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緋色の絆  作者: 彩世 幻夜
第一章 -an encounter-
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緋色の軌跡 [1]

 暗闇の中、低く通る甘い声音が、静かな礼拝堂に響く。

「ルードヴィヒ・アンセルム。それが、フランス人の父と、ドイツ人――当時はローマ帝国といったんだが――の母との間に生まれた、子供の名前だった。」

 ゴソゴソと、マントの中で何やら探りながら、少年は切り出した。

「アンセルムの家は、ドイツ国境に程近いフランス領の、葡萄農家が集まる集落で、ワイン用の葡萄の栽培を生業としていた。」

 一体、何処で買って来たのか、懐から缶ジュースを二本取り出し、一本を竜姫に勧めながら、少年はさらに続ける。

「当時の貴族達からも圧倒的な支持を得ていた老舗のワイン倉が所有する土地を借りて、農業を営んでいた。作った葡萄は全て土地の所有者であるワイン倉のお偉いさんに納めて、その賃金として金を貰う。いわば小作人だな。」

 少年は、プシュ、と小気味良い音を立てて缶を開けた。

「その頃の一般農民の生活は、ひどく貧しいものだった。収入のあらかたは税として貴族の懐に収まって、残った僅かな財で、苦しい生活を強いられていた。アンセルム家も、最悪とまではいかないものの、豊かとは言い難い生活を送っていた。」

 缶を傾け、口内を潤し、

「それでも、家の仕事を手伝いながら、生まれた子供、ルードヴィヒは、両親や、友人達と共に、そこそこ幸せに暮らしていた。」

『ルードヴィヒ』、と、昨夜竜姫に名乗った少年は、話の中で、まるで他人の事の様にその名を語る。

「だが、ルードヴィヒが十六になった年の夏、その幸せだった生活の全てを、失った。」

 それまで、淡々と語り続けた少年が、不意に険しい表情を見せた。

「ルードヴィヒは、恋をしていた。小作人達をまとめる、この国で言う庄屋の立場にいた家の一人娘が相手だった。アンセルムや他の農民達より上の立場で、彼らより豊かな暮らしをしていた彼女は、けれどそれを盾にする様な人じゃなかった。他の皆と一緒になって畑で泥だらけになって働いて、一緒に泣いて、一緒に笑って……。そんな彼女に、ルードヴィヒは、恋心を抱いた。」

 口元に、自嘲するような笑みを浮かべながらも、愛しいものを見る様な、暖かな瞳で、遠くを見つめる。竜姫は、今まで見た事の無いその眼差しに、心の奥底で複雑な想いが燻っているのを感じ、己の感情に戸惑いながらも、貰った缶ジュースに口をつける。口内に、甘いミルクティーの味が広がった。

「けれど、所詮は身分違いの恋だった。ある時、彼女に結婚話が舞い込んできた。相手は二つ向こうの集落の庄屋の息子。ルードヴィヒは、自分の想いを伝える事すら出来ないまま、失恋した。」

缶の中身を一気に飲み干し、少年はため息をついた。

「で、失恋して落ち込んで、心の弱った隙をつかれて、悪魔に取り憑かれたんだ。」

 その言葉に、口に含んだ紅茶を、危うく吹き出しそうになるのを必死に堪えながら、竜姫は鋭い目線を少年に向ける。

「その悪魔は傷付いていてね。どうも、とある天使と戦って傷を負ったらしい。その傷を癒し、力を回復する為に、人間の生気が必要だったんだ。」

 天使、という単語に、竜姫は瞳を鋭くきらめかせた。

「悪魔は、傷付き弱っていた。それに、農家の仕事は体力勝負だからな。取り憑かれても、最初のうちは普段と変わらず生活していたルードヴィヒだけど、日ごと、ごっそり体力と精神力、生命力を奪われて、次第にベッドから離れられなくなっていった。」

