そして、新たな運命は廻り出す
見れば、手に晃希の魔剣を携えた清士が、背負った白い翼をたたみ、ふわりと着地するところで。その、彼の前では頭と胴とを真っ二つに裂かれた化け物が、血の海に崩れ落ちていた。
「――お前……。」
いつの間にか奪われていた己の魔剣を手にする清士を見て、晃希は唸った。自分の力を具現した剣であるあれは、まさに魔力の塊。今、あの剣を形作る魔力をも彼に奪われてしまえば、もう、清士を抑えておける力も残っていない今の自分に勝ち目はない。
「――立て。まだ、仕事は残っているんだろう? 何だ、偉そうなこと言っておきながら、いざとなったら何もできない役立たずなのか、お前は?」
清士は、嘲笑を浮かべながら――奪った剣を放って返した。くるくると危険に回転しながら飛んできた剣を、
「おいっ、ふざけた真似してんじゃねぇ!」
と、悪態をつきつつ、間一髪でよけ、ガっと背後の木の幹に突き刺さったそれの柄を握った――その瞬間、晃希の表情が驚愕一色に染まった。
「――お前、これ……!?」
柄を握った瞬間、流れ込んできた大量の魔力。――魔剣を媒体に還されたのは、まぎれもなく元は自分のものだったはずの、清士の魔力だった。
その清士の背後で、ボロボロと、化け物の輪郭が粒子と化し崩れ始めた。崩れて風に溶けた化け物の邪気は、竜姫が術で生み出した清浄な空気に散らされ、消えていく。
「――早くしないと、化け物ごと消えるぞ。」
その台詞に、晃希は自分の耳を疑った。思わず自分の頬をつねりあげる。――ちゃんと、痛かった。
「……お前、なんかその辺で変なもん拾い食いとかしなかったか?」
魔剣をしまい、それから魔力を取り込み回復を試みつつ、晃希は言わずにはいられなかった。
「それともどこかで頭でも打ったか、いや、それとも……?」
怒りに染まった表情をした清士が、つかつかと肩を怒らせながら晃希へと歩み寄る。ガっと、勢いに任せて着物の襟を掴み上げ、
「……黙れっ、我は天使だっ! 天使が人や獣の食い物など口にする訳なかろう! もちろん頭も打っていない。我は至って正常だっ!」
天使であることを見せつけるかの様に白い翼をばさりと広げ、清士が吠えた。
「……たとえ天から見放されようとも、お前の血を受け悪魔の眷族になり下がったのだとしても――魂を、奴らに縛られたとしても。――我は、天使としてありたい……。」
怒鳴った後、小さく、ほとんど独白に似た呟きを口にしながら、清士は掴んだ襟を放し、代わりに右手を晃希の胸に当て、目を閉じた。
ふと見ると、清士の白い翼の白が聖なる光に包まれ、それと同じ光が彼の右手に宿っている。光は、さらに晃希を包み込む。ふわりと柔らかく暖かい光は、ゆっくり優しく、晃希の身体を癒していく。
「! お前これっ……、癒しの力――!」
そう、それは天使の癒しの力。――魔物に堕ちれば失われるはずの、神から与えられし聖なる力。……魔物は驚異的な治癒能力を持つ。もちろん、悪魔も。――だがそれは、あくまで自分自身にのみ有効な力であり、その能力を人に分け与えたりすることはできないし、攻撃魔法は数あれど、治癒系の魔術など存在しない。
「――お前、天使の力を失ってないのか?」
「……これは、我の力ではない。」
晃希の問いに、清士は拗ねたようにプイっと顔をそむけた。
「あの時……、餞別だと言って、ミカエルさまに頂いた力だ。」
――ミカエルの、神剣に貫かれ、光となって消えるのだと、そう思った時。その、最期の瞬間に言われた言葉。
――神が我らを生みだして後の今まで、堕ちた同胞は数知れず――。神に創られ、神の使徒として働く我らが住まう、天獄という名の狭い箱庭を飛び出して……。貴方は、どう生きますか? どんな未来を望みますか……?――
「我が望むことなど、今も昔も変わずただ一つだけ。兄を越える事、それだけだ。……サハリエルは死んだかも知れないが……まだ、その力と心を継いだお前がいる。――見てろ、今は無理だとしても、いつか、お前に参ったと言わせて我の前に跪かせてやる。」
だから、今、こんなつまらない事で死んで貰っては困るのだ。
「――いつか、その日が来るまでは……癪ではあるが……いいだろう、ここにいてやる。」
あくまで、彼らしく。偉そうに。――だが、自分でもらしくない事を言っている事を分かっているのだろう、……瞳を落ちつかなげに宙に彷徨わせながら言う。
――はまった。
一番頑固で厄介な歯車が今、ピタッと所定の位置に収まった。これで、後は。
「最後は、俺の仕事だな。」
上から吊られていた緊張の糸がプツンと切れたようにへたり込む大人達をチラリと見やりながら、青い顔で駆けてくる竜姫と誠人、久遠と稲穂とを迎える。
「晃希っ、」
「おいっ、大丈夫か?」
清士は、うるさいのが来たとばかりに渋面を浮かべた。
「――ああ、悪い。ちょっとヘマ踏んだ。でももう、大丈夫だ。コイツのおかげでな。」
それを可笑しそうに見ながら、晃希は彼を指して言う。
「ふん、口だけ達者な間抜けが主では、我の沽券にかかわるからな。」
それに対し、減らず口を叩く清士。
「清士……、」
竜姫は、彼の表情を正面から見据え、彼の名を呼び、
「ありがとう、援けてくれて……。」
腰に添えられていた彼の両の手を取る。そっと、それに自分の手を重ね、包み込むように。その温もりに、清士は、
――そういえば……こうして誰かと触れ合うなど……兄が堕ちて以来かもしれない……。
ふと、思った。さらに思い返してみれば、こうして自らの行いに対して礼を言われるなど、それこそいつ以来だったろうか?
