最後の一欠片(ワンピース)
「おや、随分と似合ってるじゃないか。それは……正寛のか……。少しサイズが合ってないようだが……。」
狩ってきた鹿を丸々ドスンと勝手口の前に降ろしながら、稲穂は顎に手を当て、言った。
「うん、色々落ち着いたら、ちゃんと晃希用の服も新調しないとね……。」
一昨日買った服は、クラウスとの一戦でボロボロになってしまったし……。
「そんな高いやつじゃなかったとはいえ……」
買ってまだ一日しか着ていない服が、もうダメになるなんて。
厳しい女子中学生のお財布事情からすれば結構イタイ。
……晃希に非はないが、もうしばらくは、父の衣裳で我慢して貰わねばならない。
竜姫は、ため息をつきつつも、
「稲穂、それ、後で鍋にしましょう。」
朝食用のニジマスの腹に塩をすりこみながら言った。
「ああ。今日も寒そうだしな。鍋なら皆で囲める。……後で捌いておこう。」
そんな会話を平然と交わす彼らの後ろで、
「……かってきたって……、スーパーであんなの売ってたっけ……?」
丸ごと一頭の牡鹿を怖々眺めながら、誠人がポソリと呟いた。
牛や豚や鶏肉ならば、全国どこのスーパーでも売っている。猪肉や鹿肉も、店を選べば、売っているのかもしれない。……が。まさか、こんな丸ごと一頭のままに売る店など……。
「姐さんに狩れない動物なんて、この山には居ないよ。今は冬だからね、冬眠している熊を探すのは骨が折れるから、今回は鹿にしたんだ。」
後ろから、久遠が言った。
「まだ冬も始まったばかりだ。秋にたらふく食いだめした分、脂ものって旨いぞ。」
「……く、熊……、」
「姐さんはこの山の妖を仕切ってるんだ、熊くらい、片手で一捻りさ。夕方までには木の実や山菜なんかも届くはずだよ。」
今、竜姫が調理している魚も、今朝早く、この辺りの山々で暮らす動物達が差し入れに来てくれたものだ。
「この辺りに棲む妖の殆どは、それぞれ静かに暮らす、気の良い奴等だ。……まあ、野生で暮らしている以上、弱肉強食は自然の摂理だからな。中にはやんちゃの過ぎる奴もいるが。」
稲穂は、流しの下の収納棚から包丁を手に取る。
「……この辺りの連中は皆、多喜さまや初代に恩や義理のある連中ばかりだからね。この社に牙を向ける奴はいない。」
稲穂の台詞に久遠が、
「それに、この辺りの妖の九割は、姐さんの舎弟だ。……下手なことを企もうものなら、容赦なく制裁が加えられる。つまり、命知らずな無法者はいないってことさ。」
と、付け加える。
「あの日、社を襲ったのは、他のシマの連中だ。」
魚を焼く香ばしい匂いが漂う中、稲穂は、テーブルに砥石を置き包丁を研ぎながら言った。
「ああ、晃希。明日にでも『奴』と一緒に挨拶回りしてこい。一応、今朝方早く日の出る前にアタシが事情を説明しに回っといたが。」
奴、の一言に皆がウッと詰まるのを見ながら、稲穂が豪快に笑い飛ばした。
「運命は、定まった。新たな歯車は既にはまり、動き始めている。……聞いたよ、聡子達を呼んだんだろう?」
しゅんしゅんと、炊飯ジャーから蒸気があがる。
竜姫は、フライパンにといた鶏卵を流し入れ、熱で固まったそれを箸でくるくる器用に巻いていく。
「はい。……竜姫がこの場所で、暮らしていけるように――。」
問いに答えた晃希に稲穂は、
「そう、お前はもううちの狛犬として、歯車の一つに組み込まれ、既に動き出している。奴とて既にピースの一つだ。こういうのはな、一つでも欠ければ必ず、どこか噛み合わなくなってくるんだ。……逆に言えば、そうである以上、最初の一線さえ越えれば、案外ラクにハマるかもしれん。」
綺麗に巻かれただし巻き玉子と、程よく焦げ目のついた焼き魚に梅干しと海苔。
和食のスタンダードといった風な朝食だ。
「ごめん、もっとスタミナのつきそうなものをと思ったんだけど……、食材が足りなくて……。」
竜姫は皿をテーブルに並べつつ謝った。
――並んだ皿は三人分。
「あれ、稲穂様達の分は?」
尋ねる誠人に、久遠は、
「山の麓の町の家には皆、神棚がある。毎朝、御供えしてくれる家も珍しくない。」
と、説明した。
「この土地を離れない限りは、それがアタシ達の力になる。……嗜好品として食事を楽しむことはあるが、神であるアタシたちには基本、食事は必要ないんだよ。」
ピカピカに研がれた包丁を片手に、鹿を担いで稲穂は、
「昨日から、色々貢いで貰った食料もある。アタシらはそっちをいただくから。アンタらはアンタらで食べな。二時間後、道場で――始めよう。……聡子らが来る前に済ませておかなきゃならんからな。」
そう言って、久遠と外へ出ていった。
「――食べようぜ。」
晃希が言った。
「スプーン使う?……魚、取ろうか?」
席につき、箸を手にした晃希の隣に座り、竜姫は細々と世話を焼く。魚の皿を引き寄せ、身をほぐして食べやすくした分を晃希の茶碗に乗せる。