 手に持った空き缶を、カラン、と静かな室内に小さな音を響かせながら脇に置き、空いた手を膝の上で組み、少年は紅い瞳を閉じた。

「本当なら、ルードヴィヒは、悪魔に取り憑かれたまま生気を根こそぎ吸い尽くされて死んでいくはずだった。けれど、実際はそうはならなかった。村を、一匹の吸血鬼が通り掛かった事で、事態は思わぬ方向へ転がっていった。」

 半分以上残ったままの紅茶を、ギュッと握り締めたまま、竜姫は少年の語る話に聞き入っていた。

「見た目、病に倒れ弱って動けないルードヴィヒを、その吸血鬼は獲物に選んだ。ルードヴィヒに取り憑いていた悪魔は、回復の為に眠っていて、しかもその気配を天使に気付かれまいと極力抑えていたから、吸血鬼はそれと気付かないまま、牙を立てた。」

 うっすらと目蓋を持ち上げ、紅い瞳を僅かにのぞかせた少年は、尚も静かな口調で語り続ける。竜姫は、少年をじっと見つめたまま、静かに耳を傾けていた。

「吸血鬼は、ルードヴィヒの血を根こそぎ吸い尽くそうとした。吸われた血の量が、致死量を越えた時、吸血鬼の呪いが失われた血液の代わりに体内を巡り始めた。呪いは、ルードヴィヒの身体を人間のそれからヴァンパイアのそれへと変えていった。けれど、ルードヴィヒの中に眠っていた悪魔がそれを黙って見過ごす訳は無い。」

 組んだ両手に、力がこもる。

「悪魔はつまりは堕天使だから、天使と同じく霊体で、その姿を視る事のできる者は滅多にいない。悪魔が視える人間ならば彼らと契約を交わす事もできるが、そうでない大多数の人間は単に取り憑かれて一方的に生気を吸い取られるだけ。ルードヴィヒは、その大多数側の人間だった。だから、悪魔は適当に生気を奪って適度に回復して、宿体が死んだらその身体を捨てて、新たな獲物を探すつもりでいたんだ。」

 そのあんまりな台詞に、竜姫はいたたまれなくなって、それをごまかすようにチビチビと紅茶の缶に口をつける。

「けれど、ルードヴィヒが吸血鬼に咬まれた事で、事情が変わってしまった。ただの人間だったルードヴィヒの身体ならば、取り憑くも捨てるも悪魔の思いのままだった。が、その宿体を巡る吸血鬼の呪いは、悪魔にも牙を剥いた。ルードヴィヒの意識だけでなく、悪魔の自我まで呑み込もうとする呪いに、悪魔は必死の抵抗を試みた。ただの人間にしかすぎなかったルードヴィヒの中で、悪魔と、吸血鬼の力が互いを呑み込もうとぶつかり合う、そんな只中で、ただの人間だったルードヴィヒの意識が、悪魔や吸血鬼の力に呑み込まれずにあったのは、弱った悪魔の体内に埋め込まれた神剣のカケラのおかげだった。」

 その、神剣の持ち主に、なんとなく心当たりがあるような気のする竜姫は、渋い顔をする。

「ルードヴィヒの体内で、三つの意識がせめぎあう中、さらなる不幸が、ルードヴィヒと、その村を襲った。ルードヴィヒの中で、吸血鬼に抗おうと目覚めた悪魔の気配を嗅ぎ付けた天使が、村を襲ったんだ。」

その、天使が誰だか、物凄く知っている気が、竜姫はしていた。

「その天使の標的が何なのか、すぐに悟ったルードヴィヒは、村に迷惑をかけまいと、まともに動けない身体で、這うように家から外へ出て、そのまま村外れの森の中へと逃げ込んだ。当然、天使は自分を追って真っ直ぐこちらへすっ飛んで来るものだと思っていたルードヴィヒは、後ろを振り返って呆然とした。ルードヴィヒの目に映ったのは、雷を放ち、村を火の海へと沈める、天使の姿だった。悪魔に取り憑かれ、吸血鬼に咬まれた自分を滅するというなら分かる。でもそうじゃない、何の罪も無い両親や親族、友人、知人、それら全てをあの天使は焼き滅ぼした。そのあまりの光景に、ルードヴィヒは、ショックのあまり己の意識を手放してしまった。」