――こういうのも、悪くない……、かもしれん。
だが、昨日の今日、さっきの今では、そう簡単に素直にはなれなかった。だから、
「ただの気まぐれだ。」
と、そっけなく言って、そっぽを向く。けれどその瞳にはもう、冷めた色は無く、生気に満ちた光に彩られていた。
「それより、早くしないと、本当に手遅れになるぞ。」
そっぽを向いたまま、清士が言う。
「……ああ、分かっている。……久遠、稲穂様。手を貸していただけますか?」
もう、化け物の身体はあらかた崩れて消え、もう原形を留めてはいなかった。ただ、黒っぽいグズグズした塊があるだけ。それすらも、時を経るごとにサラサラと溶けて消えていく。その中に、白く光る光の珠が二つ。常人にはもちろん、霊視能力を得た誠人にも、神を宿した巫女ながら、まだ人間である竜姫にさえも視る事の出来ないそれ。
霊体すらも形作ることの出来ない、不完全なカタチの魂を今、視る事の出来るものは、ただ四人だけ。久遠、稲穂、晃希、そして清士。
「稲穂様、申し訳ありませんが、身代になっていただけませんか?」
魂の取り扱いに長けた晃希と、悪魔に堕ちた清士のみが感じる事の出来る、魂に残る現世への未練。このまま強制的に送ることも不可能ではないが、ただでさえ不安定な魂をそんな風に扱えばどうなるか――。馬鹿でも分かるだろう。
本来ならば、魂は霊体の形を取り、自らで未練を果たそうとする――中には怨霊と化し、人に害をなして祓われる連中もいるが――。だが、魄を失くした彼らは、独力でそれをなすのは不可能。何かに依り憑き、形を借りねばならないのだが、不完全な魂を身に降ろすには、足りない部分を補ってやれなければならない。本来、そういった事に長けた巫女であるが、今の竜姫にこれは荷が重すぎる。そして、久遠は。力は十分だが、人型ではない彼の身体は、人の魂の器には適していない。
「――無論だ。遠慮することはない、むしろこちらからお願いしたいくらいだ。」
稲穂は答えた。――これで、一つ。だが、魂はもう一つある。
「……不本意だが、滅多にない気まぐれをもう一度だけ起こしてやろう。」
むすっと渋い表情をしながら、清士が言った。
「我を使え。……後で貸しにツケといてやる。」
その言葉に、久遠は酢を飲んだような表情を浮かべ、ハッと空を仰ぎ見た。
「なっ、何の天変地異の前触れだ!? 大雨がっ、いや、槍が降るかもしれないぞ?」
「……前言撤回してやろうか、狐。」
清士は冷やかな目線で見下ろす視線で刺すように睨みつけ、低い声音でぼそりと呟いた。
「清士、今は時間が惜しい。頼む、協力してくれ。」
晃希が、軽く背を叩いて言った。
「ああ。久遠なら後でしばいておくから、今は力を貸しておくれよ。――これを逃したらアタシらはこれからずっと、深い後悔を抱えて生きていかなきゃならなくなる。」
稲穂は、臆面もなく頭を下げて言う。
――悪くない、と。そう思う。少し、心を傾ければ、傾けた分だけ確かに還ってくる。こんな確かな気持ちを向けられたのは……もしかして、初めてだったかも知れない。
そもそも、狛犬として魂を縛られた今ならば、一言命じればいいだけの事を、わざわざこうして頭を下げてまで「お願い」されているのだ。それは、陥とされても、確かに自分の人格を認められ、尊重されているという事。
清士は、心底、今自分が在るべき場所、自分の居場所がここなのだと理解し、納得した。まあ、まだ、晃希のように従順に仕える気にはならないが……。
「いいだろう。さすがにこのまま見殺しにしては、我も寝覚めが悪くてかなわんからな。」
清士は頷いた。
「……ならさっそく、始めるぞ。」
晃希は、ふわふわと頼りなく浮かぶ光の球を、そっと壊さぬように掌に掬い上げる。まず一つ、より白く美しく輝く魂を、稲穂の元へと運ぶ。
「――失礼します。」
晃希は、光の珠をそっと彼女の胸へ押しつけ、そのまま体内へと押し込み、埋め込んだ。珠の全てが収まりきったところで、彼女の胸に手をあてたまま、埋めた魂へと魔力を使い、働きかける。稲穂の神気をかき集め、仮の器を作り出し、それと魂とをなじませる。
その後ろで清士は、もう一つの魂を無造作に掴み上げた。悪魔に堕ち、晃希の魔力を継いだ彼は、自らの胸へ、晃希がしたのと同じようにそれを押し込んだ。
