、まだ、安心して娘を預ける事はできない。」
――と、そう。