 竜姫の背筋を、氷塊が滑り落ちていった。脳裏に、あの日の記憶の一幕が蘇る。あの悲劇を思う度、痛む頭が、冷たく凍り付く様な感覚が襲う。

「意識を完全に失うまでのほんの僅かな間に、ルードヴィヒは天使への憎しみの感情を抱き、その魂を黒く染めた。それを取り込み力を増した悪魔は、ヴァンパイアの狂気を押さえ込む事に成功したが、その時既にルードヴィヒの身体は吸血鬼になってしまっていて、悪魔は宿体に縛られ、その身体から抜け出す事ができなくなってしまった。」

 凄惨な内容の話を、少年はそれでも淡々と語り続ける。

「魂を喰われた人間としてのルードヴィヒの意識は消失したが、最期の瞬間の感情が常軌を逸脱するほど強力なものだったせいか、魂を取り込んだ悪魔の意識と同化してしまった。こうして、吸血鬼の身体に人としての記憶と意識を宿した悪魔という、前代未聞の魔物が出来上がった。けれど、悪魔と同化した意識が持つ強い憎しみと、ヴァンパイアの狂気を内包する、その精神はひどく不安定なものだった。ともすれば暴走し、近隣の村を襲い、幾千もの命をその手にかけた。」

 伏せられた瞳から、一筋の涙が零れ落ちるのを、竜姫は見た。

「やがて、その恐るべき魔物を退治るべく、天から討伐軍が派遣された。主天使ドミニオンズ力天使ヴァーチュズ能天使パワーズ。普段は絶対人界には降りて来ない中級クラスの天使達を相手に、魔物は為す術も無く封じ込められた。そして、全ての原因を作った大天使は、その咎で封印された魔物の守役に任命され、この異国の地へと左遷された。奴は初め、九州に礼拝堂を建て、そこへ魔物を封印した棺を封じた。しかし、時代の流れと共にキリスト教は時の政府に弾圧される様になった。己の信じる神を軽んじられ、怒った天使は民衆をそそのかして時の権力者に反旗を翻させた。」

 ……九州のキリスト教信者の反乱といえば、何やら、そんな話を日本史の授業で聞いた様な覚えがある。まさか、と思いながらも否定しきれないものがある。

「しかし、その無謀な計画は失敗に終わり、結果的に多くの信者が命を落とした。その咎を受け、堕天の烙印をを押される事を恐れた奴は、山奥へ逃れ、シールドを張って閉じこもった。それからさらに数百年の時が流れたが、天は奴の罪を取り沙汰す事はなかった。その頃にはキリスト教を嫌った当時の政府は倒れ、締め付けも大分緩くなっていた。時の流れと共に、礼拝堂にも人が集まる様になり、新たに教会が造られ、やがて学校が建てられ、今に至る訳だが。」

 そう、語る少年の瞳に、もう涙はその名残すらなく。

「その間、俺はずっと封じられたままだった訳だが、あくまで封じられただけで、死んでた訳じゃない。棺の中で、三つの意識が互いの存在を呑み込もうとしていた。自分が一体何者なのか。人の感覚からすれば、長い、永い時の中。けれど吸血鬼や悪魔の感覚からすれば、ほんの僅かな時間でしかない、数百年という年月の中で、俺は幾度も見失いそうになった。」

 竜姫は、とうに空になった缶を、強く、強く握り締めた。

「永遠に近い時の中、遅かれ早かれ、いずれは狂うんだと思っていた。だけど、俺は今、封じを解かれ、こうして目覚めてここにいる。吸血鬼の身体と、悪魔の知識と力を、人であった頃の記憶と意識が主導権を握る『俺』として。」

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