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緋色の絆  作者: 彩世 幻夜
第三章 -obtain-
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新たな季を告げる訪問者[3]

 「化け物っ、」

 その女は、言った。

 もう、どうでも良くなったはずだった。誰が、誰に何を言われようとも。それが、たとえ自分に向けられた言葉だったとしても。

 ましてや、他人事。それも、元は兄であったあの、自分を下僕へ貶めた憎き相手に向けられたものであれば、尚のこと。

 なのに、何故だろう。この感情は、なんだ?

 清士は、自問自答してみた。が、分からない。けれど、無性にもやもやムカムカして、落ち着かない。

 さっきも、そうだった。やたらと自分との違いを得意げに語るあれに、何故だか苛ついた。――悔しい、等という感情は捨ててきたはずであるにも関わらず。

 そもそも、悔しい、という感情は、自分に誇りを持てなければ感じるはずのない気持ちだ。至らない自分が歯がゆいと、そう思えなければ、そんな感情は生まれない。

 更に言えば、その感情を、『彼』に対して抱いたのだとすれば、それは、少なからず自分はあれに関心を抱いているという事になる。

 そうでなければ、あれに勝とうが負けようがどうでもいいはずで。あんな風に比べられたからって、苛つく訳もなく。

 ――ましてや。自分を負かした相手が、罵られたから『悔しい』だなんて。まるで、自分があれを認めているみたいではないか。

 そんな、自分の心に戸惑いを抱きながら、気づけばいつの間にか地面へ降り立ち、あれを「化け物」と罵った女の前に立っていた。

 だが。――狛犬になったとはいえ、霊体のままの天使の姿は、彼女の眼には映らない。

 敏子は、自分の手を振り払い、晃希の元へ駆け寄った息子を呆然と眺めていた。その彼は、何故だろう、こちらを見ながら、自分ではなく、すこし左にずれた場所を凝視している。その顔色は、あまり良くはなくて。

「……竜姫ちゃん、どういうことだい? 何が、起こってる?」

 普通の人間ならば、命にかかわる程の出血を伴う怪我を負いながら、まだ起き上がろうとする、その彼に、躊躇いなく手を差し出す竜姫と誠人とを見て、意を決したように、おかみさんが尋ねた。

「……、」

答えようとして、――しかし竜姫は、一瞬ためらう様子を見せた。

「信じて、貰えないかもしれないけれど。今、すぐそこに、一匹の妖がいるんです。それは、俺や……人間の魂を喰らおうと、狙っています。」

代わりにそう答えたのは、誠人だった。

「この、彼は、社を守護する者。たった今、僕らを食い殺そうとした化け物を、身体を張って食いとめ、僕らの命を救ってくれたんです。――彼は、確かに人間ではありませんが、決して化け物なんかじゃ、ない。」

 じくじくと、滲む血が、止まらない。瘴気が、身体を巡る。力が、抜けていく様な感覚。それでも、誠人は真剣に訴えた。

「――誠人君……」

そんな、彼の後押しを受けて、竜姫は言った。

「今、この場には、私が使える神々が、その化け物を追い払うために集っています。そして、彼、晃希は、この社の狛犬の一人。」

「彼らが、一時的に化け物をこの場から追い払ってくれました。……けれど、あの様子ではすぐまた戻ってくるでしょう。その時、僕らがいては足手まといになるだけです。この場は彼らに任せて、とにかくまずはこの場所を離れましょう。……とりあえず、道場にでも籠っていれば大丈夫だよな?」

誠人が、竜姫に尋ねた。

「ええ、そうね。あそこにはまだ、さっきの結界の余波が残っているはずだから、万一こいつがそっちへ向かったとしても、建物の中にまでは手出しできないはず――」

どんどん悪くなる、誠人の顔色を心配しながら、竜姫は答えた。が、それを遮るように、

「ちょっと、あんた、訳の分からない勝手な迷信話にうちの誠人を巻き込まないでくれる? 誠人! 馬鹿な事言ってお母さんたちを困らせるのはいい加減やめなさい!」

と、敏子が叫んだ。

「――馬鹿なことじゃない! ……ああ、僕もついこないだまではそう思ってた。でも、そうじゃない。今、ここにある現実が、事実なんだ。母さん、――今なら、母さんにも視えるはずだ。」