と、ふと、二人の面差しがぶれ、彼らのものでない、別人の顔が重なって視えた。今度は、竜姫にも、誠人にも、そして晃希の魔力で一時的に霊視能力を得たおかみさんや、敏子たちにもはっきりと視える形で。
「叔父さん……、に……叔母さん?」
そう、その顔には見覚えがあった。
「あれは……優花ちゃんと正寛さんじゃないか――?」
驚いく声が、おかみさんの喉から絞り出された。
「こ、今度は何なの……?」
次から次へと、息を継ぐ間もなく立て続けに起こる異常事態に、敏子は息も絶え絶えに呟いた。
「……よく見ておけ。これが、お前が目をそむけ続けた現実。そして、お前が捨て去った世界だ。」
久遠は、竜姫達の傍を離れ、座り込む彼女の前に立ち、言い放った。
「あれは正真正銘、半年前の騒動の際、我らが多喜様と、多喜様がお産みになった次代の神を守って、先程の化け物に魂を喰われ亡くなられた先代、優花様と正寛様の御霊である。」
「喰われたって……、あれは……事故じゃなかったのかい?」
おかみさんがこぼした。
「……言ったところで、誰が信じる? こうして、現実を目の当たりにしながら尚、現実を見ようとしない輩すらいるんだぞ?」
必死に、目をそむけようとする敏子を見て久遠が言った。
「久遠、ちょっといいか?」
優花と、正寛の魂を宿し、一時的に己の意識を眠らせた稲穂と清士とを連れた晃希が、そのすぐ後ろから声をかけた。
「その件について、そちらの方々にきちんとご説明なさりたいそうだ。」
ぺこりと、正寛・清士が軽く会釈をした。
いつも居丈高で、傲岸不遜な清士にはありえない仕草。表情も、にこにこと人の好い微笑みを浮かべていて。
一方の優花・稲穂は、元の妖艶さと凄みは多少薄れているとはいえ、まとう雰囲気はじつによく似ていて。まさに、肝の据わった姉御肌といった感じだ。
「……おかみさん、それに……姉さん、義兄さん。」
それぞれの目を順繰りに、しっかりと見据えて、優花は口を開いた。その口から出てきた声は、稲穂のものではなく――。
「ああ、確かに優花ちゃんだ。このアタシが、優花ちゃんの声を聞き間違える訳ない。」
目に涙を浮かべ、おかみさんが言った。
「過日の件ではご迷惑とご心配をおかけしました。」
優花は、礼儀作法の手本さながらの綺麗な礼をもって、おかみさんへ感謝と謝罪の意を示した。
「……そんなの、いいんだよ。それよりほら、あたしらなんかより竜姫ちゃんに言っておあげよ。……長くは、居られないんだろう? もう、本当に……逝っちまうんだろう?」
優花は、その問いには答えなかった。しかし、彼女が浮かべた寂しげな笑みは、どんな言葉よりもその事実を伝えていた。
「あの娘の為にこそ……、私は真実を伝えねばなりません。」
そして、優花は語り始めた。多喜の寿命の事、多喜が産んだ次代の神の事、そして、それを狙って社を襲ってきた幾多の妖達と闘いを繰り広げたあの日の事を……。
「私達は、力及ばずあの化け物に喰われ、命を落としました――。」
そう、覚えている……。必死に自分たちを呼ぶ、娘の声。泥に埋もれていく、竜姫の姿――。厳しい現状の中に、一人残して逝くことが、たまらなく悔しくて。
「私が語れるのは、ここまでです。」
そう言って、優花は、自分の後ろでじっと聞き入る晃希の背を押し、自分の前に立たせた。
「あの日から、今日までの事は、きっとこの子の方がよほど詳しいはず。」
そう言って、ポンポン晃希の肩を叩き、
「……教えてちょうだい。あの日からの、あの娘の事を――。」
母の笑みを、晃希へと向けた。
「っ、そう言う事なら、俺より久遠の方が……。」
言いかける晃希の口を手でふさぎ、優花は笑みを浮かべたまま首を左右に振る。
「確かに、一緒にいた時間は、あの子のほうが長いかも知れないわ。でもね、あの娘の気持ちと現状を一番良く分かっているのは、あなたでしょう?」
有無を言わせないその表情には、見覚えがあった。――ああ、確かに親子なんだと、晃希は思った。
「それに今、あの娘や……稲穂様が一番信頼しているのはあなたの様だから。」
「分かりました……。そう、おっしゃるなら……ご説明しましょう。」
そして、優花の話を継ぎ、その後の話を始める。竜姫の背負った運命を――。