晃希は、竜姫の箸と手の動きをじっと眺めながら、スプーンで、ほぐされた身を白飯と共に口へ入れる。程よい塩辛さと、ご飯の甘み。
「うん、塩加減もちょうどいい。美味しいよ。」
せっせと子供の世話を焼く母親……もとい姉の様にも見えるが、実年齢は元より外見年齢も少々ながら晃希の方が上。
美形の晃希と人並みの竜姫では、見た目も似ていない。
二人の服装も手伝って、パッと見、一昔前の箱入り坊っちゃんと使用人の娘の様にも見えるが――。
「ウッ、な、何だコレ!?」
梅干しを、手でつまんで口に放り入れた晃希は顔をしかめた。
「梅干しよ。日本に昔からある漬物でね、体に良いの。」
茶の葉を切らしていた為、白湯のまま湯呑みに注ぎ、竜姫は晃希に差し出した。
見た目はともかく、二人の醸し出す甘い空気は、紛れもなく恋人同士のそれだと分かる。
誠人は、雰囲気に飲まれないよう、黙々と箸を動かし、目の前の皿を空にしていく。――昨夜目撃した場面の衝撃も手伝って、油断していると、彼女いない歴が歳と同じな己の心に、わびしい秋風が吹き込んでくるのだ。
……一応、生徒会長を務める優等生であるからして、女の子からの受けは悪くない……のだが。一線を踏み越え、告白してくるような娘は一人としていなかった。
今まで特に、女の子と付き合いたいなどと思ったことのなかった誠人だったが――。
「……こう見せつけられると……、彼女……欲しいなあ……。」
学園へ帰ったら、以前から要望の強かった、男女交際禁止の校則撤廃に乗り出す事を心に決めた。
――そして。
朝食を済ませ、それぞれコンディションを整え。
――二時間後。
……ごくり。
広くて静かな道場の中、唾を飲み込む音が、やけに耳に残る。
「心の準備はいいか……?」
晃希が、尋ねた。
皆、一様に堅い表情である一点に視線を集めている。誰もが頬や口の端を引きつらせ、眉間にはシワが寄っている。
部屋に漂う異様な緊張感に、晃希の顔にじんわり汗が滲んでくる。
「……始めるぞ。」
竜姫は、赤黒い網に絡め捕られたクラウスの魂を前に、真剣な表情で立ち、言った晃希に頷いて見せた。
「……久遠、道場に結界を張ってちょうだい。」
何せ、クラウスだ。もしも下手に暴れて、道場を壊されてはたまらない。久遠はすぐに察して頷いた。
「稲穂も……念のために、もう一重、山に結界を。」
稲穂も同様に頷く。
「誠人くんも。危ないから、少し下がっててちょうだい。」
稲穂から、晃希に渡したものと同じ鈴を受け取りながら、誠人を円卓から遠ざける。
晃希は床に、またしても複雑な紋様を、血で描いていく。
円卓に描かれたものとはまた違った陣。
外枠の円陣の中に五芒星を描き、分割された図形に、更に記号や文字を書き込み、魔方陣を完成させる。
晃希は魔剣を手に、陣の前へ立った。
「……やるぞ、いいな?」
もう一度、皆の表情を窺うように視線を巡らせて。
晃希は、剣を陣の描かれた床に突き立てた。
その瞬間。ぶわっと陣から閃光が迸り、同時に凄まじい魔力が晃希の持つ剣から溢れ出した。
溶けだし、収拾のつかなくなったソフトクリームのように、溶けて流れ落ちていく晃希の魔力は、残らず、陣へと呑み込まれていく。
昨夜、あれだけ辺りを圧倒した晃希の魔力を、貪欲にさらう――だけでは飽きたらず、クラウスの魂を拘束していた血色の触手が、それから離れ、晃希の身体に巻き付き、直接魔力を吸い奪っていく。
血によって描かれた線が、ドクドクと血管の様に脈打ち、そうして奪った晃希の魔力を、陣の中心部へと集め、その全てはクラウスの魂へと注がれていく。
弱々しく明滅を繰り返していたクラウスの魂は、晃希の魔力を浴びるように取り込みながら、次第に光を増し、どんどん強く、大きくなっていく。
ハァハァと、苦しげに肩で息をし、額に玉の汗を浮かべる晃希を尻目に、光の珠は次第に人型を成していく。
その、あらゆる意味で壮絶な光景に、皆が息を呑み、口を挟めずにいる間に、人型は翼を生やし、髪を伸ばし、頭に輪っかを乗せた。
晃希は、その変化をじっと眺めていたが、ピクリと手の指先が動いたのを目に留めると、陣から剣を引き抜き、巻き付く触手を剣で斬り払い、少しよろめきながらも陣から飛び退いた。
……今にも膝をつきそうな顔色だが、晃希は油断なく、卓の上に立つクラウスの喉元に刃を突きつけ、
「我が血と魔力を受けし我が眷族よ。我が剣の前に跪け。」
紅い瞳に妖光と殺気を湛え、そう命じた。
身体から光が消え、確かな人の――いや、天使の型を取り戻したクラウス。
目蓋がゆっくり持ち上がり、前と変わらぬ蒼い瞳が現れ、喉元に光る刃を眺めた。
ぐるりと、周りを見回し――。クラウスは、ため息をついた。……深い、深い、何かを諦めたような、投げやりなため息を――。
「我……は……、」
ポツリと呟いて。……そして。
彼は、以外にもあっさりと剣の前に、膝を折った。文句の一つもなしに、従順を絵に描いたように……。