 自分より、余程濃く神崎の血を受け継いでいるのだ。……あの日の自分と同じく、命の危機にある今なら。心の曇りさえ払えれば、きっと。

「――そうか、……そうだ。お前も、一応その血を継いでいたんだったな。……なら。」

そう言って、晃希が、誠人の腕を取った。

「なら、……竜姫の血には及ばずとも、今、この場を乗り切るためなら――。」

 傷自体はただの引っかき傷のはずが、瘴気の毒気で炎症を起こしかけている傷を見ながら言う。

「――誠人。俺に、血をよこせ。……ついでだ。毒血も全部抜いてやるから、俺に血を吸わせろ。」

「――は、え、……えぇっ!?」

その言葉に誠人は、更に顔を青ざめさせた。

 昨夜の吸血シーンは、まだまだ記憶に新しく、衝撃もまだ生々しく残っている。……あの時感じた、己の感情も。

「……心配するな。量なんかりゃしねえよ。お前の言う通り、今の状況なら、一時的にも、ここにいる連中に、常人には視ることのかなわない光景を、俺の魔術で視せてやれる。……力さえ、戻ればな。」

 晃希の方は、もう本当に淡々と、この状況を脱却する為の手段の一つとして語る。今、差し迫る、妖怪ではない、得体の知れない事態を防ぐためにも、と。

「……本来なら男の血なんか吸いたかないが、緊急事態だ。贅沢は言ってられねえ。」

微妙に泳ぐ誠人の瞳に、晃希は言った。

「それとな、一刻も早く毒血を抜かなきゃお前、マジで手遅れになるぜ?」

「――晃希。」

竜姫が、彼の名を呼んだ。

「――誠人君……。」

そして、誠人の名を。

「……なら、とっとと済ませろ。」

一つ、ため息をついて。誠人は、観念して、腕を差し出した。胸の動悸を、押し隠して。

「一つ、貸しにしといてやる。」

「助かる――っ、て、は? 貸しだぁ? 何言ってる。ついでに毒血を抜いてやるんだ、それで相殺だろう?」

……それ以前に、あの化け物から命を救われているのだ。むしろ借りがあるのはこっちだと分かっていて、誠人は、

「俺の血はそんなに安くないぜ?」

……自分で言ってて寒々しい台詞を吐いた。――案の定、竜姫からは憐みの視線を向けられた。心に、現実に吹く木枯らしよりも冷たい風が吹き込む一方で、体中の血が頭部に集結し、赤面した顔は火が出る程熱くなる。

「……おい、大丈夫か? まさかもう毒が回ってるのか、――随分早いな……。ほら、馬鹿言ってねえでとっとと貸せ。」

 誠人からすれば、泣きたくなるほどの恥。それを晃希は見事なまでに綺麗に流し、適当にまくられ、弛んで落ちかけた袖を肘の先までまくりあげる。

 高三男子にしては細く白い腕は、冬だというのに彼の几帳面な性格から綺麗に無駄毛の剃られた腕に滲む血の赤を、まずは軽く舐め上げた。

「えっ、……あっ?」

 そうして、誠人が驚く隙に、気づけばあっさりと牙が肌の下へと埋め込まれていた。じわじわ滲むだけだった血が、その傷口からドッと溢れ出す。晃希は、傷口へと強く吸いつき、瘴気を含んで苦味のある血を飲み下していく。

 そもそもが、炎症を起こし始めていた傷だ。そこをさらに傷つけられ、強く吸われているのだから、結構な痛みがあった。……とはいえ、目の前の晃希に比べれば、何て事の無い傷だ。誠人はあえて平静な表情を取り繕いつつ、吸いつく晃希をさすがに直視はできなくて、何となく視線を泳がせる。

 だが、晃希が血を飲み下していく毎に、身体に蔓延はびこっていた倦怠感は確実に薄れてきている。お陰で、血を吸われることへの嫌悪感を抱かず済んでいる事もまた、確かで。ふと、見れば。昨夜程顕著ではないものの、晃希の様子もまた、変わりつつあった。

 白い服についた赤い血は、未だ生々しいが、それよりも一層鮮烈な紅い色と、瞳が合った。ニヤリと不敵に笑って、晃希はもう一度、傷からあふれ出た血をぺろりと舐めた後で、指の腹で傷口を拭った。すると、牙の後は勿論、化け物につけられた引っかき傷まで綺麗に消えてなくなる。

「――あ……、」

 後にはただ、流れた血がこびり付いてるだけで。それが無ければ、傷など元から無かったよう。

「――なるほど、薄いとはいえ、やっぱり多喜様の加護を受けていた血だな。さすがに神を宿した竜姫のものに比べれば劣るが……。」

指についた血を舐め、口周りについた血もササっと舐め取る。

「晃希――。」

彼の瞳から、飢えた灯が消えたのを見て、竜姫は安堵のため息をついた。……少し、複雑な表情はしていたが。

「……助かったよ、――今なら、いける。」

ポンと肩を叩かれ、誠人は、わざとらしく咳払いをし、

「……う……、いや、こちらこそ……その……、助かったっていうか。……だいぶ楽になった。」

と、視線を泳がせたまま言った。そして、晃希の耳元で、

「――あー、あの……、さっきのは忘れてくれると助かる……んだけど……。」

ポソッと囁くように呟いた。と、不意に晃希の肩がふるふると僅かに痙攣し出した。口元を手で覆い隠している。

 誠人の台詞を聞いていなかった竜姫は、

「ちょ、ちょっと晃希、どうしたの?」

と尋ねるが、

「あっ、こらっ、笑うなよ!」

誠人は血濡れた服の襟元を思わず掴み上げた。晃希は、笑いを堪え切れずに噴き出した。

「ふっ、竜姫も随分な変わり者だと思ったけど――、お前も中々面白い奴だな……。パッと見は真面目なだけのつまんねーヤツかと思ってたのに……」

「――きゅ、……吸血……鬼……?」

 けらけらと騒いでいる――その、背後から聞こえた怯えた声に、竜姫と誠人が振り返る。晃希は、表情を青ざめさせた敏子を、正面から見据えた。

 敏子は、その視線に射抜かれ、そろそろと後ずさろうとして――その隣で真剣な眼差しをこちらへ向ける息子と目が合い、咄嗟に、動くことができなくなった。

「……傷が、消えてる――。じゃあ、本当にこの彼は……。」

吸血という、背徳的な――許されざる行為を目の当たりにしたおかみさん達も、さすがに息を飲んだ。だが、当人達のあっけらかんとした軽い空気につられ、それ以上険悪な雰囲気になる事はなく。

「……ええ。俺は、人間ではありません。……視せて差し上げましょう。普段、あなた方が決して視る事の出来ない世界を――。」

笑みを引っ込め、晃希は真面目な表情で言った。

「そして……視えなくとも、確かに存在している者達の姿を――。」

左手を握りしめたその手の甲に、右手人差し指を滑らせる。指の腹を傷つけ出した血で小さな魔法陣を描き、呪文を唱える。ピッと爪で手の甲を傷つける。

プクッと膨れるようにあふれた血に、右手をかざし、尚も呪文を唱え続けると、あふれた血が、玉のように固まり、フワッと傷口から浮いた。ちょうど、真珠ほどの大きさの、紅い紅い粒を、晃希は人差し指と親指とで摘まんだ。

液体であるはずのそれは、質量を備え、本当に紅い真珠のように、晃希の左の掌へ転がされる。晃希は、その粒をギュッと握り締め、さらに術を重ねていく。次に開かれた彼の掌に、あの紅い珠は無く、紅い色をした錠剤が四粒、乗っていた。

――血を媒介にした、魔術。

「あ……、もしかして、あれも……。」

竜姫は思いついて、納得したように頷いた。

 学園を後にしたあの晩の、あの時の紅い粒子くすりも、クラウスの眼を眩ます為にと貰ったあのカプセルも、おそらくは。――どうりで詳細を話したがらなかったはずだ。

 血を吸われる、というのも中々に背徳的なイメージが付きまとうが、しかし受身側である以上、それは単なる被虐趣味程度で片付けられる。……だが。血を飲む、ということは、それ以上に精神的嫌悪を伴うものだ。

 ――晃希の、血だ。自分はもう、今さら別に気にしないが……。竜姫は、チラリと窺うような視線を一同に向ける。

「大丈夫、心配するな、竜姫。」

 晃希は、そんな竜姫の前で、再び拳を握りしめた。パキッと、その手の中から鈍い音がして。彼は、粉々に砕いた粒子を、風に乗せて辺りに撒いた。フワッと、紅い霧が舞い、辺りに霧散して行く。風下にいる、おかみさん達、そして誠人の両親たちの方へと。

 サワワ、と、風が吹き抜ける音がして。足元の枯葉が、風にあおられカサカサと乾いた音を立てる。粉っぽい空気に、思わず目を閉じた彼らの耳に、

「グゥオオオオン、」

と、身の毛のよだつような咆哮が届いた。

 ハッとして眼を開けた敏子の眼に、今まで視界に無かったものが映る。まず、目の前に立つ、白い羽を背に背負い、頭頂に光る輪を乗せた、一人の男の姿。――それは、聖書にある、いわゆる天使そのものの出で立ち。

「晃希っ、気をつけろっ! そっちへ行ったぞ!」

そう、人語を操り叫んでいるのは、九本もの尾を持った異形の狐。

「誠人っ、そこ退いてろ!」

もう一人、その背後から、色鮮やかな紅い髪をした艶やかな女性が、到底人間が駆けられるはずもない崖を軽々駆け昇ってくる。

 それよりなにより。彼らの前を、図体があり得ないほど大きな、イノシシの様な容貌をした化け物が、こちらへ向かって突進してくるではないか。

 晃希は、すぐさまさっき放り出した剣を取りに駆けだし、誠人は素早く、

「早くっ、とにかくここを離れましょう!」

と、立ちすくむ大人達をせきたてた。

 晃希は、剣を手に、化け物へ向かって走る。誠人に促され、ハッと我に帰ったおかみさん達は、しかし、目の前の光景から、目を背けることが出来なかった。

 青い炎が、縦横無尽に駆け、化け物を追い、高い笛の音に呼応して生まれる風の刃がその身体を薙ぐ。パサリと、黒い翼を広げた晃希の身体がふわりと宙に浮き、向かってきた妖の鼻面へ剣を叩きつけた。

「グゥオオオオオオンッ、オオオオン!」

パッと血飛沫が弾け、バタバタっ、と血の滴が落ちた。

「あの、化け物と闘っている彼らこそが、この社の神々。稲穂と、久遠。風と、大地の恵みを司る、豊穣の神々です。」

竜姫は、戦局に目を向けたまま、振り返りもせずに告げた。

「――この社の主神である多喜は、半年前の騒動の折、この世を去りました。」

言いながら、竜姫は印を結ぶ。

「――今、この社における主神は……、」

 台詞を切り、瞑目して、竜姫は小さく神呪を唱えた。ズザザッ、と、すぐ脇に立つ木の枝に降り積もっていた雪が、突如崩れて落ちてきた。落ちながら、白い氷の粒は見る見るうちに融け、透明な水となって、伸ばされた竜姫の掌へ落ちる。

それなりの重量があったはずの雪の塊だった水は、まるで水あめみたいにトロリと竜姫の腕へ絡み、纏わりついた。

「この、私――。」

くるりとこちらを振り向き、粘度を増した水に包まれた手で、宙をなでる。すると、まるでそこに視えない壁があるかのように、掌から水がこぼれおち、透明な水のカーテンが描き出されていく。――ただの人間である彼らと、人のくびきから外れた存在とを別つかように、それは、壁となる。

「っ、竜姫ちゃん?」

誠人が伸ばした手は、水の障壁に阻まれ、向こうへ抜ける事を許しては貰えなかった。

「そこで、見ていて下さい。」

 彼女が、水を払うように腕を一振りすると、纏わりついていた水は、あっさり無数の水滴となって落ち、地面に水たまりを作る。竜姫は、空を仰ぎ見た。陽が傾き始めた、空を。

 あの日とは違う。あの日の様な重たい雨雲は無く、晴れ渡った空に浮かぶ太陽が、眩しい。あの日の辛い記憶を、今日この日、新しい記憶に塗り替えるために。

 竜姫は、とっておきの、秘術のための印を結ぶ。全神経を集中させ、神呪を唱える。それに呼応するように、キンと、冷たく澄んでいた空気が、更に清浄さを増し、化け物の咆哮に混じる嫌な空気が端から排除される。日だまりにわずかにあった柔らかな空気も、硬く透き通った空気へと挿げ替えられていく。

 ドクン、と。心臓の鼓動が一つ、高く、胸の中にこだました。ドクン、ドクンと、脈打つ心臓の拍動に沿うように。ゴウッ、と、清らかな空気が竜姫へと引き寄せられ、彼女を中心に渦巻き始める。

 まるで、小さな竜巻のような暴風に吹き飛ばされた雪の粉が、風に融け、風の渦に共に巻き込まれていく。それは、太陽の光を浴びてキラキラと輝き、雪解けの水が、まるで水龍がとぐろを巻いているようにも見えた。実際、風に弄ばれていた水滴は次第に集まり、形を成し、そして――。

「山に棲まう水の精よ、神龍の名において命ずる。平穏を乱せし邪悪なる物を縛し、洗い清めよ!」

 竜姫の叫びに、渦巻いていた水流が、むくりと頭をもたげた。そこには、確かに龍の頭があり、一瞬の間をおいて、それは化け物へと牙をむいた。

 一筋、矢のように水の体躯がけ、長い身体が化け物の身体へと巻きつき、グッと締め上げる。

 化け物の針のような体毛も、水の身体には効果は無い。体躯を取り巻く瘴気も、清らかな水に弾かれるどころか、体毛の奥まで滲みる水滴に清められ、無効化されていく。

「「「竜姫っ!!」」」

三人分の叫びが、重なり、響く。

動きを鈍らせた隙を見逃さず、久遠は、狐火を操り、炎蛇えんじゃ生み、化け物の四足へ巻きつけ、拘束を更に強固なものとする。――炎はじりじりと体毛を焼く……が、化け物の厚く丈夫な皮膚に阻まれ、決定的なダメージは与えられない。

動きの止まった化け物に、稲穂が風の刃を浴びせるが、体の表面を切り裂くばかりで、やはり決定打にはなりえない。稲穂は、それを見るとすぐに自分からの攻撃を諦め、竜姫の水龍と久遠の炎蛇とを援護し始めた。

 水龍を操る竜姫は、動けない。清士はと言えば、ただ突っ立ったままで。苦しみ、悶える化け物の前に立ち、剣を構えたのは、やはり晃希であった。

 ――だが。この場の誰も気づけていない事を、唯一見抜いていた者が、唯一人、居た。清士は、スッと目を細めて、彼を見た。背後では、畏れを抱きながらも、何某かの期待を込めた視線が二つ、自分を通り越して晃希を見つめる。その一方で、いかにも「天使」らしい姿をしている自分に向けられる視線はなく。敏子たちが見詰めるのは、ただ、凶悪な化け物の姿だけ。

 誠人は、歯がゆそうに戦いの成り行きを、壁の向こうから眺めていたが、剣を手に立つ晃希の姿をみとめ、ホッと肩の力を抜いた。昨夜の圧倒的な強さを目の当たりにした彼にすれば、血を吸い回復した晃希が、あの化け物に負けようなどとは微塵も思ってはいないようだった。

 ――しかし。清士には、分かっていた。どんなに飄々と、平気な顔をして立っていたとしても。幾重にも重ねた絆で繋がった彼には、晃希の身体の状態など、手に取るように分かった。

 血を吸い、一見回復したかのように見えるが――。実際は、血と共に摂取した瘴気の毒気に体を蝕まれ、本当なら立っていることすら厳しい状態のはず。……もちろん、通常ならば、いくら身体に瘴気を取り込んだとしても、ダメージなど喰らいはしないだろうが、自分に魔力の大半を奪われ、先程の怪我であれだけ血を流して、貴重な残りの体力魔力をも失った身体では、もう瘴気に抵抗する余力すら残っていないはず。

 無論、あれがあの娘の――神の力を宿した力にあふれた聖なる血であれば、結果は違っただろうが。……唯人に比べればマシとはいえ、力の弱い血をほんの僅か口にしただけでは――……回復するどころではない。

 良いじゃないか――。清士は心の中で思った。あの程度の化け物、片手で祓える。このまま放っておけば、あいつは勝手にやられ、自分はあれの枷から抜け出すことができる。そうしたら……。

 ――そうしたら、我は……?

 死のうと、――死にたいと、そう思っていた。もう、生きる意味もない。生きたいとも思わない……と、そう――。

 だが、自分を通り越して、あれに向けられた期待の視線に、モヤモヤしていた胸のうちの感情が、はっきりとした形を取り始めているのだ。――悔しい。それはもう、誤魔化しようのない、確かな思い。

 何故、どうして、いつも。ついさっき「化け物」として視られていたはずのあれが、こうしてその存在を認めてもらえるのか。――どうして、自分はああなれないのか。

 耳の内に、声が響いた。

 ――お前とは、違うから。――

 何度も何度も、あいつが自分に投げかけた言葉。その度に、戯言と切り捨ててきた自分。だが、こうして見てみれば、確かに違う。

 あの人に、そしてあいつにあって、自分にない物は、きっと、沢山あって。――それが、悔しくて。自分だって、と、思う。

 自分が、越えるべきものは、まだ、ここにある。決して、消え去ってなどいない。――ならば。もう、失くしたくはなかった。

 晃希が、地面を蹴る。剣を掲げ、そして化け物の脳天めがけて刃を振り下ろす。

「グアアアッ!」

ガキっと、刃が骨に食い込む鈍い音がして、化け物が呻く。――が、そこから先へ、刃が進まない。晃希の表情が曇り、しかめられた顔の端を、冷たい汗が伝った。

 化け物は、深く深く首を沈め、力一杯振りかぶった。その勢いに、晃希は振り飛ばされる。痛みに怒り狂った化け物は全力で暴れ、トドメの一撃と油断し、緩んだ水龍と炎蛇の拘束を無理やり引きはがした。

 何本もの木々をなぎ倒した挙句、太く丈夫な木の幹に叩きつけられ、息を詰まらせた晃希は、化け物が迫るのを目にしながら、動けずにいた。

「――っ、ちくしょうっ、やべぇっ!」

 なんとか立ち上がろうとするも、足に力が入らない。このままでは、本気でまずい。飛ばされた拍子に切った額から流れる血。その傷の上を、冷汗が幾筋も伝い、ピリピリと痛む。打ちつけた背はもう、痛いなんてもんじゃない。

 それでも。背後の幹に体重を預け、足に負担をかけぬようそろそろと立ち上がり、迫る化け物に剣を向ける。――ここで死ぬわけには、いかないから。

 歯を食いしばり、気力を奮い立たせる。その後ろから、パサリと、場にそぐわない、軽い羽音がした。

 視界の端を、サッと何か白い物が通り過ぎて。そして。突如。

「ウゴオオオオオオオオオオオ」

と、断末魔の叫びが響いた――。


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